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天才科学者・敷島怜の冷徹なる計算  作者: 山口遊子
第一章:楽園への糸口(ストロー)

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第1-7話 破産宣告(THE BANKRUPTCY OF PHYSICS)1

【償還期限(THE MATURITY DATE)】


物理法則において、「支払いの猶予」は存在しても、「債務の免除」は絶対に存在しない。


高度百点〇三キロメートル。カルマン・ラインという人類の傲慢が定めた境界線で、質量二・五トンの実用通信衛星を抱きかかえたまま静止させられた『クライマー・ゼロワン』は、今やアース・ポートにとって、一秒ごとに莫大な利息を生み出し続ける「不良債権」そのものと化していた。


「洋上ベース、および海底アンカーシャフトの傾斜角、さらに〇・〇二秒増大! ベースプレートの応力、依然としてイエローゾーンの上限に張り付いたままです!」

「シャフト室の排水ポンプをフル稼働させろ! 基部コンクリートの微細亀裂(マイクロ・クラック)から海水が浸入している可能性がある!」


カルマン・ライン到達から四十八時間が経過しても、第一管制室の地獄は終わっていなかった。

遠藤は、泥のように濁った目でメインモニターを睨みつけていた。何日も着替えていない作業服からは、酸っぱい汗の臭いが漂っている。彼の手元には、強力な覚醒処方薬の空シートが散乱していた。


現在のテザーは、目標高度に到達した安堵の糸ではない。

西側に向かって緩やかな三日月状の弧を描き、限界まで引き絞られたまま、ガチガチに硬直している。クライマーが上昇する過程で地球の自転から強奪し、そして支払い切れずにシステム内部へ溜め込んだ「角運動量の負債」が、一ミリメートルのグラフェン繊維を内側から引き裂こうと全方位に圧力をかけ続けているのだ。


降ろすことも、さらに登らせることもできない。

クライマーのブレーキを解除して下落させれば、その瞬間に解放された位置エネルギーと運動エネルギーの津波がテザーを伝わって地上アンカーを粉砕する。逆に、このままホールドし続ければ、地球の自転という名の巨大な歯車が、テザーを介してアース・ポートの基礎を一秒ごとに、確実に削り取っていく。


「終わらない……。これじゃあ、ただの公開処刑を先延ばしにしているだけじゃないか……」

オペレーターの一人が、キーボードに顔を伏せてボソリと呟いた。管制室全体に、形容しがたい絶望の疲弊が蔓延していた。


「何を情けない顔をしているんだ、現場の諸君!」


その重苦しい空気を切り裂くように、高らかな声が響いた。

神崎誠が、豪奢なベルベットのジャケットを羽織り、両手を広げて入ってきた。その手には、銀座の老舗宝石店のものであろう、金色のリボンがかかった小さな箱がいくつか握られている。


「歴史的快挙から二日! 我がゼニス・インフラストラクチャ社の時価総額は、ついにオービタル・ダイナミクス社を抜き去り、世界の宇宙開発企業のトップに躍り出た! これは君たちの功績だ! ほら、遠藤、君にも特別ボーナスの目録と、奥さんへのプレゼントだ」


神崎は、遠藤のコンソールの上に強引に箱を置いた。その顔には、満面の笑みが張り付いている。

だが、遠藤はそれを見ようともしなかった。ただ、神崎の差し出した手の指先が、小刻みに、そして激しく震えているのを見逃さなかった。神崎の瞳の奥にあるのは、勝利の歓喜ではない。いつ足元が崩れ落ちるか分からない、底なしの恐怖に怯える狂気だった。


「神崎社長……ボーナスなどいりません。今すぐ、このクライマーの『債務整理』をさせてください」

遠藤は、地を這うような声で言った。

「現在、海底のアンカーシャフトにかかっている剪断荷重は、安全基準の百四十二パーセントです。これは、構造物が『クリープ破壊(持続的な応力による緩慢な崩壊)』を起こす一歩手前の数値です。今すぐ、段階的に貨物をパージし、テザーの張力を均等化しなければ、来週までアース・ポートがもちません」


「パージだと!? 馬鹿なことを言うな!」

神崎の笑顔が、一瞬で悪鬼のような形相に変貌した。彼は遠藤の肩を乱暴に掴み、顔を近づけた。


「あの通信衛星は、ヴァンデバーグ氏の系列企業が提供した本物の試作機だ! それを宇宙のゴミとして捨てるというのか!? そんなことをすれば、一昨日着金したばかりの五千億ドルの契約違反になり、全額返還を求められる! それだけじゃない、ヴァンデバーグ氏はすでに次の要求を出しているんだ。……一ヶ月以内に、テザーの本数を四本に増やし、高度三万六千キロメートルの静止点(ジオ・ステーション)までの『全通ルート』の建設を開始しろ、とな!」


「一ヶ月以内に静止点だと!?」遠藤は目を見開いた。「狂っている! この一本のパイロット・テザーすら制御できずに破綻しかけているのに、本番の複合テザーを四本も張れるわけがない!」


「やるんだよ! やらなければ、私たちは全員、宇宙詐欺の首謀者として歴史に名を残し、一文無しになって破滅するんだ!」

神崎の叫び声は、もはや悲鳴に近かった。彼は懐から取り出したスマートフォンで、秒単位で膨れ上がるゼニス社の口座残高を狂ったようにスクロールさせていた。


「物理が不可能だと言うなら、金で物理を買え! 素材が足りないなら世界中のグラフェン工場を買い占めろ! 人が足りないなら倍の給料で引き抜いてこい! 金なら、ここにあるんだ! いくらでもあるんだよ!」


「哀れなものだな。資本という名の麻薬に脳を焼かれた人間の末路は」


管制室の入り口に、いつの間にか敷島怜が立っていた。

彼はいつものように、完璧に着こなしたコートのポケットに両手を突っ込み、冷徹な双眸で神崎を見つめていた。その表情には、同情も怒りもなく、ただ実験室のモルモットを観察するような淡白な興味だけが浮かんでいた。


「敷島……お前、またそんな冷やかした目を……!」

神崎が敷島に掴みかかろうとした、その時。


管制室のメインインターホンが、不気味な高音で鳴り響いた。


『――そこまでだ、神崎君』


スピーカーから流れてきたのは、神崎の声よりも遥かに低く、重厚で、そして絶対的な権威を持った老人の声だった。

管制室の全員が硬直する。

ニコラス・ヴァンデバーグ。その後ろから、静かに大気圏を揺らすような足音が近づいてくるのが分かった。


自動ドアが開き、車椅子に乗ったヴァンデバーグと、その後ろでタブレットを抱えたハワード博士が入ってきた。老物理学者の顔は、冷や汗で濡れていた遠藤たちとは異なり、冷たい怒りで凍りついていた。


「ヴァンデバーグ氏……! どうしてここに?」神崎が慌ててネクタイを整え、営業用の笑みを作ろうとした。


「神崎君、私はビジネスにおいて、リスクを愛するが、嘘は愛さない」

ヴァンデバーグは、車椅子から動くことなく、細い指を組んだ。その灰色の瞳が、神崎を値踏みするように射抜く。


「ハワード博士が、君たちが提出した『カルマン・ライン到達データ』の解析を完了した。……博士、説明を」


ハワード博士が一歩前に出た。彼は敷島を、まるで親の仇でも見るかのような鋭い目で睨みつけながら、手元のタブレットの画面を中央のメインモニターへと強制同期(リンク)させた。


「遠藤君、君たちの作ったデータは、静力学(スタティック)の観点からは完璧だった。歪みゲージの数値も、張力のバランスも、すべてが教科書通りに美しいサインカーブを描いていた。……だが、美しすぎたんだよ」


ハワード博士は、画面の一角、高度十五キロメートル付近のデータポイントを赤く囲った。


「敷島怜。お前が整形したこのデータには、決定的な『物理的矛盾』が存在する。高度百キロメートルにおいて質量二・五トンを静止させているにもかかわらず、テザーの全延長における『熱力学的な熱散逸』が、理論値のわずか百分の一しか記録されていない。……熱力学第二法則は絶対だ。これだけの運動量の急制動とコリオリの干渉があれば、グラフェン繊維は摩擦と内部応力によって、少なくとも摂氏二百度以上の熱を発していなければならない。だが、お前のデータでは、テザーはまるで冷徹な氷の紐のように静まり返っている」


ハワード博士は、神崎に向かってタブレットを突きつけた。


「これは偽造だ! 実際のテザーは、今も内部で致命的な残留応力を溜め込み、破断寸前で硬直している! 神崎、お前たちが作ったのは軌道エレベーターではない! いつアース・ポートごと大爆発を起こすか分からない、数万キロメートルの『物理的な時限爆弾』だ!」


ハワードの怒号が、管制室の壁を震わせた。

遠藤は、ついにこの時が来たか、と深く目を閉じた。もう隠し通すことはできない。


「嘘だ……嘘だろ、敷島!」

神崎は、ガタガタと震えながら敷島の胸ぐらを掴んだ。

「お前、完璧に隠蔽したと言ったじゃないか! ヴァンデバーグの目を欺いて、金を引っ張るための完璧な書類だと!」


「私は完璧に処理したよ、神崎」

敷島は、胸ぐらを掴む神崎の手を、一本ずつ冷酷に剥ぎ取っていった。その力は、神崎の狂気を容易に圧倒するほどに強固だった。


「静力学的な嘘を見抜くのは、並のエンジニアには不可能だ。だが、ハワード博士のような本物の物理学者なら、エントロピーの不整合に必ず気付く。……私は最初から、博士が気付くように、あえてその『熱力学の足跡』を残しておいたんだよ」


「な……んだと……?」神崎の顔から、完全に血の気が引いた。


「ハワード博士」敷島は神崎を無視し、老学者に向かって優雅に一礼した。「さすがは元高エネルギー物理学会の権威だ。あなたが気付いてくれなければ、このショーの『償還期限(マチュリティ・デート)』が台無しになるところだった」


「お前……最初から、これを暴かせるために……!?」ハワード博士の顔が、恐怖で歪んだ。


「その通り」

敷島はポケットから自身の端末を取り出し、ヴァンデバーグに見せた。


「ニコラス・ヴァンデバーグ氏。あなたがゼニス社に投資した計八千億ドルの資金は、私の構築した分散型暗号元帳(ブロック・レジャー)を通じて、すでに全額、地球上のあらゆる法的差し押さえが不可能な量子暗号通貨へと変換され、私の個人口座への移動を完了している。神崎の持つ口座にあるのは、ただのハリボテの数字だ」


「貴様……! 私を騙したのか!」

ヴァンデバーグの背後の護衛たちが、一斉にジャケットの内に手を伸ばした。

だが、敷島は全く動じず、ただ冷ややかに笑った。


「騙した? 人聞きの悪い。私はあなたに『物理法則という、絶対に破産しない唯一の神』のルールを教えただけだ。資本の力で重力すら買えると思い上がった老資本家への、これが物理からの『破産宣告』さ」


その瞬間。


――ビシィィィィン!!!


管制室の床底から、前回の衝撃波を遥かに凌駕する、不気味な破裂音が響き渡った。

メインモニターの張力グラフが、一瞬でレッドゾーンを突き抜け、ブラックのアラートへと反転する。


「遠藤チーフ! 高度十キロメートルのテザー外層、グラフェンナノチューブの結晶結合が……『剪断剥離(デラミネーション)』を始めました! 紐が、内側から裂けていきます!」


オペレーターの絶叫とともに、アース・ポート全体が、まるで巨大な地震に襲われたかのように大きく、不気味に傾き始めた。

執行猶予の時間は、今、完全に終わりを告げた。物理の徴税人が、利息を乗せた莫大な支払書を抱えて、ついにアース・ポートの正面玄関を叩き壊したのだ。


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