第4話「王都とは逆の道」
翌朝、アゼルは日の出とほとんど同時に目を覚ました。窓の外では、荷車の車輪が石畳を鳴らしている。焼きたてのパンと、夜露に濡れた土の匂いが薄く混じっていた。
昨日まで名も知られていなかったシーフに、宿の主人は一番まともな部屋を貸してくれた。
宿代を渡そうとしても、「あんなものを見せられた後で受け取れるか」と押し返された。英雄扱いされるのは、どうにも落ち着かない。
アゼルは身支度を済ませると、部屋代に足りるだけの硬貨を水差しの下へ隠した。宿の主人が見つける頃には、もう街を出ているつもりだった。
王都へ来いと言われたものの、長い事情聴取を受けるだけだろう。そう考えていたところで、扉が激しく叩かれた。
「アゼル、起きてるか!」
声の主は、昨日知り合ったばかりの大剣使いだった。扉を開けると、ガレスが肉を挟んだパンを頬張っている。
朝からよく食う男である。
「遅いぞ。下でお前を待ってる」
「俺はもう起きてた。勝手に寝坊扱いするな」
「そうなのか? シーフは夜に働いて朝は寝てるものだと」
「偏見がひどいな」
階下の奥にある小さな個室で、真っ白な髭の老人が固いパンと格闘していた。
派手な紫色のローブ。
椅子へ立てかけた杖の先には、五芒星をかたどった飾りが付いていた。
絵本の魔法使いをそのまま連れてきたような姿だが、口から出ているのはありがたい教えではない。
「この宿は客の顎を砕く気か!パンとは噛める物を出すものじゃろう!」
「浸して食べればいいだろ」
ガレスがスープの器を押しやると、老人は不満そうにパンを沈めた。同じ卓には、リアとセレナもいる。
リアの頬にはまだ薄く腫れが残っていたが、昨日のように目を伏せてはいなかった。窓と扉は閉ざされ、室外へ話が漏れないようにされていた。
セレナがアゼルに気づき、向かいの椅子を示す。
「揃いましたね。こちらは、過去にアルト・ヴァイスと行動を共にした方です。彼らしき人物がこの街に立ち寄ったという噂を追い、昨日レイヴェルへ到着したそうです」
「リアとガレスには昨日の騒動の詳細を改めて聞いていたところです。ちょうどそこでアルト・ヴァイスを探していたこのご老人にも同席を願ったのです」
老人は柔らかくなったパンを飲み込み、勢いよく立ち上がった。
「わしは大賢者、エルドラム・フォン・グランディア・セブンス・アークライト!」
個室から音が消えた。
アゼルは老人の顔を見た。
次に、まだ続きがあるのかとセレナを見る。
セレナは何も言わなかった。
「……長いな」
ガレスが深くうなずく。
「俺も一度で覚えるのは諦めた」
「エル爺でいいか」
「初対面で勝手に縮めるでない!」
「じゃあ、もう一回最初から頼む」
「エル爺でよい」
ガレスが吹き出し、リアも小さく笑った。エル爺は憤然と椅子へ戻り、残っていたパンをスープへ沈める。
「それで、アルトの何を知ってる?」
「二十年と十七日前、酒を奢ってもらう約束をした。それきり顔を見せん、性根の曲がった男じゃ」
「日にちまで覚えてるのか」
「当然じゃ。約束は酒の味まで含めて忘れん」
信用していいのか、早くも怪しい。
セレナが卓の上へ古い地図と数枚の書類を広げる。
「夜のうちに、監査局がダリウスの屋敷を捜索しました。地下室から白鷺商会の裏帳簿と、街を出入りした者の報告書が見つかっています」
報告書には人相、服装、荷物、向かった方角が細かく記されていた。商会が邪魔になりそうな旅人を選び、警備隊へ知らせていたらしい。
その一枚に描かれた横顔を見て、アゼルの指が止まる。
左頬を横切る古い傷。
無精髭。
書いた者の悪意なのか、実物よりいくらか人相が悪い。
「三日前、この人物が西門から出るところを見られています」
「……アルトだ」
絵の下手さを差し引いても、見間違えるはずがなかった。
「やはり、そうですか」
セレナが地図上の山へ指を置いた。
向かった先が大まかに記されているようだ。
「ただし、ここへ向かう最短路は黒狼盗賊団の縄張りを通ります」
ガレスが食べかけのパンを皿へ戻した。
黒狼盗賊団。
金になるものなら荷も命も区別せず奪う集団で、街道を行く商人たちから恐れられている。統率が取れており、人数も多い。
腐った警備隊とは違う、本物の犯罪者たちだ。セレナは地図から手を離し、アゼルを見る。
「私はダリウスと証拠品の移送を指揮しなければなりません。あなたにはアルト・ヴァイスの足取りを追って欲しいのです」
「なぜ騎士団がアルトを捜している?」
アゼルの問いに、セレナはわずかに沈黙した。
「その理由も含めて、王都でお話しします。今、この場で明かせることではありません」
「何も教えずに、捜しに行けっていうのか?」
アゼルはやや不服そうに聞く。
「捜索を命じるつもりはありません。お願いしたいのは、アルト・ヴァイスの所在確認です」
セレナはアゼルをまっすぐに見た。
「騎士団として逮捕や連行を求めているわけではありません。アルトを見つけ、その無事を確かめてください。それだけで構いません」
「見つけたら、ここへ連れてくるのか?」
「いいえ。その必要はありません。所在を確認した後、あなた自身が王都へ来てください。騎士団が彼の行方を気にかける理由も、そこでお伝えします」
「分かったよ。三日前なら、まだ足取りを拾えるかもしれない」
アゼルはしぶしぶ了承した。
セレナは地図を畳むと、懐から封蝋の施された書簡を取り出した。
「本来なら、私とともに王都へ来ていただくつもりでした。急な申し出を受けてくださったこと、感謝します」
セレナは書簡をアゼルの前へ置いた。
「昨日お渡しした徽章とともに、これを王都の第一騎士団本部へ届けてください」
「ここにアルトのことが書いてあるのか?」
「あなたへ宛てたものではありません」
「開けるなってことか」
「ええ。あなたがシーフであることを承知のうえでお願いします」
「信用の仕方が嫌味だな」
アゼルは書簡を、昨日受け取った徽章とともに懐へしまった。
「俺も行く」
ガレスが即座に言った。
アゼルは大剣へ目をやる。
「昨日は間に合わなかったからな。今度こそ、この剣が飾りじゃないところを見せてやる」
「自分で飾りって認めてるぞ」
「お前が言い始めたんだろ!」
リアも椅子から立った。
「私も連れていってください」
セレナの眉がわずかに寄る。
「危険な旅です。あなたには戦う術がない」
「分かっています。それでも、助けられたままでいたくないんです」
リアは自分の手を見つめ、ゆっくり握った。
「剣は持てません。でも、荷物を運ぶことも、水を汲むこともできます。怪我をした人の手当をすることだって」
強がっているようには見えなかった。怖さを知ったうえで、ここに立っている。
「自分で決めたんだな?」
「はい」
なら、アゼルから止める理由はない。最後にエル爺が、器を置いた。
「わしも行こう。噂の男が本当にアルトなら、顔を拝んでやりたいのでな」
エル爺は、スープの底へ沈んだパンをフォークでつついた。
「二十年と十七日、待った。これ以上、待たされるのは性に合わん」
「さっきの話、本当なのか?」
「わしは酒と約束には真面目じゃ」
「ただのとぼけた爺さんじゃないだろうな」
「百三十七歳を敬え!」
「百三十七歳?途端に怪しくなったぞ」
「本当じゃ。長生きの秘訣を教えてやろうか?」
「……いや、いい。遠慮するよ」
アゼルは半ば諦めた表情で返した。
セレナは四人の顔を順に見たあと、小さな革袋を卓へ置いた。中で硬貨が重い音を立てる。
「これは支度金です。食料と、必要な道具に使ってください」
アゼルは袋を持ち上げ、重さを確かめた。
「ずいぶん多いな」
「黒狼盗賊団の縄張りへ向かわせるのです。少ないよりはいいでしょう。報酬はまた別で王都でお渡しします」
「余ったら?」
「返してください」
「そこはくれるんじゃないのか」
「あなたを信用することと、騎士団の金を贈ることは別です」
筋が通っていた。アゼルは革袋を自分の荷物へ入れる。盗んだ金と違い、使った額を後で説明しなければならないと思うと、急に重く感じられた。
リアには、宿の女将が用意した旅装が渡された。丈の合う上着と丈夫な靴、それから雨除けの外套。
昨日まで着ていた服は、殴られ、石畳を引きずられて、もう旅に耐えられる状態ではなかった。
「必ず返します」
リアが言うと、女将は鼻を鳴らした。
「戻ってきた時に洗ってくれれば、それでいいよ」
返すためには、戻らなければならない。その約束の仕方を、アゼルは悪くないと思った。
預かった支度金から手早く旅の準備を終わらせる。ガレスは食料の入った袋を背負い、さらにエル爺の荷物まで押しつけられていた。
大剣と二つの荷袋に挟まれ、さすがの巨体も少し傾いている。
「おい爺さん。杖一本の魔法使いが、何をこんなに持ってるんだ」
「非常時の酒と、酒が切れた時のための酒じゃ」
「半分置いていけ!」
「非常事態を招く気か!」
知らない者が見れば、これから危険な山へ向かう一行には見えなかっただろう。
こうして、昨日まで他人だった四人が同じ宿を出た。朝の市場では、店を開く商人たちがアゼルたちを何度も振り返った。昨日の広場にいた者もいるのだろう。
声を掛けてくる者はいなかったが、パン屋の主人が無言で小さな包みを差し出した。中には、焼きたての丸パンが四つ入っていた。
「宿代に続いてこれか。ますます居づらくなるな」
アゼルが代金を出そうとすると、主人はリアを一度見て、さっさと店へ戻ってしまった。リアは包みを胸に抱え、昨日自分が引きずられた広場を振り返る。
やがて小さく頭を下げると、自分からアゼルたちの隣へ並んだ。レイヴェルの西門を抜けると、街道はすぐ二つに分かれている。
左は山へ続く細い道だ。
3日前にアルトが向かった先。
黒狼盗賊団の縄張りを横切る。
右は麓を回る古い交易路で、到着は大きく遅れる。ただし、途中にはリーネという小さな村がある。山の様子を知る者がいるかもしれない。
「左だ」
ガレスは迷わなかった。
「危険なら、なおさら急いだ方がいい」
リアは右の道へ目を向ける。
「でも、黒狼盗賊団が今どこにいるのかも分かりません。村で話を聞ければ、戦わずに済む道が見つかるかも」
エル爺は杖へ両手を載せ、動こうとしない。
「決めるのは先頭を歩く者じゃ」
三人の視線がアゼルに集まる。
「いつから俺が先頭になった?」
「今からだ」
ガレスが当然のように答えた。
アゼルは二つの道を見比べた。
あのアルトが黒狼盗賊団に捕まる姿は想像しにくい。
だが、三日も前の足取りを追っている以上、急いで左へ飛び込んだところで、相手がまだそこにいる保証はなかった。近道にあるのは、分からないという事実だけだ。
「まだ状況が何も分かっていない」
アゼルは右の街道を指した。
「右へ行こう。情報は何よりも強力な武器だ」
ガレスは何か言いかけたが、ふと表情を緩めた。
「……分かった。急ぐことしか考えてなかった」
「村までに別の近道を見つけたら、その時は考え直す」
行き先を決めたからといって、最後まで同じ道を歩く必要はない。アゼルはリーネへ向かう道へ踏み出した。
王都へ向かうはずだった朝、四人が選んだのは、その正反対へ伸びる道だった。




