第12話「灰冠の塔」
魔獣との戦いから、半日ほどが過ぎた。
山道はいつの間にか人の通った跡を失い、木の根と苔に覆われていた。左右から伸びた枝が頭上で重なり、昼だというのに森の奥は薄暗い。
「この先を見てくるわ」
クレハは近くの木へ手を掛けると、幹を蹴って枝の上へ跳んだ。葉を揺らす音が二度しただけで、その姿は緑の中へ消える。
アゼルはその場へしゃがみ、湿った土を指先でなぞった。
幅の広い足跡が、いくつも残っている。
爪が深く食い込み、踏み荒らされた草はまだ起き上がっていない。
「新しいな」
顔を上げると、少し先の木に爪痕があった。アゼルの頭より高い位置から、樹皮が縦に裂かれている。
その下には別の足跡が重なっていた。今度は細く、数が多い。大きさから見れば、狼に近い。
頭上で枝が鳴った。
クレハが音もなく地面へ降りる。
「右に二頭いる。黒い毛の、大きな獣よ。さっきの猪とは違う」
「左は駄目だ。新しい足跡がある」
アゼルは地面へ残った跡を示した。
「沢沿いに回ろう。少し戻れば、水の浅いところがあった」
「そうね」
どちらが指示したわけでもない。
クレハは再び樹上へ上がり、アゼルは沢へ下りる斜面を探す。
高い場所から獣の姿と進む方角を見るクレハ。地上に残された痕跡から、いつ、何が通ったのかを読むアゼル。
二人の判断を重ねることで、一行は魔獣と出会わずに先へ進んだ。
「なあ」
沢を渡り終えたところで、ガレスが背後を振り返った。
「二頭くらいなら、倒した方が早くないか?」
「一体、二体ならな」
アゼルは倒れた草の向きを確かめながら答えた。
「でも、あれだけじゃない」
「まだいるのか?」
「この辺りを通った跡だけで、三種類はいるわ」
樹上からクレハの声が落ちてくる。
「全部相手にしていたら、塔へ着く頃には日が暮れる」
「腕が鳴るんだがな」
「もう十分振ったでしょう」
「あれは二頭だけだ」
「増やそうとしないでください」
リアにまで止められ、ガレスは残念そうに大剣の柄から手を離した。
それからも、回避は何度も続いた。
沢を離れて間もなく、前方から低い唸り声が聞こえた。
一度斜面を上り、遠回りした先には、太い木をへし折って進んだ跡があった。
引き返して谷側へ回ると、今度は遠くから甲高い咆哮が響いた。鳥の声にも聞こえたが、羽ばたきの音は枝をまとめて震わせるほど大きかった。
アゼルは折れた小枝を拾った。
樹液がまだ乾いていない。
「こっちも通ったばかりだ」
「なら、さらに下へ回るしかないわね」
クレハが地図へ目を落とす。
「下には何がいる?」
「さっき見た限りでは何も」
「今は?」
「もう一度、見てくる」
クレハが木へ上がる。
これで何度目か、アゼルは数えるのをやめていた。
「……多くないか?」
隣を歩いていたレオンが周囲を見る。
「村の近くでも、魔獣が同じ場所へ集まることはあった。だが、これほどではない」
「多いわね」
戻ってきたクレハが答えた。
「いや、多いっていうより……集まりすぎてる」
アゼルは土に残った足跡と、木の爪痕を交互に見た。
猪に似た魔獣。
狼に似た群れ。
木へ爪を立てる大きな何か。
空を飛ぶものまでいる。
「これだけ縄張りが重なるのは変よ」
クレハは森の奥へ目を向けた。
「普通なら、もっと離れて棲むはず」
「塔が近いからなのか?」
レオンの問いに、アゼルは肩をすくめる。
「だったら歓迎の仕方が雑すぎるな」
「歓迎されに来たわけではないだろう」
「向こうはそう思ってないかもしれないぞ」
冗談めかして答えたものの、アゼルにも理由は分からなかった。
エル爺へ目を向ける。
老人は何も言わず、木々の向こうを見ていた。普段より少しだけ目を細めている。
「何か知ってるのか?」
「さての」
「その言い方は、何か知ってる時のやつだろ」
「年寄りを疑うでない」
「昨日からずっと疑ってるよ」
エル爺は答えず、杖をついて歩き出した。
一行はさらに慎重に進んだ。
クレハが先を見て、アゼルが道を選ぶ。
姿を見ずに避けられた魔獣もいれば、木々の隙間を横切る影だけが見えたものもいた。
すぐ近くで唸り声がした時には、全員が岩陰へ身を伏せた。
長い尾を引きずる獣が、一行の前をゆっくり通り過ぎる。鼻を鳴らし、何かを探すように地面の匂いを嗅いでいたが、やがて森の奥へ消えた。
足音が遠ざかる。
それを待ってから、アゼルは立ち上がった。
「行こう」
再び歩き始める。
しばらくして、細い尾根へ出た。
そこでアゼルは足を止めた。
「……待て」
後ろを歩く全員が止まる。
「どうした?」
ガレスが声を落とす。
アゼルは答えず、耳を澄ませた。
葉が風に擦れる音。
遠くで鳴く鳥。
低い枝を、小さな動物が走り抜ける気配。
それだけだった。
先ほどまで絶えず聞こえていた唸り声がない。
枝を踏み折る重い足音も、遠くの咆哮もない。
地面を見る。
新しい足跡が、一つも見当たらなかった。
「クレハ」
「見てくる」
呼び終えるより早く、クレハは木の上へ消えた。
待つ時間が、妙に長く感じられた。
鳥は鳴いている。
風も止まってはいない。
足元の茂みから小さな蜥蜴が顔を出し、何事もなかったように石の下へ潜った。
森は生きている。
ただ、魔獣の気配だけが消えていた。
クレハが降りてくる。
「いない」
「どこまで?」
「見える範囲には、一体も」
「……さっきまで、あれだけいたのに?」
「理由は分からない」
クレハはもう一度、木々の向こうへ目を向けた。
警戒は解いていない。
むしろ姿が見えなくなったことで、先ほどより表情が硬くなっていた。
レオンが周囲を見回す。
「ここから先へは、入ってこないのか」
「そう見えるな」
アゼルは来た道を振り返った。
同じ森が続いているだけだった。
柵も壁もない。地面の色さえ変わっていない。
それでも、見えない何かを境に、魔獣だけが先へ進むのをやめている。
エル爺は、一人だけ前を見ていた。
さらに半刻ほど進むと、木々が途切れた。
山腹に開けた場所があり、その向こうに灰色の石塔が立っていた。
豪華な装飾はない。
王城のような広がりも、見上げる者を威圧するための巨大さもなかった。
細長い塔の表面は長い風雨に削られ、ところどころ黒ずんでいる。窓らしいものは少なく、深い影を落とす細い穴が並んでいた。
森に隠されていたというより、森と山が長い時間をかけて周囲へ積み重なったように見える。
こんな場所に、ずっと立っていた。
誰に見られることも求めず。
何のためにあるのかも告げずに。
「……あれが」
レオンが立ち止まる。
エル爺は塔を見上げ、静かに言った。
「灰冠の塔じゃ」
アゼルは老人を見る。
「知ってるのか?」
「知っておる」
エル爺は杖へ両手を重ねた。
いつものように笑ってごまかすこともなく、塔から目を離さない。
「わしも昔、一度登ったことがある」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「それなら、もっと早く言えよ!」
最初に声を上げたのはガレスだった。
「おぬしらの探す古い塔が、わしの知るものと同じとは限らんかったからの」
「塔が動くのか?」
「そういう意味ではない。山奥の古い塔など、ほかにもある」
「でも、あれは知ってるんだな」
「うむ」
短い返事だった。
「いつ登ったの?」
クレハが尋ねる。
「若い頃じゃ。調査を頼まれての」
「調査?」
「うむ。当時は灰冠の塔などという名もなかった。ただの古い遺跡として記録されておった。わしが生まれるより前の記録にも残っておったが、誰が、何のために建てたのかは分からなんだ」
「じゃあ、灰冠って名前は後からついたのか?」
「後になって、どこぞの国の王がそう呼び始めたと聞いておる。もっとも、名がついたところで近づく者は増えなんだ」
エル爺の声から、わずかに明るさが消えた。
「塔へ向かったまま戻らぬ者が増えた。危険な場所として扱われ、やがて地図からも消されていった。今では正確な場所を知る者も少ないじゃろう」
レオンは塔を見つめたまま尋ねる。
「では、塔を登れば勇者になれるという話は?」
「そんな場所ではない」
エル爺ははっきり答えた。
「アルトの言った通りじゃ。ありがたい場所ではない」
レオンの手が、腰の剣へ触れた。
「では、何があるんです?」
エル爺はしばらく黙っていた。
「あそこで何を見たかは、話さん」
「なぜです?」
「わしの答えを先に聞いても、おぬしの答えにはならんからじゃ」
それ以上は語らない。
いつもの冗談で逃げたのではないことだけは、アゼルにも分かった。
「登れば、何かを与えてもらえるわけではないんですね」
「少なくとも、勇者の資格とやらを配る場所ではない」
エル爺はレオンを笑わなかった。
塔へ向かう理由を、くだらないとも言わなかった。
「その話を聞いても、行くかの?」
レオンは、長い時をそこに立ち続けた石造りの塔を見上げた。
答えるまでに、少しだけ時間がかかった。
「それでも行きます」
「そうか」
エル爺は止めなかった。
「俺はアルトを追う」
アゼルも塔へ目を向ける。
「勇者になれるかどうかは知らない。でも、あいつが向かったなら、行けば何か分かる」
「なら、行き先は変わらないわね」
クレハが地図を畳んだ。
六人は再び歩き始めた。
魔獣のいない森を抜け、灰冠の塔へ向かって。
アゼルは一度だけ振り返った。
エル爺は、まだその場に立っていた。
昔登った場所を懐かしむような顔ではない。
目の前にあるものが、本当に自分の知る塔と同じなのか。
それを確かめるように、灰色の塔を見つめていた。
やがて杖が地面を打つ。
エル爺は何も言わず、一行の後を追った。
灰冠の塔は、森の向こうで静かに待っていた。




