第3話「アゼル」
「今の手並みを、誰に教わったのですか?」
女性騎士の声には、武器を奪ったことを咎める響きがなかった。答えを確かめようとしているように聞こえた。
「俺の師匠だよ。アルト・ヴァイス。ただの飲んだくれのシーフだ」
「ちょっとした喧嘩がきっかけで、今は一人で旅してる」
女性騎士は最後まで黙って聞いていた。
やがて、その表情がわずかに揺れる。
「……やはり」
彼女は小さく息をついた。
「その人は、左の頬に古い傷がありませんでしたか」
「ある」
「人を助けても、決して名乗ろうとしない」
若いシーフは答えず、女性騎士を見つめた。
それは、彼の師匠であるアルトの過去を知る者でなければ出てこない言葉だった。
アルトは自分の昔話をしたがらなかった。
どこで生まれ、誰からシーフの仕事を教わったのか。なぜ一人で旅をしていたのか。尋ねても、酒を注げ、薪を割れ、飯が冷めると話をそらされた。
仕事先で昔の知り合いらしい者と出会っても、弟子には決して紹介しなかった。
酒が入ると王侯貴族を手玉に取っただの、誰にも破れない宝物庫へ忍び込んだだのと語り始めたが、本気にしたことは一度もない。翌朝になれば、アルト自身が笑って否定したからだ。
「あの飲んだくれを、知ってるのか?」
若いシーフは、女性騎士の返事を待たずに外套の内側へ手を入れた。
指先に触れた小さな金属片を取り出す。
古びた銀貨だった。
片面には、旧統一王国の王冠が刻まれている。反対側にあったはずの王の顔だけが、刃物で念入りに削り落とされていた。
アルトと別れた翌朝、外套の裏地へ差し込まれているのを見つけた。自分で持ち出した覚えはない。喧嘩の前夜にも、アルトの指先でこの銀貨が鈍く光っていた。
勝手に服へ仕込んだのは、間違いなくアルトだった。
若いシーフは旅の間も捨てられず、いつか顔を合わせたときに突き返すつもりで持ち歩いていた。
「アルトを知ってるなら、これにも見覚えがあるか?」
女性騎士の瞳が、削られた銀貨へ吸い寄せられた。
「……無貌の銀貨」
彼女の唇から、その名がこぼれる。
彼女は手を伸ばしかけたが、触れる前に止めた。
そして、銀貨を包むように若いシーフの手を閉じさせる。
「それを人前に晒してはいけません」
女性騎士は声を落とした。広場の喧騒に紛れ、その言葉は若いシーフにだけ届いた。
「その人について、ここでは話せません」
彼女は周囲へ視線を巡らせた。
事情を聞かれていた警備兵も、捕らえられたダリウスも、こちらの様子を窺っている。旅の剣士でさえ、ただならぬ空気を感じ取ったのか口を閉ざしていた。
「王都へ来てください。あなたの師、アルト・ヴァイスについてお伝えすべきことがあります」
「あの飲んだくれに、そこまで勿体ぶるような話があるのか?」
女性騎士は答えなかった。
ただ、若いシーフの手に隠された銀貨を見つめる目だけが、その問いを冗談では済ませてくれなかった。
「二十年前、私はアルト・ヴァイスに命を救われました」
若いシーフは彼女を改めて見た。
「待てよ……二十年前って……あんたいくつ?」
旅の剣士が口元を押さえ、第一騎士団の騎士たちは一斉に視線を逸らした。
縄を解かれた少女まで、驚いた顔で若いシーフを見ている。
女性騎士は無表情のまま、質問をした相手を見つめ返した。
若いシーフは、何かまずいことを言ったらしいと遅れて気づいた。
「ふっ」
女性騎士の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「三十八です。二十年前は十八で、騎士見習いでした」
彼女は若いシーフを見つめる。
「あの日、レイヴェルは大きな災厄に見舞われました」
女性騎士の声が低くなる。
「何が起きたのか、今も公には詳しく語られていません。私はあの混乱の中で重傷を負い、動けなくなりました。そこへ、アルト・ヴァイスが現れたのです」
アルトは十八歳だった騎士見習いを安全な場所まで運ぶと、名も告げずに立ち去ろうとしたという。
何か礼をさせてほしいと追いすがった彼女へ、アルトが残した答えは短かった。
女性騎士の目が、遠い記憶を見るように細められる。
「恩は返さなくて良い。次の誰かを助けろ、と」
聞き覚えのある言葉だった。
アルトは助けた相手から礼を受け取らなかった。理由を尋ねても、「恩を返されるなんてめんどくせえ」としか答えなかった。
金を差し出されれば、相手が目を離した隙に財布へ戻した。食事を振る舞われれば、弟子だけを席へ座らせ、自分は酒を探しに消えた。
感謝されることから逃げるような男だった。
酒のつまみに混ぜていた言葉を、女性騎士は二十年も覚えていた。
「私は第一騎士団副団長、セレナ・アルディスです」
セレナが名乗る。
「あなたの名前を、聞かせてもらえますか?」
若いシーフは口を開きかけ、止まった。
街へ入るときも、宿を取るときも名前は必要だった。だが、今だけは違う問いに聞こえた。
自分が何者なのかを尋ねられている。
師匠と喧嘩して決別した、名もなき旅人なのか。
それとも、目の前の悪へ勝手に腹を立て、警備隊の武器を残らず奪った一人のシーフなのか。
アルトが何者だったとしても、その名へ隠れるつもりはなかった。
若いシーフは手にしていた無貌の銀貨を握り、顔を上げた。
「俺は……アゼル。アルトが気まぐれで拾ったガキに付けた名だ」
セレナの瞳が見開かれる。
「あの人が、あなたを……」
「そんなに驚くことなのか?」
「あの人は誰にも執着しない人でした。少なくとも、私はそう思っていました」
セレナの表情が柔らかくなる。
「その人があなたへ名前を与え、育てた。きっと、言葉にするより大切な意味があったのでしょう」
アゼルは返事をしなかった。
アルトは何も言わなかった。
朝になれば乱暴に毛布を剥がし、重い荷物は全部弟子へ押しつけた。靴底が減れば黙って直した。
仕事で怪我をすれば、下手くそと怒鳴りながら薬を塗った。自分の皿から肉を盗めば殴るくせに、翌朝のスープには少し大きな肉が入っていた。
旅立ちの日も、「腹が減ったら戻ってこい」と言っただけだった。
親子でも、正式な師弟でもない。
それでも、あの日々が嘘だったとは思わなかった。
今さら別の意味があったと言われても、本人の口から聞かされなければ納得できない。
「……アゼルさん」
か細い声が、その名を呼んだ。
解放された少女が、アゼルの前へ歩いてくる。
彼女は深く頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございました。私の名前はリアです」
「俺が勝手に腹を立てただけだよ」
「それでも、助けてもらいました」
リアは顔を上げる。
頬は腫れたままだが、その目はもう伏せられていなかった。
「今日のことは、忘れません」
旅の剣士も大剣を背負い直し、一歩前へ出た。
「俺はガレスだ。見ての通り剣士だ」
「見れば分かる。武器だけは立派だからな」
「だけって何だ、だけって」
ガレスは不満そうな顔をした後、豪快に笑った。
「まあいい。お前とは、また会う気がする」
セレナが懐から銀色の徽章を取り出した。
王家と第一騎士団、二つの紋章が刻まれている。
「アゼル。王都へ来てください。アルト・ヴァイスについて、まだ話したいことがあります」
「俺が行っても、門で捕まらないか?」
足元には盗んだ金貨が散らばり、背後には警備隊から奪った武器の山がある。
「事情聴取は必要です」
「やっぱりか」
「ですが、その徽章を見せれば王都の正門は通れます」
アゼルは渋々、徽章を受け取った。
セレナは、アゼルにだけ聞こえるよう声を落とした。
「その銀貨を託されたあなたには、耳に入れておくべきでしょう」
セレナの声から、わずかな笑みが消える。
「最近、裏社会で同じ噂が流れています」
無貌の銀貨が夕日を受け、アゼルの手の中で鈍く光った。
「『紅月のシーフが、再び動き出した』と」
それがアルトとどう関わるのか。そもそも本当に関わっているのか。答えは一つもない。
そして、なぜ大切にしていた無貌の銀貨を弟子の懐へ忍ばせたのか。
その答えだけは、本人を見つけて聞き出すしかなかった。
アゼルは無貌の銀貨と徽章を重ね、懐へしまった。
夕暮れの広場で、名もなきシーフの旅は終わった。
ここから先を歩くのは、一人のシーフ――アゼルだった。




