第2-4話 神の火の分配(THE DISTRIBUTION OF GOD'S FIRE)2
【盲信の数式(THE BLIND FAITH OF EQUATIONS)】
午前二時。つくば研究所の第一シミュレーション室は、一種の宗教的な狂気に満ちていた。
遮光カーテンが完全に閉め切られた部屋のなか、床一面に散乱したエナジードリンクの空き缶と、酸化したコーヒーの臭いが漂っている。巨大なホログラムディスプレイが放つ不気味な青白い光だけが、小野寺瑞穂の痩せ細った顔を照らし出していた。
「――また、消えた」
瑞穂はカチカチと狂ったようにマウスを連打した。その指先は小さく震え、爪は短く噛み切られている。
画面には、敷島怜から与えられたあの「完璧な調和の数式」をベースにした、制御棒挿入アルゴリズムの実行画面が映っていた。
九百五十度の巡航運転、熱出力百パーセント。そこまではスパコンの計算を何度回しても、神の手で調律されたチェロの弦のように美しいサインカーブを描く。しかし、数万回に一回のランダムな確率で、中性子束の微小な「量子ゆらぎ」とヘリウムの「渦流」が重なった瞬間――
画面の数値が完全にフリーズし、すべての項が『NaN(Not a Number:非数)』、つまり計算の空白へと反転するのだ。
「そんなはずはない……。敷島先生の数式に、エラー(ノイズ)があるわけがない……。私のパラメータの入力ミスだ。私が、先生の美しさを汚しているんだ……」
瑞穂はブツブツと呪詛のように呟きながら、自分の頭を拳で何度も叩いた。
彼女はもう、二日間寝ていない。脳内を駆け巡る数式と、敷島への狂信的な思慕が、彼女から「科学者としての客観性」を完全に奪い去っていた。いまや彼女にとって、敷島のエラーを疑うことは、自らの信仰の破滅を意味していた。
「自分の頭をいじめても、バグは消えないよ、小野寺君」
背後の闇から、冷徹な、しかし瑞穂にとっては救世主の讃美歌のような声が響いた。
敷島怜だった。
彼はこの深夜であっても、完璧なアイロンがけが施されたドレスシャツのボタンを一つも緩めず、ポケットに両手を突っ込んで立っていた。その歪みのない端正な顔立ちを前にして、瑞穂はまるで免罪を求める信徒のように、椅子から転げ落ちるようにして縋り付いた。
「敷島先生……! み、見てください! 私の組み方が悪いんです! 先生の連成近似式を入れると、この超高圧ノードの瞬間的な境界条件で、制御ソフトの演算がフリーズするんです! 物理的な遅延じゃない、数学的な死角が……!」
敷島は、瑞穂が差し出した血の滲むようなデバッグログの画面を、冷たい双眸で見下ろした。
そこに現れているフリーズは、敷島にとっては「計算通り」の現象だった。
彼が作った数式は、初期の熱流動を美しく見せるための『ハリボテの理想系』だ。実プラントが稼働し、マテリアルが微細に変形・リークを始めれば、そのズレを吸収しきれなくなったアルゴリズムが、ある瞬間に決定的な「演算停止」を起こす。かつて彼が残した爪痕のように、今回もまた、国家をハメるための致命的な「仕込み」がそこに隠されていた。
しかし、敷島は取り乱す瑞穂の細い肩に、そっと、驚くほど優しく手を置いた。
「……っ」
瑞穂の身体が、電流が走ったように硬直する。その顔が、徹夜の土気色から一瞬で羞恥の赤へと染まった。
「落ち着きなさい、小野寺君」
敷島は、彼女の耳元で囁くように、甘く、冷たい声を紡いだ。
「君は優秀だ。だが、凡人の作るスパコンの限界に惑わされている。それは実在しない、デジタル演算特有の『離散化ノイズ』に過ぎない。現実の物理空間では、ヘリウムの優れた熱伝導性と黒鉛の圧倒的な熱容量が、その程度の極小のゆらぎなど一瞬で熱散逸させてしまう。……私の数式を信じなさい。君だけが、私と同じ深淵の景色を見られる人間だ」
「先生……。あ、私……私だけが……」
瑞穂の瞳から、正気の光が完全に消えた。
敷島の手の温もり(それすらも計算された温度だったが)と、「君だけが」という悪魔の全肯定が、彼女の脳細胞を完全に麻痺させた。
それは恋愛感情という生ぬるいものではない。天才であるがゆえに孤独だった瑞穂が、自分以上の「絶対的な知性」に精神の主導権を完全に明け渡してしまった、生々しい依存の瞬間だった。
「はい……。これはノイズです。先生の言う通り、現実の炉は、こんなエラーなんて起こさない……」
瑞穂はうっとりとした目で画面を見つめ、バグのログを「例外処理(例外無視)」のコード条件節へと押し込んだ。
「――何がノイズだ! 小野寺、お前、正気か!?」
部屋の明かりが突然乱暴に点けられ、遠藤が飛び込んできた。
彼の目には、かつて自分が泥臭く育て、誰よりも科学に誠実だった教え子が、一人の詐欺師によって精神を完全に解体されていくことへの、激しい怒りと悲痛が燃えていた。
「遠藤本部長……無断でシミュレーション室に入らないでください。ここは現在、政府直轄の最高機密エリアです」
瑞穂は振り返り、氷のように冷たい、完全に生気を失った声で言い放った。その変わり果てた姿に、遠藤は息を呑んだ。
「小野寺、お前、そのバグを隠すつもりか!? 数万回に一回だろうが、制御システムがフリーズすりゃあ、緊急時に制御棒が落ちねえってことだぞ! 高温ガス炉はメルトダウンしねえかもしれんが、炉内の熱交換器が過熱でぶっ壊れりゃ、放射性物質が外部の水素ラインに大リークする! この国が終わるんだぞ!」
「終わりません」
瑞穂は淡々と言った。
「物理法則が安全だと証明しています。遠藤本部長、あなたの言っていることは、数式を理解できない人間の、ただのヒステリーです。現場の汗臭い経験論で、敷島先生の調和を汚さないで」
「この、バカ娘が……!」
遠藤が敷島に向かって突進しようとしたが、敷島はただパテックフィリップの金時計をパチンと閉じ、一歩も引かずに冷笑を浮かべた。
「遠藤本部長。君の席は、もうこの研究所には無いよ」
敷島は懐から、経済産業大臣・柳原の直筆サインが入った『人事更怠命令書』を突きつけた。
「君のような『泥臭い職人』のノイズは、五十兆円の国策プロジェクトの歯車を狂わせる。明日から君は、地方の資材置き場の管理監に異動だ。……科学の進化について来られない老兵は、大人しく帳簿の隅で朽ち果てるがいい」
「敷島……! お前ら、全員狂ってる……! 数式を神様だと勘違いして、足元のマテリアル(現実)が見えてねえんだ!」
遠藤は床に唾を吐き捨て、瑞穂を一瞥すると、激しい足音を立てて部屋を去っていった。
静寂が戻ったシミュレーション室で、敷島は瑞穂の頭を優しく撫でた。
「よくやった、小野寺君。これで、我々を邪魔するノイズは全て消えた」
「はい……先生。私は、あなたのためだけに、この炉を完成させます」
青白いホログラムの光のなかで、瑞穂は幸せそうに微笑んだ。
彼女が盲信したその数式の裏側で、五十兆円の水素国債を担保にした「清算」の利息が、さらに凶暴に膨れ上がっていることには、まだ誰も気づいていなかった。




