第2-1話 固有の安全(THE INHERENT SAFETY)1
『第2部・独立の蜃気楼』
【絶対安全の売り子(THE PROMOTER OF INHERENT SAFETY)】
京都の奥座敷、貴船の川床を流れる水の音が、室内の重苦しい沈黙をかえって際立たせていた。
数日前に発生した南シナ海での臨検騒ぎ以来、原油のスポット価格は連日最高値を更新している。日本に向かうシーレーンは細り、主要都市では夜間のネオンが消され、電力需給の「逼迫アラート」が日常の風景と化していた。
畳の上に座る経済産業大臣・柳原幸一郎は、差し出された冷酒に口も付けず、目の前に座る男を値踏みするように睨みつけていた。
男の名は、敷島怜。
スイスの高級政府系シンクタンク『アルプス・インテリジェンス』のシニア・パートナーという肩書だが、その経歴のすべてが不自然なほどに漂白されている。仕立ての良いサヴィル・ロウの三つ揃えを完璧に着こなし、懐からは1950年代のヴィンテージ・パテックフィリップが覗く。その佇まいは、学者というよりは、巨額の流動資産を動かす国際投機筋のそれだった。
「……君の言う『天の火』計画とやらの概要は、事務方から聞いている」
柳原は、低く、押し殺した声で切り出した。政治家として修羅場をくぐってきた男の、凄みのある声だ。
「既存の軽水炉の再稼働すら、地元の同意を取り付けるのに数年がかりだ。裁判になればまた止まる。この期に及んで、新型の原子炉をゼロから国内に建設するなど、狂気の沙汰だ。世論の反発で内閣が吹き飛ぶ。そんな博打に、国家の命運を賭けられると思うかね、敷島君」
敷島は、柳原の威圧を柳に風と受け流し、薄い唇の両端をわずかに上げた。その目は、目の前の権力者を人間としてではなく、ただの不合理な意思決定アルゴリズムとして観察しているかのようだった。
「博打、ですか。むしろ逆ですよ、柳原大臣」
敷島は懐から、特注の極薄タブレットを取り出し、漆塗りの机の上に滑らせた。画面に表示されたのは、複雑な数式ではなく、シンプルで無機質な微小球状の燃料粒子の3Dモデルだった。
「これはTRISO燃料粒子。直径わずか一ミリメートルに満たない、低密度炭素、熱分解炭素、そして高純度炭化ケイ素(SiC)で三重・四層に精密被覆された、いわば微小な核燃料のシェルターです。分子が極めて小さく、高圧下で物質の結晶隙間に潜り込むヘリウムの透過を、このSiC層が完全にシャットアウトします」
「冷却材の喪失、だろう?」
柳原が遮るように言った。「福島の悲劇は、津波で全電源が喪失し、水が回らなくなったことで起きた。ヘリウムだろうが何だろうが、配管が破断してガスが抜ければ、同じように燃料が溶け落ちる(メルトダウンする)。違うか?」
「違います」
敷島は断言した。その声には、一切の感情の揺らぎがなかった。ただの物理の絶対事実を告げるような冷たさ。
「軽水炉は、超高密度のエネルギーを水という沸点の低い媒体で無理やり冷やしている。だから、ポンプが止まった瞬間に破滅のカウントダウンが始まる。しかし、高温ガス炉は違う。万が一、すべての配管が破断し、ヘリウムガスが完全に大気中に抜けたとしましょう。熱膨張と黒鉛の性質によるドップラー効果で、核反応そのものは自己停止します。そして、炉心全体を構成する巨大な黒鉛ブロックの圧倒的な熱容量によって、残った崩壊熱は伝導と放射だけで、外殻から空気中へと自然に逃げていくのです。計算上、炉心温度は最高でも1400度。燃料粒子が破損する1600度には、逆立ちしても届きません」
敷島はタブレットの画面をタップした。熱伝導のシミュレーションが動き、時間の経過とともに、熱が外部へ綺麗に散逸していく様子が示される。
「つまり、人間が何もしなくても――地球上のすべてのオペレーターが逃げ出し、全電源が絶たれ、ただ放置されたとしても、この炉は構造上メルトダウンを起こせない。物理法則そのものが、絶対的な安全を担保している。これが『固有の安全性』です。これ以上の世論への言い訳が、他にありますか?」
柳原の目が、わずかに動いた。
「絶対に、溶けない……」
「ええ。チェルノブイリも、スリーマイルも、福島も、すべては『人間が作った機械の故障』と『人間の誤判断』が原因でした。なら、最初から人間に依存しない、地球の物理ルールに安全を委ねる設計にすればいい。これなら、世論を説得するロジックとして完璧でしょう。『我々が作るのは、かつての原発ではない。物理的に燃えない、次世代のクリーン熱源だ』と」
柳原は、机の上のシミュレーションを凝視したまま、生唾を飲み込んだ。
喉から手が出るほど欲しいレガシー。シーレーン封鎖に怯える必要のない、完全な資源自立。そして、それを自分の代で成し遂げたという、歴史に刻まれる圧倒的な政治的権力。
しかし、柳原はまだ老獪だった。彼は顔を上げ、敷島を睨み据えた。
「話が美しすぎるな。それほどの夢の技術が、なぜこれまで実用化されなかった? 技術的なハードルがあるはずだ。それに、サプライチェーンはどうする。我が国の重工メーカーは、既存の軽水炉の維持で手一杯だ」
「良い指摘です、大臣」
敷島は待っていましたと言わんばかりに、謎めいた笑みを深めた。
「ハードルは、950度を超える超高温と中性子照射に耐え、高圧ヘリウムによる材料の『ヘリウム脆化』と微小漏洩を完全に防ぎきる特殊セラミック複合材(SiC/SiCコンポジット)の精錬技術――そして、初期の巨額な設備投資です。
特に、炉心の配管ライナーに使われる超精密セラミックと、高圧ヘリウムを非接触で循環させる特殊な磁気軸受は、世界で唯一、欧州の老舗マテリアルメーカー3社にしか作れません。本来なら、彼らの技術利権に永久に金を吸い上げられる構造でした。――ですが、ご安心を」
敷島はパテックフィリップに目を落とし、静かに告げた。
「その欧州の主要サプライヤー3社は、先月、我が『アルプス・インテリジェンス』の傘下ファンドが、完全買収(100%子会社化)を完了しています。つまり、日本がこのプロジェクト『天の火』にGOサインを出せば、中核部品の供給網は私が一元管理する。利権の調整も、他国からの政治的介入も、すべて私が遮断してみせましょう」
柳原の背筋に、冷たいものが走った。
この男、ただのコンサルタントではない。国策プロジェクトの提案を持ち込む前に、すでに世界規模のサプライチェーンを個人の資本力で裏から買い占めていたのだ。一体どれほどの資金を、どこのクジラ(巨額投資家)から引っ張ってきたというのか。
「君の狙いは何だ、敷島。国家を相手に、これほどの大博打を仕掛ける意図は?」
「私はただの、物理法則の忠実な僕ですよ」
敷島は立ち上がり、コートを手に取った。
「人間は嘘を吐き、政治は約束を破る。しかし、物理法則だけは、一ドルの買収も、一票の忖度も認めない。私は、その絶対的な美しさを、この資源なき国で証明したいだけです。……『脱炭素グリーン水素国債』の発行、期待していますよ、大臣。資本という燃料がなければ、神の設計図もただの絵に描いた餅ですから」
敷島は一礼すると、足音も立てずに部屋を去っていった。
残された柳原は、室温になった冷酒を一気に煽り、激しく脈打つ胸を押さえた。恐怖と、それを上回る圧倒的な全能感。
「国債の発行枠は……五十兆か」
柳原の呟きは、貴船の川のせせらぎにかき消された。
彼が今、物理法則という「絶対に踏み倒せない徴税人」の前に、国家丸ごとの帳簿を差し出したことに、まだ気づいていなかった。




