第10話「ありがたい場所じゃねえ」
リーネ村を出て半刻ほど歩いたところで、クレハが足を止めた。
街道と呼べる道はすでに細くなり、左右から伸びた草が足首へ触れている。クレハは道端の平たい岩へ地図を広げると、現在地と山の稜線を交互に確かめた。
「古い塔までは、山を二つ越える必要があるわ」
「二つか」
アゼルは地図ではなく、目の前に重なる山々を見た。
近くに見える一つ目の山だけでも、低くなった雲が頂を隠そうとしている。その奥に、もう一つあるらしい。
「何日だ?」
「普通に進めば六日。急いでも四日半」
「遠いな!」
思わず声を上げた。
「山奥へ向かうと聞いていたでしょう」
「山奥にも限度があるだろ。地図じゃ指一本分しかないぞ」
「道を使わず、まっすぐ進めば早いんじゃないか?」
ガレスが二つの山を結ぶように指を滑らせる。
「崖を登って、谷へ飛び降りて、川を二度渡るなら」
「アゼルならできそうだな」
「俺一人ならな。お前ら全員と荷物を抱えては無理だ」
「わしの酒は落とすでないぞ」
「真っ先に置いていくよ」
エル爺が杖でアゼルの脛を小突いた。
重くなりかけた旅立ちの空気は、結局いつもの言い合いに紛れて消えた。
クレハが選んだのは、山腹を大きく回り込む古い山道だった。
距離は伸びるが、足場が崩れにくく、水場もある。
地図を読むだけではない。雲の流れを見て雨を避け、獣の足跡が増えれば道を変える。見晴らしのよい場所へ出る前には一人で先を確かめ、全員が休める場所を日が落ちる前に見つけた。
アゼルも山歩きには慣れていたが、一行全体を決まった速さで進ませるクレハの判断には何度か感心させられた。
本人へ言うと得意そうな顔をされそうなので、口にはしなかった。
一日目が終わり、二日目が過ぎた。
三日目の雨は、クレハが見つけた岩陰でやり過ごした。
四日目の午後。
二つ目の山へ続く林へ入ったところで、アゼルは金属の擦れる音を聞いた。
すぐに片手を上げる。
後ろを歩いていた四人の足が止まった。
もう一度。
短い剣が何かを弾く音。その直後に、獣の低い唸り声が重なった。
アゼルは木々の間を抜け、音のした方へ走った。
斜面の先に、灰色の山犬が五頭いた。
その中央で、一人の青年が岩壁を背にしている。
手にしているのはショートソードだった。長い剣では振りにくい林の中で、切っ先を小さく動かし、飛び込んでくる山犬だけを確実に退けている。
一頭が地面へ伏していた。
残る四頭も簡単には近づけず、青年を囲んだまま唸っている。
だが、青年の左脇腹には血の滲んだ包帯が巻かれていた。片脚も庇っている。剣を振るたびに顔が歪み、呼吸が浅くなっていた。
山犬が左右から同時に地を蹴った。
青年は一頭へ剣を向ける。
もう一頭が、死角から喉元へ飛びかかった。
小石がその鼻先へ当たった。
山犬の目が、青年からアゼルへ移る。
「こっちだ」
アゼルは指先でもう一つ小石を弾き、山犬の注意を引いた。
獣が着地し、低く身を沈める。
その前へ、大剣を背負った巨体が割って入った。
「怪我人を相手に、ずいぶん楽しそうじゃねえか」
ガレスは大剣を背から外し、迫った山犬の牙へ鞘の腹を合わせる。
力任せに殴りつけたのではない。
一歩を斜めへずらし、腰を回す。噛みついてきた勢いを鞘へ乗せ、そのまま横へ流した。
山犬の身体が地面を滑り、茂みへ転がる。
背後から二頭目が跳ぶ。
ガレスは振り返らず、長い柄を引いた。鞘の先端が弧を描き、山犬の胴を下からすくい上げる。
自分の背丈より三十センチも長い大剣が、木々の間で枝一本に触れない。
足の置き場所。
腰の向き。
剣の重さが次にどこへ動くのか。
その全てが、最初から決まっていたような動きだった。
青年の目が見開かれる。
残った山犬がガレスへ向かおうとした瞬間、クレハの鉄針がその足元へ突き立った。
乾いた音に獣が怯む。
青年はその隙を逃さなかった。踏み込んで剣の腹を鼻先へ当て、鋭く声を上げる。
山犬たちは仲間を連れ、林の奥へ逃げていった。
静けさが戻る。
青年はすぐには剣を下ろさなかった。
獣の気配が完全に遠ざかったことを確かめてから、ようやく切っ先を地面へ向ける。
「助かった」
短い言葉だった。
直後、青年の膝が揺れた。
アゼルとガレスが左右から腕を支える。
「大丈夫だ。立てる」
「今、立てなかっただろ」
「足を滑らせただけだ」
「地面は平らだったぞ」
ガレスが言うと、青年は黙った。
「傷を見せてください」
リアが外套を脱ぎ、地面へ敷いた。
青年は断ろうとしたが、再び膝が揺れたため、今度は大人しく腰を下ろした。
リアはリーネ村で分けてもらった水と布で傷口を洗う。脇腹の包帯を外すと、塞がりかけていた傷が開き、血が流れていた。
薬草を潰した軟膏を薄く塗り、新しい布を巻いていく。
「深い傷ではありません。でも、動きすぎです」
「急いでいた」
「急いで傷を開いたら、もっと遅くなります」
穏やかな声だったが、言っていることは容赦がない。
青年は言い返せず、手当てをするリアの指先を見つめた。
アゼルはその間に、傍らへ置かれた青年の剣へ目をやった。
青年の剣は何度も研がれ、刃の幅が少し細くなっている。柄には汗と土が染み込み、飾りらしいものは一つもない。
長く使い込まれた、実戦のための剣だった。
「名前は?」
青年は少し迷ってから答えた。
「レオンだ」
「レオン?」
リアが顔を上げる。
ガレスも青年の顔をのぞき込んだ。
「リーネ村の勇者か!」
レオンの表情が固くなった。
ほんの一瞬だったが、アゼルは見逃さなかった。
誇らしく思っている人間の顔ではない。
「村で、お前のことを聞いた」
アゼルはレオンの向かいへしゃがんだ。
「ミーナからも頼まれてる。会ったら帰ってきてって伝えてくれって」
レオンの視線が落ちる。
「すぐ戻ると言ったそうだな」
「……ああ」
「村を出て、どれくらいになる?」
「十四日だ」
「十四日?」
アゼルは眉を寄せた。
自分たちなら、ここまで四日ほどだった。
「塔の場所を正確に知っていたわけじゃない。山へ入ってから二度、道を外した」
レオンは包帯の上から脇腹を押さえた。
「五日前には獣に襲われた。脇腹をやられて、足も捻った。それから思うように進めていない」
「それでまだ進んでたのかよ」
「戻るより、塔を探した方がいいと思った」
「全然よくないだろ」
アゼルは呆れて息を吐いた。
「だったら、手当てが済んだら村へ帰れ。その傷で先へ行っても、また同じことになるぞ」
レオンはゆっくり首を横へ振った。
「帰れない」
「歩けないなら、ガレスが背負う」
「おう。大剣よりは軽そうだ」
「そういう意味じゃない」
レオンは包帯の上から脇腹を押さえた。
「その言葉は、あの人にも言われた」
「あの人?」
「数日前に助けてくれた男だ。名は……確かアルト・ヴァイス」
林の空気が変わった。
アゼルは思わずレオンの肩をつかむ。
「アルトに会ったのか?」
「有名なんだな。俺を襲った野盗の連中も知っていたよ。会ったのは三日前だ」
「どこで。何をしてた。どっちへ行った?」
「一度に聞くな。話す」
レオンは少し息を整えた。
そして、三日前の山道で起きたことを語り始めた。
◇
その時、脇腹の傷は今より新しかった。
レオンは細い山道で、四人の男に囲まれていた。
荷物を渡せと言われたため、食料も金も差し出した。それでも、男たちは剣を収めなかった。
一人は弓を持ち、残る三人は剣と斧を手にしている。
無事な身体なら、逃げる隙くらいは作れたかもしれない。
だが、一歩動くたびに脇腹から血が流れた。
剣を構える腕にも、もう力が残っていない。
弓兵が弦を引いた。
「一人の怪我人相手に、大層な人数だな」
気だるそうな声がした。
山道の端に、一人の男が立っていた。
年は五十に届かないくらい。無精髭を生やし、左の頬には古い傷がある。
旅装はくたびれ、腰に下げているのは短い刃物だけだった。
「何だ、てめえ」
男の一人が剣を向ける。
傷のある男は、面倒そうに頭をかいた。
「そいつから、もう取る物は取ったんだろ。なら帰れ」
「正義の味方のつもりか?」
「まさか。そういう面倒なのは騎士様連中に任せるよ」
剣を持った男が踏み込んだ。
レオンは、傷のある男が避けるところを見たつもりだった。
だが次の瞬間には、剣が持ち主の手から消えている。
傷のある男は奪った剣の柄で斧の向きをずらし、弓兵の前へ投げた。
弓兵が反射的に身を引く。
その一歩で、四人の足並みが崩れた。
そこから先を、レオンの目は追えなかった。
右へいたはずの男が左へいる。
振り下ろされた斧は誰にも当たらず、弓は矢を放つ前に肩から外れていた。
一人が腰の短剣へ手を伸ばした時には、その鞘までなくなっている。
瞬きをした後には、四人分の武器が道の端へ積まれていた。
誰一人、斬られてはいない。
ただ、自分たちが何をされたのか理解できず、空になった手を見つめていた。
男の一人が、左頬の傷を見て青ざめた。
「アルト・ヴァイス……」
傷のある男、アルトは眉をひそめた。
「人の名前を勝手に呼ぶなよ」
四人は武器も荷物も置いたまま、山道を逃げていった。
アルトは追わなかった。
レオンの前へ来ると、血の滲んだ脇腹へ視線を落とす。
「その傷で、どこへ行く気だ?」
「山奥の塔です」
アルトの目が、わずかに細くなった。
「やめとけ。村へ戻れ」
「戻れません」
「怪我人が意地を張っても、傷は塞がらねえぞ」
「勇者と呼ばれる人間に相応しくなる為に、俺は向かうんです」
アルトは何も言わなかった。
山の奥を見上げる。
しばらくして、低い声で言った。
「あれはそんなありがたい場所じゃねえ」
呆れたような口調だった。
だが、その一言だけは冗談に聞こえなかった。
「塔を知っているんですか?」
アルトは答えない。
「あなたは、どこへ?」
「俺もあそこへ行く」
「なら……」
「お前は帰れ。俺とお前じゃ、用が違う」
アルトは道端に落ちていたレオンの荷物を拾い、薬の入った小瓶だけを投げて寄越した。
「生きて村へ戻る方が、塔へ着くより難しくなる前にな」
それだけ言い残し、山奥へ向かって歩き出した。
その背中は一度も振り返らなかった。
レオンは小瓶を握ったまま、遠ざかる男を見ていた。
あれほどの力を持つ男が、わざわざ向かう場所。
そこには、自分を変える何かがある。
止める言葉とは逆に、レオンの決意は強くなっていた。
◇
「止め方が下手なんだよ、あの飲んだくれ」
話を聞き終えたアゼルは、深く息を吐いた。
「自分も同じ場所へ行くなんて言ったら、ついてこいって言ってるようなものだろ」
「アルトは本気で止めていたんじゃないか?」
「分かってる。だから余計に下手なんだ」
アルトらしいとも思った。
言葉が足りない。
大事なことほど、相手へ説明しない。
そして自分だけで、さっさと先へ行く。
「その男が向かったのは、間違いなく塔の方角なのね?」
クレハが確かめる。
レオンはうなずいた。
クレハは地図へ視線を落とし、現在地から先の道を指でなぞった。
盗賊から聞いた話だけではなかった。
アルト本人が、古い塔へ向かった。
アゼルは山の奥を見た。
何のために向かったのかは、まだ分からない。
それでも、追うべき道は決まった。
「なら、なおさらお前は村へ帰れ」
アゼルはレオンへ向き直った。
「アルトにも止められて、俺たちにも止められた。それでまだ行くなら、ただの意地だぞ」
「そうかもしれない」
レオンは否定しなかった。
「それでも行く」
「勇者になるために?」
「勇者と呼ばれる人間に、相応しくなるためだ」
その二つがどう違うのか、アゼルにはよく分からなかった。
だが、レオンにとっては大きく違うらしい。
「ミーナは、お前が戻るのを待ってるぞ」
レオンの拳が固く握られた。
「分かっている。だから、このままでは帰れない」
アゼルは頭をかいた。
帰りたくないわけではない。
なら、なぜ帰らないのか。
やはり分からない。
「現在地からリーネ村へ戻るなら、四日ほど」
クレハが地図を見たまま言う。
「塔までは、私たちの足なら二日弱。レオン一人なら、傷のせいでもっとかかる」
「戻るより近いのか」
「距離だけなら」
リアは巻き終えた包帯を確かめた。
「今すぐ歩けない傷ではありません。でも、一人で無理をすれば、また開きます」
「止めても行くんだろ?」
アゼルが尋ねる。
レオンはまっすぐ見返した。
「行く」
迷いはなかった。
一人にすれば、同じ傷を開きながら進む。
目的地は同じ。
塔へ着く方が近く、リアの手当ても受けられる。
それなら、答えは最初から決まっていた。
「じゃあ、さっさと塔に上って帰ろうぜ」
レオンが目を見開いた。
「……いいのか?」
「止めても行くんだろ。だったら一緒に行った方が早い」
「だが、俺は……」
「話は歩きながらでいい。日が暮れる前に、次の休める場所まで行くぞ」
アゼルは立ち上がり、レオンへ手を差し出した。
レオンはその手を見つめる。
塔へ向かう理由も、そこで何を証明したいのかも、アゼルは理解していない。
ただ、同じ道を進む者を一人で歩かせるつもりがないだけだった。
やがてレオンは、差し出された手を取った。
「世話になる」
クレハは地図を畳み、先の道へ目を向ける。
エル爺だけは、アルトが残した言葉について何も尋ねなかった。
五人だった一行に、六人目の足音が加わる。
一つだけ、その歩調はまだ重かった。
それでもレオンは、自分の足で山奥の塔へ向かっていた。




