第2-5話 神の火の分配(THE DISTRIBUTION OF GOD'S FIRE)3
【外圧のストロー(THE EXTERNAL VACUUM)】
南シナ海の制海権が完全に麻痺して三ヶ月。地政学的な動脈硬化は、この国の自律神経を確実に破壊しつつあった。
銀座の夜は千九百七十年代の第一次オイルショックを思わせる暗がりに沈み、工場は操業短縮に追い込まれ、国民は目減りしていく購買力と上がらない給与の狭間で喘いでいる。この窒息寸前の国家において、つくばで建造が進む高温ガス炉実証炉『天の火』は、もはや単なる次世代エネルギー計画ではなかった。沈みゆく泥船が見つめる、唯一の「救国の蜘蛛の糸」だった。
「――だから、共同開発という名の技術泥棒に、我が国の未来を渡せるかと言っているんだ!」
経済産業省の大臣執務室。柳原幸一郎は、重厚なマホガニーのデスクをこれ以上ない激しさで叩きつけた。灰皿の中で揉み消された何本ものタバコから、酸っぱいヤニの臭いが立ち上っている。
彼の前に立っているのは、外務省の経済局長だった。恭懃無礼な笑みを張り付かせたそのエリート官僚は、一通の極秘公電をデスクに滑らせる。
「大臣、感情論ではシーレーンは開きませんよ。ワシントンからの要求です。米国のエネルギーメジャーを『天の火』のコアメンバーに迎え、高温ヘリウムの流体制御データをすべて共有しろと。拒否すれば、我が国への半導体製造装置の禁輸措置、および防衛共同条約の『再解釈』を匂わせてきています。……それだけではありません。北京からも、民間ルートを通じて、この計画に資本参加させろと、凄まじい額の融資の打診が来ています。挟み撃ちですよ」
「ふざけるな……! 五十兆の水素国債を刷って、ここまできたんだ! これは私の、いや、この国の生命線だ! どこの馬の骨とも知れん大国に、果実だけを吸い上げられてたまるか!」
柳原の怒号は、自らの政治生命が、国際政治という剥き出しの暴力の前に「ただのベニヤ板」に過ぎないことを自覚した、臆病な獣の悲鳴だった。愛国心という綺麗なお題目の裏にあるのは、次期総理の座への執着と、破滅への恐怖。その醜い焦燥を、部屋の隅のソファに腰掛けた敷島怜は、極上のエスプレッソを口に含みながら、ただ楽しげに眺めていた。
「見苦しいですよ、柳原大臣。国家の主権だの、防衛権だのという形のない概念に縛られているから、そんな安っぽい恫喝に怯えることになる」
敷島はカップをソーサーに戻すと、パチンと金時計の蓋を閉じた。
「米国も中国も、実態はただの『巨大な資本の集積体』に過ぎない。彼らが欲しがっているのは『天の火』というロマンそのものだ。なら、その欲望を等しく吸い上げて、こちらのストローの太さに変えてしまえばいい」
「……何だと?」柳原が血走った目で敷島を見た。
「すでに、私が管理するスイスのファンドを通じて、米国のエネルギーメジャー、および中国系のインフラ投資組合の双方に、『天の火』の中核サプライヤーである欧州精密セラミック会社の株式を、それぞれ『十五パーセントずつ』高値で譲渡する契約を結びました」
「貴様、何をしてくれたんだ!!」柳原が敷島に飛びかからんばかりに身を乗り出す。「国家機密のサプライチェーンを、敵味方双方に売り渡したというのか!?」
「売り渡した? いいえ、彼らを『人質』に取ったのですよ」
敷島は端正な顔立ちに、ゾッとするほど美しい笑みを浮かべた。
「これで彼らも、このプロジェクトが成功しなければ、巨額の投資価値を失う『運命共同体』だ。ワシントンの横槍も、北京の妨害工作も、明日からピタリと止まります。……ただし、中核部品の価格は従来のさらに一・五倍に跳ね上がりますがね。その超過分のライセンス料は、すべて国債の追加発行分から、我がファンドへ合法的に還流される。国家の財布(国債)から、米中の欲望を経由して、私の元帳へ。これほど美しい資金の対流が、他にありますか?」
「お前は……お前という男は……」
柳原は、膝のがたがたという震えを止められなかった。この男にとって、国家の安全保障も、主権も、ただの「金勘定の変数」に過ぎないのだ。
同じ頃。深夜のつくば研究所・第一検査室。
カードキーの権限を剥奪されたはずの遠藤は、泥臭い職人の執念で、監視カメラの死角を突いて室内に潜入していた。彼の作業着のポケットには、自費で購入した超音波探傷器と、特殊な化学浸透液が入っている。
「小野寺……お前が数式しか見ないなら、俺がこの『現実』を暴いてやる」
遠藤は、明日炉心へ搬入される予定の、欧州製特殊セラミックリングの前に這いつくばった。
敷島が米中に株を転がして暴利を貪っているとも知らず、現場に届けられた「完璧な部品」。遠藤はその美しい表面に、特殊な浸透液をスプレーし、超音波の端子を押し当てた。
探傷器のインジケーターが、不規則なパルスを刻み始める。
その波形を見た瞬間、遠藤の顔から完全に血の気が引いた。
「……嘘だろ……」
電子顕微鏡のデジタルデータでは「完全に均一」と示されていた結晶組織の、わずか数ミクロン奥深く。そこには、結晶の粒界に沿って、目に見えないレベルの「微細な空隙」が、まるで癌細胞のように無数に配置されていた。
これは製造ミスではない。あまりにも精密に、意図的に仕込まれた「時限爆弾」だ。
初期の試験環境(常温の二十度や、短時間の九百五十度)では完璧に耐える。しかし、実証炉が臨界に達し、九百五十度の超高温下で、極めて元素サイズの小さい単原子ガスであるヘリウムが数十気圧で循環を始めた瞬間――この微細な空隙にヘリウムが侵入して内圧破壊を引き起こす。さらに、併設する水素製造ラインから漏れ出る高圧水素によって材料の高温脆化が重なれば、素材はガラスのように脆くなり、数年、いや早ければ数百時間で、炉心構造そのものが「熱応力と内圧による剪断崩壊」を起こす。
「敷島……あの野郎、わざとこれを……! 最初から、この炉を何年も動かす気なんてサラサラねえんだ!」
遠藤は、探傷器のログデータを震える手でUSBメモリに叩き込んだ。
数式を神と崇め、敷島の胸の中で夢を見ているかつての教え子・瑞穂。そして、五十兆円の利権の甘い汁を吸い上げるストローの心地よさに酔いしれる政治家たち。
彼らが縋り付く「絶対安全の楽園」の正体は、点火した瞬間に内側から腐食を始める、物理法則の冷酷な罠だった。遠藤はデータを握り締め、闇の中へと駆け出した。この事実を突きつけて、あの狂った輪転機を止めなければならない。




