第2-2話 固有の安全(THE INHERENT SAFETY)2
【調和のシミュレーション(THE HARMONIOUS SIMULATION)】
茨城県つくば市。最先端の科学技術が集結するその街の一角に、国策重工メーカー『東洋重工業』のつくば研究所はある。
地下二階にあるスーパーコンピュータ室は、巨大なサーバーラック群が発する「ゴォォォー」という強烈な冷却ファンの重低音に満たされていた。室内の温度は常に摂氏十八度に管理されているにもかかわらず、開発チームの熱気と電子機器の排熱で、どこか肌にまとわりつくような不快な空気が淀んでいる。
「――ダメだ、また非線形項(非線形パラメーター)が発散した! 流体挙動と中性子束の干渉で、解が計算不能(複素数域)に逃げる!」
チーフ・シミュレーターの小野寺瑞穂は、乱暴に髪をかきむしり、手元のキーボードを叩きつけた。
二日近く一睡もしていない彼女の顔は土気色で、目の下には濃いクマが張り付いている。サイズの合っていない大きめの作業着の袖を乱暴に捲り上げ、胸ポケットには歪みゲージの感度メモがびっしりと書き込まれた付箋が突き刺さっていた。
「小野寺、根を詰めるな。マシンの計算力が足りないんじゃない。これはそもそも、理論そのものが現場の物理に追いついてないんだ」
背後から声をかけたのは、製造本部長の遠藤だった。ヘルメットを小脇に抱え、油と汗の臭いをプンプンさせた頑固な叩き上げの技術者だ。彼の顔には、机上の計算だけで原子炉を作ろうとする現在のプロジェクト方針への、強い不信感が刻まれていた。
「九百五十度の超高温だぞ? 流れるヘリウムガスの微小な流動障害や密度変化が、黒鉛ブロックの熱偏在を生み、中性子束の分布を歪ませる。その歪みがまた局所的な熱を生む。こんな狂暴な『熱と反応度の連成フィードバック』を、数式だけで完全にねじ伏せられるわけがない。やはり実物を作って、泥臭くデータを取るしかないんだ」
「そんな時間も予算もないのは、遠藤本部長だって分かっているはずです!」
瑞穂は赤く血走った目で遠藤を睨み返した。
「南シナ海があの状態なんです。今、この国に『実証炉を十年かけて作ります』なんて悠長なことを言っている余裕はない。シミュレーションで百パーセントの安定を証明しなきゃ、官邸から予算(水素国債)は一歩も出ないんです!」
張り詰めた二人の間に、冷徹な電子音が響いた。
自動ドアが開き、部屋のノイズを切り裂くように、一人の男が音もなく入ってきた。
サヴィル・ロウの仕立ての良いダークネイビーのスーツ。スパコン室の無機質な蛍光灯の下でも、その男――敷島怜の存在感は異質だった。手には政府の菊花紋章が入った最高機密の委任状が握られている。
「なるほど。現場の人間が『理論の限界』を言い訳に、職務怠慢を決め込んでいるわけか。実に見苦しい」
敷島は、部屋に入るなり冷ややかに言い放った。
「貴様……何者だ!」
遠藤が顔を真っ赤にして敷島の前に立ち塞がる。その無骨な身体を、敷島は一瞥するだけで、まるで路傍の石を避けるように歩みを進めた。
「本日付で、政府直属のチーフコンサルタントに就任した敷島だ。遠藤本部長、君の言う『泥臭い現場主義』は、ただの怠惰だ。物理法則は常に完璧だ。不完全なのは、それをコードに落とし込む君たちの脳細胞のほうだよ」
「なんだと!?」
遠藤が胸ぐらに掴みかかろうとするのを、瑞穂が割って入って止めた。彼女のプライドは、敷島の傲慢な言葉によって激しく火をつけられていた。
「敷島さん、と言いましたね。口で言うのは簡単です」
瑞穂は自身のコンソールを指差し、挑戦的な笑みを浮かべた。
「これが、私たちが過去三週間、一度も解に辿り着けていない連成解析の画面です。九百五十度、四十気圧。炉心内のヘリウム流体と、ウラン燃料の中性子輸送方程式。この二つが相互に干渉し合って、計算がどうしてもカオスに陥る。数式が完璧だと言うなら、今ここで、このエラーを解いてみせてください」
遠藤をはじめ、周囲のオペレーターたちがニヤリと笑った。
日本の最高峰の頭脳が集まる東洋重工が、スパコンを何百時間も回して解けなかったバグだ。いくら政府の犬のコンサルだろうが、解けるわけがない。
しかし、敷島は眉ひとつ動かさなかった。
彼はゆっくりと瑞穂のデスクに近づくと、彼女の使い古されたキーボードに手を置いた。その指先は、不気味なほど滑らかで、一切の迷いがなかった。
トントントントン、と軽快な打鍵音がスパコン室に響き始める。
「中性子拡散項の境界条件が、軽水炉のパラメーターのままだ。黒鉛減速炉の『空間的非均質性』を舐めているな」
敷島は画面を見つめたまま、淡々と呟いた。
「それから、ヘリウムの圧縮性流体近似が古典的すぎる。超高温下でのレイノルズ数の急変に伴う『熱的非平衡』を、なぜ静的な粘性係数で処理している? 物理を、数式を侮辱するな」
敷島の指が、猛烈な速度でコードを書き換えていく。
瑞穂は、彼が打ち込む数式の意図を理解した瞬間、頭を殴られたような衝撃を覚えた。
(……何、このエレガントな近似式は……!? 流体の項と量子挙動の項が、まるでパズルみたいに綺麗に噛み合っていく……)
打鍵音が止まり、敷島がエンターキーを静かに押した。
「レンダリング(解析実行)」
次の瞬間、中央の巨大な3Dホログラムディスプレイが、不気味なほど静かに明滅した。
これまで赤く発散し、カオスの渦となってバラバラに砕け散っていた炉心内部の熱流体と中性子の波形が――みるみるうちに青く、美しい「静謐な楕円」へと収束していった。
炉心温度、九百五十度で完全固定。
熱出力、百パーセント巡航。
エラーコード、ゼロ。
スパコン室が、完全に静まり返った。遠藤は目を見開いたまま声を失い、オペレーターたちは我が目を疑うようにモニターに顔を近づけている。
「嘘……」
瑞穂の喉から、掠れた声が漏れた。
画面に映し出されているのは、彼女が人生を賭けて追い求めていた、「完璧に調和した、人類を救う絶対安全な炉」の姿そのものだった。そのデータの圧倒的な美しさに、彼女は鳥肌が立つのを抑えられなかった。
科学を純粋に愛する天才だからこそ、理解できてしまう。
目の前にいるこの冷酷な男は、自分たち現場の人間を遥かに陸駕する、物理の深淵を覗き込んだ「本物の怪物」であるということを。警戒心は一瞬で消し飛び、瑞穂の胸の奥に、抗いがたい強烈な尊敬と信頼の芽が宿ってしまった。
「これで分かったかね、小野寺君」
敷島はコンソールから離れ、気怠そうにスーツの袖口を整えた。
「高温ガス炉は、最初から完璧なのだよ。物理法則がそう定めている。君たちが余計なノイズさえ混ぜなければ、この炉は百年でも二百年でも、メンテナンスフリーでクリーンな水素を人類に供給し続ける。……さあ、設計図は完成した。明日から、実証炉『天の火』の本格的な建設を開始する」
「はい……! はい、敷島先生!」
瑞穂は、自分でも無意識のうちに、その男を「先生」と呼んでいた。彼女の目は、今や狂信的なまでの熱を帯びて、敷島の横顔を見つめていた。
遠藤だけが、拳を血が滲むほど握り締め、背筋を伝う奇妙な悪寒に震えていた。
確かに目の前のシミュレーションは完璧だ。だが、現場の勘が、何かが致命的に欠落していると告げていた。
敷島は背を向け、部屋を出る直前に、誰も気づかないほどの微かな笑みを浮かべた。
彼が書き換えた「完璧なコード」。
初期状態の静的な調和としては百点満点だが、そこには、「長時間運転によるマテリアルの経年劣化(不純物による微小腐食や、高温水素による金属脆化)」のパラメーターが、一ミリも含まれていない。
小野寺瑞穂という純粋な駒を手に入れ、国家の財布から数十兆円を吸い上げるための「ストロー」は、今、これ以上ないほど美しく開通した。




