第2-3話 神の火の分配(THE DISTRIBUTION OF GOD'S FIRE)1
【五十兆円の血肉(THE BLOOD AND FLESH OF FIFTY TRILLION)】
その部屋には、血の匂いが漂っていた。
もちろん、物理的な血液が流れたわけではない。だが、国家予算から毟り取られた「五十兆円」という名の生々しい血肉の塊が、そこへ群がる無数の獣たちの喉鳴りを誘っている――そんな、精神的な血生臭さだった。
「経済産業省令に基づく、第一期・クリーン水素エネルギー特別国債の発行が閣議決定された。枠は十二兆。……東洋重工、君らの口座に、明日、第一トランチとして二兆四千億が注ぎ込まれる」
東京・赤坂。一般の地図には看板すら載っていない、完全会員制の高級割烹。
柳原幸一郎は、特上の霜降り牛のすき焼きが放つ甘ったるい脂の湯気の向こうで、額の汗をナプキンで乱暴に拭いながら言った。彼の目は、政治家としての絶頂期特有の、座ったような野心の光を湛えている。
「下請けの選定はすべて私の指定したリスト通りにやれ。大手ゼネコン、配管メジャー、資材商社……どれも次の総選挙で我が派閥の命綱になる連中だ。遠藤本部長、君に拒否権は無いぞ」
その言葉を真っ正面から浴びせられた遠藤は、肉に箸を付けることもせず、無骨な拳を膝の上で震わせていた。彼の着慣れない安物のスーツの肩には、つくばの現場からそのまま持ってきた黒鉛の微粉末が、微かに白い汚れとなって残っている。
「柳原大臣……二兆四千億の血税を、そんな利権の生け贄にするつもりですか。まだ実証炉の基礎工事の設計すら、現場では揉めているんです。地盤の岩盤応力解析が――」
「黙れ、職人が」
柳原が冷酷に言い放ち、冷えたビールを喉に流し込んだ。
「お前たち技術者がどれだけ高尚な理想を掲げようが、金という血液が回らなければ、ただの鉄屑だ。私はその血液を引っ張ってきた。なら、その分け前を誰に配るかは、私の領分だ。お前は黙って、敷島先生の言う通りに炉を作っていろ」
遠藤は、柳原の斜め後ろに、影のように佇んでいる男に視線を走らせた。
敷島怜。
彼はこの狂乱の利権劇のド真ん中にいながら、上等な刺身の一片すら口にせず、ただ手元のグラスのミネラルウォーターを見つめていた。その冷徹な双眸は、五十兆円の利権に群がる政治家や重工幹部たちを、まるで腐肉に群がるハエか何かのように、淡々と見つめている。
「遠藤本部長、資本主義の生態系を否定するのは、物理法則を否定するのと同じくらい愚かなことだよ」
敷島が、絹のように滑らかな、しかし背筋が凍るほど冷たい声で呟いた。
「金が集まるところにノイズが混ざるのは必然だ。君はただ、私が提供した『完璧なシミュレーション』の通りに、現場の手を動かせばいい」
「敷島……お前……」
遠藤は奥歯を噛み締めた。この男がつくばの研究所でスパコンのバグを一瞬で解いたあの瞬間、自分の中の「職人のプライド」は一度死んだ。だが、現場の皮膚感覚が、この異常なスピードのプロジェクトに、ずっと警鐘を鳴らし続けている。
翌日。
つくば研究所の第一検査室は、熱気と苛立ちで破裂しそうだった。
二兆四千億の予算執行と同時に、世界中から『天の火』計画用の中核部品が、巨大なコンテナで次々と運び込まれていた。そのすべてが、敷島が裏で完全買収したという欧州の精密セラミックメーカーの刻印を押された、超一級品の絶縁体や磁気軸受だった。
「すごい……完璧。このセラミック、ミクロン単位で結晶粒径と組織構造が均一に整列してる。日本のメーカーじゃ、逆立ちしてもこの歩留まりは出せない……!」
小野寺瑞穂は、電子顕微鏡のモニターに映し出された特殊セラミックの組織構造を見つめ、恍惚とした声をあげていた。
ここ数日、彼女は一時間しか寝ていなかった。エナジードリンクの空き缶がデスクにピラミッドのように積み上がり、作業着の襟元からは徹夜続きの独特の体臭が微かに漂っている。しかし、その瞳だけは、狂信的なまでの熱量でギラギラと輝いていた。彼女にとって、敷島がもたらしたこの部品たちは、人類を救う「神の火」のパーツそのものだった。
「小野寺、その結晶データ、僕にも見せろ」
背後から近づいた遠藤が、瑞穂のコンソールを覗き込んだ。遠藤は、コンテナから取り出したばかりの、直径三十センチほどの特殊セラミック製絶縁リングを、素手でじっと撫で回していた。
「本部長、触らないでください! 手の脂がついたら皮脂洗浄からやり直しです!」
瑞穂が鋭い声をあげる。かつての健気な教え子は、いまや敷島のシミュレーションを守るためなら、上司に刃を向けることも躊躇わない「刃物」に変貌していた。
「……なぁ、小野寺。これ、本当に『完璧』か?」
遠藤は、瑞穂の怒声を無視し、セラミックのリングを光に透かしながら呟いた。
「何言ってるんですか。シミュレーションの熱伝導率とも、百パーセント一致しています。敷島先生の計算通りです」
「手触りが、滑らかすぎるんだ」
遠藤の親指が、セラミックの微細なエッジをなぞる。
「長年、現場で高圧プラントのバルブを触ってきた。いい素材ってのは、手を入れた瞬間に、物質特有の『粘り』というか、応力を押し返す抵抗を感じるもんだ。だが、この欧州製の部品にはそれがねえ。まるで、最初から『壊れる瞬間』を隠すために、表面だけを極限まで綺麗に整形された……プラスチックの偽物を触っているみたいだ」
「それは本部長の『古い勘』っていうオカルトです!」
瑞穂は立ち上がり、遠藤の手から乱暴にリングを奪い取った。
「敷島先生の数式は、東洋重工のスパコンの全ノードを回して正しいと証明されたんです。現場の、汗臭い経験則なんかより、数字のほうが絶対に正しい!」
瑞穂の目は、完全に遠藤を「過去の遺物」として見下していた。
遠藤は、哀れみと、言葉にできない恐怖を覚えながら、瑞穂から一歩遠ざかった。
彼は、胸ポケットに入れていた欧州サプライヤーからの『納品書』のコピーを指でなぞった。
そこには、部品一個あたり、日本の市場価格の五倍以上の「技術ライセンス料」が上乗せされ、それがスイスの『アルプス・インテリジェンス』系列の不可解なペーパーカンパニーの口座へと、合法的に流れるようなファイナンス構造が、アリの這い出る隙もない緻密さで組み込まれていた。
二兆四千億の血。五十兆円の肉。
それが、国策という大義名分のもとで、敷島怜という巨大な「ストロー」へ向かって、ゴボゴボと音を立てて吸い上げられていく。
誰も気付いていない。
そのストローの先端にある、完璧に美しいセラミックのリングの内部で、微視的な「時間差の亀裂(ストレス・リークの種)」が、静かに、確実に育ち始めていることに。




