第14話「見えない壁」
二階の中央に立つ人影は、扉が開いても身じろぎ一つしなかった。
頭から足元まで、灰色の外套に覆われている。
フードは深く、見えるのは女の口元だけだった。武器らしいものは持っていない。両腕を下ろし、ただ静かに立っている。
その向こうには、壁に沿って上へ続く石段があった。
壁際には、張り出した石組みを支える細い柱が数本並んでいる。そのうちの一本には亀裂が走り、根元へ白い石粉が落ちていた。
「昔はいなかったんだな?」
アゼルは人影から目を離さず、エル爺へ確かめた。
「うむ。少なくとも、わしが登った時にはの」
「じゃあ、こいつが何者かは?」
「知らん」
短い返事だった。
アゼルは重心を低くしたまま、女の動きを待った。
動かない。
こちらを見ているのかさえ分からない。
「聞こえるか?」
声を掛けても、返事はない。
「俺たちは上へ行きたい。道を通してくれないか」
何も変わらなかった。
「聞こえてないんじゃないか?」
ガレスが声を落とす。
クレハは女を見たまま、わずかに首を傾ける。
「襲ってくる気配はないわ」
「でも、道の真ん中に立っている」
レオンの手は、腰のショートソードへ添えられていた。
「何もしないなら、横を通らせてもらうぞ」
念のためもう一度告げる。
返事はない。
アゼルは一人で進んだ。
女の正面を避け、左側へ大きく回り込む。すぐに動けるだけの距離を残しながら、上階へ続く石段へ近づいた。
あと数歩。
そこで、肩が何かにぶつかった。
「……何だ?」
目の前には何もない。
手を伸ばす。 指先が空中で止まった。
押しても、引っかいても動かない。石壁のように硬い何かが、女と石段の間を塞いでいる。
「壁がある」
クレハが近づき、アゼルの隣で手を伸ばした。
「本当ね」
見えない表面へ指を滑らせる。
少し横へ動かすと、指先は緩やかな曲線に沿って手前へ戻ってきた。
エル爺も杖をつきながら進み、何もない空間へ手をかざした。
「……高度な結界術じゃな」
「結界?」
「うむ。見えんだけで、そこに壁があると思えばよい」
エル爺は指先で見えない壁を軽く叩いた。
こつ、と石を叩いたような音がした。
「この女がやってるのか?」
「ほかに術者が隠れておらねばの」
アゼルは女を見る。
「俺たちを通さないつもりか?」
答えはない。
「だったら、話は早い!」
ガレスが背中から大剣を下ろした。
「壊せばいいんだろ!」
「壁だけだぞ」
「分かってる!」
ガレスは両足を開き、見えない壁へ鞘の腹を叩き込む。
重い音が部屋へ響いた。
何もない空間がわずかに歪む。
乾いた音とともに、鞘の先が一歩分ほど奥へ進んだ。
「おっ、いけるぞ!」
だが、大剣はそこで再び止まった。
ガレスが力を込めても、今度は少しも動かない。
「ずいぶん厚い壁みたいだな」
アゼルは大剣が止まった場所へ手を伸ばした。
やはり見えない壁はそこに確かにある。
「別の場所も試す」
レオンが女の右側へ回った。
傷を庇い、大きくは踏み込まない。ショートソードを短く振り、切っ先を見えない壁へ当てる。
一度。
二度。
三度目で、剣がわずかに奥へ入った。
「何かを壊した手応えはある」
レオンはそのまま押し込もうとした。
だが、剣先はすぐ先で止まった。
「やはり、相当厚そうだな」
若者たちの手が止まったところで、少し考え込んでいたエル爺が前へ出た。
「ちと下がっておれ」
「やれるのか?」
「ここまで見せてもろうたからの。今度は、わしが確かめる番じゃ」
五人は扉の近くまで下がった。
エル爺は杖を構えた。
五芒星をかたどった先端に、炎が灯る。
ほんの小さな火だった。
次の瞬間。
轟、と部屋の空気が震えた。
杖の先から噴き上がった炎が一気に膨れ上がる。
赤く燃え上がった炎は女の頭上を越え、二階の天井を覆い隠すほどに広がった。
「うおっ!」
ガレスが思わず腕で顔を庇う。
炎の塊が、そのまま見えない結界へ叩きつけられた。
轟音。
部屋全体が赤く染まる。
結界に阻まれた炎が左右へ逃げようと膨れ上がり、爆風が石室を呑み込もうとした。
「まだじゃ」
エル爺が杖を返す。
風が鳴った。
広がろうとしていた炎と爆風が、見えない巨大な手に掴まれたように向きを変える。
壁にも。 床にも。 天井にも逃がさない。
膨れ上がった衝撃そのものを押し返し、結界の中心へ集めていく。
炎が渦を巻いた。
爆風が一点へ収束する。
その先にいるのは、結界師ただ一人。
乾いた破裂音が連続した。
炎は空間の何かを砕きながら、少しずつ女へ近づいていく。
エル爺がさらに杖を押し込んだ。
床の埃が後方へ吹き飛ぶ。
それでも届かない。
やがてエル爺が杖を引いた。
風がほどける。
押さえ込まれていた炎が細くなり、最後には跡形もなく消えた。
静けさが戻る。
女は同じ場所に立っていた。
外套にも、周囲の石にも、焦げ跡一つない。
「……やはりのう」
エル爺が杖を下ろした。
「今ので駄目なのかよ……」
ガレスが呆れたように呟く。
「少しは壊せたようじゃが、すぐにまた阻まれたのう」
「エル爺の魔法でも壊せないのか?」
「得意分野が違うだけじゃ。わしにあれほどの結界は作れんが、あの者にも同じ炎は出せまい」
ガレスは結界師とエル爺を交互に見た。
「じゃあ、エル爺もあれと同じことはできねえのか?」
「できん」
あまりにあっさりした返事だった。
「できねえのかよ」
「だって結界術って面白くなさそうだったんじゃもん」
「理由それかよ!」
エル爺は気にした様子もなく、結界のあった空間へ目を向ける。
「結界術は、ただ壁を出せば終わりというものではない。どこへ、どれだけ、どう固定するか。こやつほどのものとなれば、相当な技術じゃ。わしはそこまで覚えようとは思わなんだ」
アゼルは炎が消えた空間を見つめた。
ガレスの大剣も、レオンの剣も、一度は奥へ進んだ。
今の炎も、破裂音がするたび女へ近づいていた。
厚い一枚の壁を、少しずつ削っている。
そう思っていた。
「……違うな」
「何が?」
クレハが尋ねる。
「厚すぎるんじゃない。俺たちが見えてないだけで、別の何かがある」
アゼルは腰の小物入れを探った。
取り出したのは、平たい木片へ巻きつけた灰色の細い線だった。
「何だ、それ」
「ワイヤーだ。細い金属を何本も撚ってある」
「シーフが好んで使う道具じゃな」
エル爺の言葉を聞きながら、アゼルは端をガレスへ渡した。
「持っててくれ」
「これで何すんだ?」
「見るんだよ」
ワイヤーを張り、見えない壁へ押し当てる。
線の中央だけが空中で止まり、緩やかな曲線を描いた。
アゼルは高さを変えた。
今度は、少し手前で止まる。
「……ん?」
横へずらす。
途中で線が奥へ落ちた。 だが、その先でまた止まる。
もう一度、角度を変える。
灰色の線が、先ほどとは違う曲線を描いた。
「……一枚じゃない」
アゼルが呟いた。
「何がだ?」
「結界だよ」
もう一度ワイヤーを張る。
手前で止まる線。 その奥で、別の曲線に沿って止まる線。
「何枚か重なってる」
ガレスが目を凝らす。
「だから壊しても、すぐ止められてたのか」
「たぶんな」
アゼルはワイヤーを緩めた。
その時、クレハが結界師の足元へ目を留めた。
「……あれ」
女を囲むように、三つの石が置かれている。
瓦礫とは違う。
大きさも形も揃い、明らかに意図して並べられたものだった。
エル爺が目を細める。
「なるほどのう」
「何か分かったのか?」
「あの三つが支点じゃ。三点を結んで、結界を固定しておる」
アゼルは三つの石と、ワイヤーが描いた曲線を見比べた。
「じゃあ、あれがこの人の結界?」
「おそらくの」
アゼルはしゃがみ込んだ。
床には、崩れた石や欠けた壁材が散らばっている。
その中に、妙に角の整った小石があった。
拾い上げ、親指で埃を拭う。
「……これも?」
表面に、細い溝が刻まれていた。
欠けや傷ではない。 いくつもの線が結ばれた、小さな術式。
「こっちにもあるわ」
クレハが別の一つを拾う。
レオンも足元を探り、瓦礫の中から同じものを見つけた。
見回せば、同じような小石が床にも壁際にも散らばっている。
「全部、同じ術式か」
アゼルが言う。
エル爺は一つを受け取り、刻まれた線を眺めた。
「そういうことか」
「どういうことだ?」
「術者の周りにある三つと、やっとることは同じじゃ。ただし、こちらはずっと小さい」
エル爺は周囲へ散らばった小石を杖で示した。
「三つを一組にして、小さな結界を作る。それを位置も大きさも少しずつ変えながら、幾重にも重ねておるんじゃ」
「一枚一枚は壊せる」
レオンが先ほど剣を打ち込んだ場所を見る。
「でも、その奥にまた別の結界がある」
「うむ。ガレスの大剣も、おぬしの剣も、わしの魔法も同じじゃ。一つ壊すたびに力を削られ、その次に止められる」
エル爺は結界師へ目を向けた。
「そして最後に、あの三つを支点にした術者自身の強力な結界が残る。わしの炎を止めたのは、あれじゃろうな」
アゼルは部屋を見回した。
ただの瓦礫にしか見えなかった小石。
その一つ一つが、見えない壁を作るための仕掛けだった。
何枚あるのか、もう見当もつかない。
エル爺が小さく息を吐いた。
「これほどの結界術を修めるとは。余程守りたいものがあったんじゃの」
返事はない。
「周りの結界はこの術式が込められた小石を蹴散らしちまえば消えるのか?」
「おぬしは分かりやすくて良いのう。理屈ではそうじゃ。張られた結界そのものは動かせんが、支点になっとる小石なら簡単に動かせそうじゃからの」
「面倒だが、仕掛けが分かればこっちのもんだ」
ガレスが踏み出したその時だった。
空中に固定されたワイヤーが突然力を失ったように落ちた。
「何だ?勝手に落ちたぞ」
その瞬間。
身体が止まった。
「……っ!」
腕も、脚も動かない。
胸から腰までを硬い空気に挟まれ、指一本動かせなかった。
アゼルは重心を変えることさえできない。
ガレスの両腕も、大剣の柄を握ったまま止まっていた。
「ぬおおっ……!」
力を込める。 筋肉が盛り上がっても、腕は少しも上がらない。
レオンは剣を抜きかけた姿勢で、肩と手首を固定されていた。
クレハの右手も、鉄針へ届く直前で止まっている。
「拘束に切り替えたか。なんとも器用な」
エル爺も杖を持った腕を動かそうとする。
だが、杖の先はぴたりと空中で止まったままだった。
戦いに加わっていた五人が、一度に封じられている。
「……どうしたんですか?」
リアの声が震えた。
彼女だけは、何にも捕らえられていなかった。
武器を持たず、一度も攻撃へ加わっていないリアだけが。
「リア、下がれ!」
アゼルが叫ぶ。
その時だった。
ミシ、と石の軋む音がした。
部屋の壁際に立つ古い柱。
入った時から細い亀裂が走っていた一本から、白い石粉がさらさらと落ちている。
柱の根元には、術式を刻んだ小石がいくつも転がっている。
その周囲をなぞっていたワイヤーは、もう空中に浮いていなかった。
「……まさか!」
さっきまで、あの柱の周りにも結界が張られていた。
それが消えた途端、亀裂が広がっている。
柱が、ゆっくりと傾く。
その先にいるのは、クレハだった。
「クレハ!」
アゼルが全身へ力を込める。
硬い空気は、身体へ食い込むだけで動かない。
ガレスも、レオンも、エル爺も同じだった。
クレハは柱を見上げ、それから自分へ走ってくるリアを見た。
何をしようとしているのか、すぐに分かった。
「来ちゃダメ!」
普段より強い声が、石の部屋へ響いた。
それでも、リアは止まらなかった。
崩れ始めた柱の下へ飛び込み、動けないクレハへ覆いかぶさる。
「リア!」
石柱が折れた。
轟音。
柱が床へ叩きつけられ、壁際の石材まで巻き込んで崩れ落ちる。
リアとクレハの姿が、一瞬で瓦礫の下へ消えた。
同時に。
アゼルの身体を縛っていた硬い空気が消えた。
ガレスの腕が動く。 レオンの剣が鞘へ戻る。 エル爺の杖も自由になる。
「リア!」
アゼルは走った。
「クレハ!」
ガレスとレオンも続く。
結界師は、すぐ横で変わらず佇んでいた。
ガレスが倒れた柱へ両腕を回す。
「持ち上げる! 下を見ろ!」
全身へ力を込め、巨大な柱片を浮かせる。
アゼルとレオンは、その下から砕けた石を掻き出した。
「リア! 返事をしろ!」
「クレハ、聞こえるか!」
答えはない。
細かな石で指先が切れる。 アゼルは構わず、次の瓦礫へ手を伸ばした。
その時、別の石が軋んだ。
柱を失った壁の一部が外れ、結界師の頭上へ傾いている。
やはり結界師は動かなかった。
「……まったく」
何かを理解したようにエル爺が杖を構えた。
「こういうのは覚えとらんと言ったばかりなんじゃがの」
落下する石材。
エル爺が杖を振る。
風が四方から走った。
落ちてくる石材の下でぶつかり合い、激しく渦を巻く。
固定された壁ではない。
絶えず流れ続ける風が、落下する石を下から押し返している。
石材が結界師の頭上ギリギリで止まった。
エル爺の外套が激しくはためく。
「できねえんじゃなかったのかよ!」
瓦礫を持ち上げながら、ガレスが叫ぶ。
「これは結界ではない! それっぽくしとるだけじゃ!」
「同じだろ!」
「全然違うわい! 文句言っとらんで早うせんか!」
エル爺が杖を横へ振る。
風の流れが傾き、石材が横へ押し流される。
誰もいない床へ落ち、重い音を立てた。
その間にも、アゼルたちは瓦礫を除き続けた。
ガレスが二つ目の大きな石を抱え、横へ退ける。
レオンが空いた隙間へ腕を入れ、奥の小石を掻き出した。
「待て」
アゼルの手が止まった。
瓦礫の奥。
細かな石が、不自然な位置で止まっている。
緩やかな丸みを描くように、何もない空間へ積み重なっていた。
「……これ」
アゼルは息を呑んだ。
先ほどワイヤーでなぞったものと同じ輪郭。
「下にいる!」
三人で周囲の石を退ける。
最後の大きな欠片をガレスが持ち上げた。
そこで初めて見えた。
透明な結界。
その内側で、リアがクレハへ覆いかぶさっている。
二人とも埃まみれだった。 だが、どこにも瓦礫は触れていない。
リアがゆっくりと顔を上げた。
「……アゼルさん」
声が聞こえた。
アゼルの全身から力が抜けた。
「……よかった」
ほどなくして、二人を包んでいた見えない壁が消えた。
レオンがリアへ手を伸ばし、ガレスがクレハの身体を支えた。
「怪我はないか?」
「はい。クレハさんも大丈夫です」
「それは私が答えることよ」
クレハの声にも、いつもの調子が戻っていた。
アゼルは振り返った。
結界師は、元いた場所に立っている。
その横では、エル爺が杖を下ろしたところだった。
アゼルには、何が起きたのか分かった。
「ありがとう」
結界師へ告げる。
返事はない。
何の反応もない。
クレハは立ち上がると、リアの肩や腕を確かめた。
「本当に、どこも痛くない?」
「大丈夫です」
リアの返事を聞き、クレハは小さく息を吐いた。
「……これで貸し借りなしね」
だが、リアは首を横へ振った。
「守ったのは、この人です」
リアが結界師を見る。
クレハも、その視線を追った。
何も言わなかった。
部屋へ静けさが戻る。
しばらくして、空中に引っかかったままだった残りのワイヤーが、ぱらぱらと音を立てて床へ落ちた。
重なっていた小さな結界が消えている。
結界師は何も言わない。
身じろぎもしない。
アゼルは床のワイヤーを拾い、木片へ巻き直した。
それから、上へ続く石段へ向かう。
今度は、何にも阻まれなかった。
「……通っていいってことか」
返事はない。
それでも、見えない壁が戻ることはなかった。
誰も勝ったとは言わなかった。
ガレスの大剣でも、エル爺の魔法でも、最後の結界を破ることはできなかった。
ただ、先へ続く道が開いている。
六人は結界師の横を通り、上階へ続く石段へ足を掛けた。
リアだけが一度立ち止まり、女へ小さく頭を下げる。
結界師は、何も言わない。
先ほどまで六人を止めていた見えない壁は、もうどこにもなかった。




