第5話「リーネ村」
リーネ村へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
山裾に沿って並ぶ家は二十軒ほど。畑から戻る者や、軒先で籠を編む老人の姿がある。小さな村では旅人が珍しいのか、道を歩く四人へ遠慮のない視線が集まった。
「ここなら、山の話も聞けそうだな」
ガレスが背中の荷を揺すり上げる。大剣に食料袋、さらにエル爺の酒まで背負わされているのだから、村人が見るのも無理はない。
「そうじゃろう。わしほどの偉大な魔法使いともなれば、荷物まで人目を引く」
「見られてるのは俺だ!」
朝から続いている言い争いを聞き流し、アゼルは村の奥へ目を向けた。
街道沿いには、宿屋を兼ねた小さな酒場がある。昼時を過ぎたばかりだというのに、扉の前には荷車が一台もなかった。
中へ入ると、煮込み料理の匂いより先に薬草の青臭さが鼻についた。
卓の一つに、頭へ包帯を巻いた男が座っている。その隣では、右腕を吊った若者が顔をしかめながら水を飲んでいた。
店の主人がアゼルたちを見て、ひどく警戒した顔をする。
「旅の方か」
「山へ行きたい。黒狼盗賊団について聞けるか?」
主人の手が止まった。
客たちも一斉に口を閉ざす。
その反応だけで、ここへ来た判断は間違っていなかったと分かった。
「別に、盗賊団の仲間じゃない」
アゼルは外套の前を開き、両手を見せた。
「俺たちは人を捜してる。三日前、この村か近くの街道を、左頬に傷のある男が通らなかったか?」
包帯を巻いた男が顔を上げる。
「あんた、あの人の知り合いか?」
アゼルは男の向かいへ座った。
「まだ同じ奴かは分からない。何があった?」
男は主人から新しい水を受け取り、乾いた唇を湿らせた。
三日前、村の者五人で山道へ入ったという。冬へ向けた薪を集めるためだった。
帰り道で、黒狼盗賊団に襲われた。
荷車も金も差し出した。それでも、顔を見られた盗賊たちは男たちを帰すつもりがなかった。
「そこへ、あの人が現れた」
「どんな男だった?」
「四十五……いや、五十にはなってないと思う。無精髭で、左の頬に古い傷があった。こっちは五人がかりでも何もできなかったのに、盗賊をあっという間に追い払っちまった」
年齢も傷も合っている。
だが、それだけなら似た男がいないとも限らない。
「名前は?」
「聞いたさ。でも、名乗らなかった。礼をさせてくれと言ったら――」
男は、自分でも意味が分からないという顔で続けた。
「恩は返さなくていい、と。返したければ、次に困っている奴を助けろってな」
アゼルは椅子の背へ身体を預けた。
間違いない。
酒代を踏み倒し、弟子へ荷物を押しつけ、助けた相手から礼を言われる前に姿を消す。セレナが二十年間覚えていたものと、同じ言葉だった。
「アルトだ」
声に出すと、三日分の距離が急に近くなった気がした。
リアの顔が明るくなる。
「では、アルトさんはこの近くにいるんですね」
「三日前にはな」
ガレスが卓へ地図を広げた。
「山道で襲われた場所はどこだ?」
包帯の男が地図をのぞき込み、震える指を置く。レイヴェルでセレナが見せた地図の印から大きく外れてはいない。
「よし。食ったらすぐ出るぞ」
ガレスが言うと、店の主人は首を横へ振った。
「今日はやめた方がいい。あいつらは、逃げた俺たちを捜してる」
「なぜ分かる?」
「朝から、山の方で狼煙が上がっていた。ここへ来る気かもしれん」
アゼルは窓の外を見た。
畑へ続く道を、子どもが二人走っている。その先では、何も知らない女たちが洗濯物を干していた。
生き残った者がいる限り、襲った場所も人数も顔も、いつか騎士団へ伝わる。盗賊団にとっては、この村へ口を塞ぎに来る理由がある。
「村に、戦える奴は?」
「今は......まともに剣を使える者なんていない」
「なら、先に――」
外で悲鳴が上がった。
ガレスは地図を畳むより早く、背負っていた大剣をつかみ、扉を押し開けた。
村の入口から、七人の男が入り込んでいた。革鎧は汚れ、剣も斧も手入れされていない。それでも、村人へ向けられた刃が本物であることに変わりはない。
「山道で逃げ帰った奴を出せ!」
先頭の盗賊が、近くにいた男を殴り倒す。
「隠せば村ごと焼くぞ!」
別の男が、軒先へ火種を投げ込んだ。
乾いた薪が燃え上がる。さらに二つ、三つと放られた火が、向かいの家の屋根にも燃え移った。
村人たちが井戸へ走ろうとする。
「やれやれ。年寄りを働かせるでないわい」
酒場の前に出たエル爺が、杖を軽く振った。
燃える屋根の上に、突如として巨大な水の塊が現れた。
宙に浮いた水は一瞬でいくつにも分かれ、薪へ、屋根へ、火の粉が落ちた藁へ、狙い澄ましたように降り注ぐ。
炎は反抗する間もなく、端から水に呑み込まれていった。
呆然と見上げる村人たちの横で、エル爺は濡れた髭の先をつまんだ。
「……少し近すぎたかの」
「何だ、この爺――」
「こっちだ!」
ガレスが背から大剣を下ろし、村人たちの前へ立った。
だが、剣は抜かない。
黒い鞘に収めたまま、両手で構える。
横薙ぎに振られた剣を、鞘の金具で受け止めた。鋼がぶつかる音に、近くの窓が震える。
ガレスは短く息を吐き、地面を踏みしめる。脚から腰へつながった力が、鞘ごとの大剣へ乗った。
一振りだった。
刃ではなく、分厚い鞘の側面が盗賊の剣ごと、その身体を横へ弾き飛ばす。巻き込まれた二人までよろめき、道の端へ倒れ込んだ。
振り抜いた後も姿勢は崩れない。鞘の先の揺れを収め、もう一度、村人を背にして構え直す。
「こいつらには、指一本触れさせん」
正面はガレスに任せられる。
アゼルは左右を見た。
盗賊は七人。三人がガレスへ向かい、二人はエル爺を警戒している。残る二人が家々の間へ散った。
一人は生存者を捜すつもりだ。もう一人は、逃げ遅れた村人へ剣を向けている。
アゼルはそちらへ走った。
「動くな!」
盗賊は村の女をつかみ、首筋へ刃を当てる。
アゼルは視線を固定したまま立ち止まる。
「武器を捨てろ!」
「分かった」
アゼルは素直に短剣を落とした。
盗賊の目が、石の上で跳ねた短剣を追う。
見ているものが変わった。
アゼルは身体を沈めた。
片手が地面へ触れ、額が土につきそうなほど低くなる。
「ガキの頃から、重い荷物を背負わされてさ」
盗賊が顔を上げた。
「何を――」
「足だけは、嫌になるほど鍛えられたんだよ」
地面を蹴る。
次の瞬間、盗賊の視界からアゼルの姿が消えた。
真っ直ぐには進まない。家の壁を蹴り、荷車の影へ滑り込み、向き直ろうとした盗賊の死角へ回る。
振り向いた先にはいない。
背後にもいない。
盗賊が混乱して剣を動かしたときには、アゼルの指がその手首へ触れていた。
武器を奪い、女の腕を引いて離す。
それだけで終わらない。
奪った剣を別の盗賊の足元へ滑らせ、追ってきた男の足を引っかける。倒れかけた身体を避けて方向を変え、その背をガレスの前へ押し出した。
「もう一人!」
「任せろ!」
ガレスが鞘の側面で男の胴を打つ。
アゼル自身の一歩には、敵を倒すほどの力はない。
だが、距離も、立ち位置も、相手が次に見るはずだったものも、すべて勝手に変えていく。
盗賊たちは、誰を追えばいいのかさえ分からなくなった。
「待て! どこへ行った!」
「こっちだ」
背後から肩を叩く。
男が振り返るより早く、腰の短剣を抜き取った。
「アルトにはできない」
少しだけ気分が良かった。
「荷物を持たせて楽してた奴より、持たされてた俺の方が速いからな!」
包囲が崩れる。
正面に隙ができれば、ガレスは逃さない。振り下ろされた斧を鞘の先で跳ね上げ、返す一撃を男の腹へ叩き込む。村人を背へ置いたまま、一度も刃を見せることなく、一人ずつ確実に打ち倒していく。
新たな火種が放られるたび、エル爺の水が空中で小さく分かれ、火だけを正確に叩き落とした。リアは酒場の主人とともに、転んだ子どもや負傷者を建物の陰へ導いている。
やがて、立っている盗賊は二人だけになった。
「退け!」
一人が叫び、村の裏手へ走る。
もう一人も倒れた仲間を置き去りにして、家々の間へ逃げ込んだ。
アゼルは追おうとしたが、背後でうめき声が聞こえた。
最初に殴られた村人が、道の上で頭を押さえている。別の家の前では、腕を斬られた若者が膝をついていた。
逃げた二人より、今は村人が先だ。
「ガレス、ケガ人を酒場へ運んでくれ。エル爺、村に火が残ってないか見てくれ」
「おう」
「わしを火消しの爺さん扱いするでない」
「一番早いだろ」
「それはそうじゃ」
酒場は、すぐに手当ての場所へ変わった。
卓の上から皿が片づけられ、代わりに布と薬草が並べられる。幸い、命に関わる怪我をした者はいないようだった。
リアは血で汚れた布を取り替えながら、宿の主人へ尋ねた。
「きれいな水は、どこにありますか?」
「裏手の井戸だ。桶もある」
「汲んできます!」
アゼルは倒した盗賊の縄を締め直していた。
盗賊がまだ何人いるのか。逃げた二人はどこへ向かったのか。アルトが襲撃を知っていたのか。確かめなければならないことが多い。
しばらくして、主人が空の水差しを持ち上げた。
「遅いな。井戸はすぐ裏だぞ」
アゼルは顔を上げた。
「リアは?」
誰も答えなかった。
リアが桶を持って外へ出たことには気づいた。
だが、呼び止めなかった。
村の中にはガレスもエル爺もいる。逃げた盗賊は、もう山へ戻ったものと思っていた。
酒場を飛び出し、裏手へ回る。
井戸のそばには誰もいない。
倒れた桶から、水が細い流れを作っていた。乾いた土へ染み込み、少しずつ形を失っていく。
その脇に、小さな足跡がある。
さらに、男のものらしい荒い足跡が二つ。
争った跡は短かった。井戸の陰から襲われ、声を上げるより先に押さえ込まれたのだろう。
足跡は村とは逆へ続いている。
黒狼盗賊団の縄張りがある、山の方角へ。
アゼルは落ちていたリアの外套の留め具を拾った。
逃げた盗賊より、怪我人を優先した。それ自体が間違いだったとは思わない。
だが、逃げた二人が村を離れたとは限らなかった。
見落とした。
その一つだけで、リアがいなくなった。
追ってきたガレスが、井戸の前で足を止める。
「……リアはどこだ?」
アゼルは答えられなかった。
手の中で、小さな留め具が痛いほど食い込んでいた。
井戸のそばには、倒れた桶と、地面へこぼれた水だけが残されていた。




