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天才科学者・敷島怜の冷徹なる計算  作者: 山口遊子
第一章:楽園への糸口(ストロー)

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第1-8話 破産宣告(THE BANKRUPTCY OF PHYSICS)2

【非線形崩壊(THE NONLINEAR COLLAPSE)】


「グラフェンナノチューブ、全結合の四十パーセントが瞬時に消失! 応力波がマッハ12で上空へ駆け上がっています!」

「制振アクチュエーター、全基が過負荷で爆発(バースト)! 制御不能、完全に制御不能です!」


アース・ポートの第一管制室は、破滅のシンフォニーに包まれていた。

天井の照明は不気味な赤色に固定され、何十もの警告アラートが重なり合って、地獄の耳鳴りのように響き渡っている。

床底からは、コンクリートが内側から粉砕される「バキバキ」という狂暴な破壊音が絶え間なく湧き上がり、数万トンの洋上基地が、まるで大波に弄ばれる小舟のように傾斜を深めていた。


「遠藤チーフ! テザーを……テザーをパージ(強制切断)させてください! 今切らなければ、上空から跳ね返ってくる弾性エネルギーで、この基地ごと海底の地盤まで引きちぎられます!」


オペレーターがコンソールにしがみつき、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。

遠藤は答えなかった。いや、答えられなかった。

彼の手は、血が滲むほどキーボードを叩き続けていた。エンジニアとしてのプライドが、彼の細い身体をコンソールに縛り付けていた。


「……だめだ。パージ機構のチタンギヤは、すでに高度十キロメートルからの超高張力で焼き付いている。人間の作ったスイッチなんかじゃ、もうあの紐は離せない」


遠藤の視線の先、メインモニターには、かつて人類の未来と謳われた「一ミリメートルのクモの糸」が映し出されていた。

それはもはや線ではなかった。

高度十キロメートルからカルマン・ラインにいたる全域で、テザーは東へ西へと狂ったようにのたうち回り、まるで天空で暴れる巨大な黒い蛇と化していた。

溜め込まれた「角運動量の負債」と、限界を超えた応力(ストレス)の利息が一気に解放される――非線形崩壊(ノンリニア・コラプス)。一度始まったカオスの連鎖は、もはやいかなるスパコンの数式をもってしても静止させることはできなかった。


「嘘だ……嘘だろ……。私の五千億ドルが、我がゼニス社の未来が……!」


神崎誠は、傾いた床の上で無様に四つん這いになりながら、虚空に手を伸ばしていた。

彼のスマートフォンは床を転がり、そこには時価総額の暴落を示す真っ赤なストップ安のログが、狂ったように更新され続けていた。完璧だったはずのベルベットのジャケットは引き裂かれ、瞳からは知性が完全に消失し、資本の呪縛に脳を焼かれた哀れな亡者の形相で、崩壊していくインフラのホログラムを見つめていた。


「金だ……! 金を突っ込めば直るはずだ! ヴァンデバーグ氏! もっと、もっと融資を! あと一兆ドルあれば、別のテザーを張れる、世界を支配できるんだ!」


「見苦しいぞ、神崎君」


車椅子の上で、ニコラス・ヴァンデバーグは微動だにせず、冷徹な声を発した。

迫り来る死と破滅の足音を前にしても、老資本家はただ静かに、自らの「敗北」を受け入れていた。彼の灰色の瞳には、恐怖ではなく、絶対的な虚無が宿っていた。


「私は生涯、金で買えないものはないと信じて生きてきた。国家も、法も、人間の命も、すべてに価格(プライス)がついているとな。……だが、思い知らされたよ。物理法則という名の神だけは、いくら積んでも買収(インサイダー)を認めないらしい」


「ヴァンデバーグ氏……」

隣でデータ端末を抱き締めていたハワード博士が、がたがたと膝を震わせながら呟いた。


「終わりだ……。私たちが夢見た静止点(ジオ・ステーション)の楽園は、最初から存在しなかった。ロケットを『野蛮』だと笑ったツケが、これだ……。私たちは、自然の天秤を騙せると思い上がった詐欺師の片棒を担いでいたんだ」


老物理学者は、絶望のあまりその場に崩れ落ちた。


「詐欺師、か。実に凡庸な表現だな、ハワード博士」


管制室の崩壊を、まるで最高等席のオペラボックスから眺めているかのように、敷島怜は泰然と佇んでいた。

傾く壁に背を預け、ポケットから取り出した金時計を眺める。その端正な顔立ちには、一滴の汗も、一片の動揺もなかった。


「私は誰一人騙していない。静力学の美しさを提示し、動力学の地獄を予言した。それを『ロマン』という都合の良い言葉でコーティングし、都合の良い嘘だけを信じたのは、君たち人間の方だ」


敷島は、四つん這いで泣き叫ぶ神崎を一瞥し、フッと冷たい笑みを浮かべた。


「神崎。君が世界に売った『位置エネルギーを滑るだけのクリーンな楽園』の入場券代金、計八千億ドルは、先ほど私の元帳で完全に決済された。君の言う通り、金ならいくらでもある。……ただし、私の口座にな」


「敷島ァァァ!! お前、お前だけは絶対に許さ――」


神崎が叫び声をあげて敷島に飛びかかろうとした、その瞬間。


―――ッッッッッ!!!!


音が、消えた。

アース・ポートのチタン製開口部を貫いていた一ミリメートルのテザーが、ついに地上高度十五キロメートルの結節点(ノード)で、爆発を伴って『破断』したのだ。


超高張力から一瞬で解放されたグラフェン繊維は、凄まじい弾性エネルギーの化け物となって天空へと跳ね上がった。

上空三万六千キロメートルの静止点プラットフォームは、下向きの強烈な引っ張り力を失った反動で、地球の自転軌道から外れて宇宙の彼方へと弾き飛ばされていった。数万トンの構造物と、そこに残されたエンジニアたちの命を乗せたまま、二度と戻れない暗黒の深淵へと。


そして、天空で切断され、地球に向かって雪崩を打つ数万キロメートルの「紐」は、重力に引かれて大気圏へと墜落を始めた。

弾丸よりも速い速度で、超高強度の炭素繊維が大気と激しく摩擦し、夜空を切り裂く巨大な白熱の竜となってのたうち回る。アース・ポートの展望デッキの強化ガラスは一瞬で粉砕され、狂暴な気流が室内のすべてを飲み込んでいった。


「避難しろ! 全員、地下の救命シェルターへ走れ!!」


遠藤は、最後のメインコンソールがブラックアウトするのを見届けると、まだ硬直している若手エンジニアたちの背中を激しく叩き、ハッチへと押し出した。

工学は敗北した。しかし、人間の命を一人でも多く救うことだけが、この地獄を作り出したエンジニアとしての、最後の、そして唯一の贖罪だった。


「敷島……! お前も早く来い!」

遠藤が振り返り、吹き荒れる暴風のなかで叫んだ。


だが、敷島怜は動くなっかった。

彼は、割れたガラスの向こう、白熱しながら海へと降り注ぐ「蜘蛛の糸の最期」を、ただ静かに見つめていた。そのコートが激しく風にたなびく。


「先に行け、遠藤。君はエンジニアとして、次の『使い捨てロケット』の設計図でも描いているといい。物理の支払いをその都度100%決済する、あの泥臭くて,野蛮で、最高に健全な火薬の乗り物をな」


「お前は……お前はどうするんだ!?」


「私は、次の『ファンタジー』を探しに行くさ。大衆がロマンを求め、資本家が不老不死を望む限り、物理法則(わたし)のビジネスは永遠に破産しないからね」


敷島は、胸元の金時計をパチンと閉じると、吹き抜ける嵐のなかへと、まるで最初から実体のない幻影であったかのように、悠然と姿を消した。


「敷島――!!」


遠藤の叫び声は、アース・ポート全体を襲った海底シャフトの崩壊音によって完全に掻き消された。


数分後。

鏡のように平穏だった太平洋の中央に、人類の傲慢の象徴だった洋上基地が、不細工な水煙をあげて完全に沈没していった。


天空には、もはや一本の美しい白線は存在しない。

あるのは、雲一つない、冷徹なまでに青い、ただ圧倒的な重力だけが支配する、本来の宇宙の姿だった。


人類の「甘い計算」の時代は終わり、再び、重力の井戸から泥臭く這い上がるための、果てしない闘争の幕が上がろうとしていた。



(第1部・楽園への糸口(ストロー)・完)


軌道エレベーターは工学的にも、経済的にも不可能だろうという思考実験から始めたものですが、いかがでした?

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