第2-6話 神の火の分配(THE DISTRIBUTION OF GOD'S FIRE)4
【告発のタイムリミット(THE DEADLINE FOR ACCUSATION)】
深夜二時のつくば研究所は、まるで巨大なコンクリートの墓標のように静まり返っていた。
だが、その最奥にある小野寺瑞穂の個室だけは、異様な熱を孕んでいた。
バチバチバチバチ、と硬質なタイピング音が狭い室内に響き渡る。
デスクの上には、飲み干された何本ものエナジードリンクの缶が転がり、底に残った合成甘味料の薬品臭が鼻を突く。モニターの青白い光に照らされた瑞穂の顔は、幽鬼のように白く、むき出しの眼球だけが異常なほど充血していた。数日前からまともに風呂にも入っていない彼女の作業着の襟元は薄汚れ、脂ぎった髪が額に張り付いている。
しかし、彼女の唇は笑っていた。
「……美しい。すべてが敷島先生の仰る通りの調和に収束していく……」
画面の中で踊る熱流動の数式。それは現実の泥臭い摩擦や劣化を無視した、机上の楽園の地図だった。だが、今の瑞穂にとって、その地図こそが唯一の信仰であり、世界のすべてだった。
その楽園の扉が、乱暴に蹴破られた。
「小野寺! 手を止めろ!」
飛び込んできたのは遠藤だった。息は激しく乱れ、作業着の膝には地下検査室を這い回った際の黒い油汚れが擦り切れるほどついていた。その目は血走り、無骨な手には一つのUSBメモリが固く握りしめられている。
「遠藤さん……?」
瑞穂はキーボードから指を離さず、首だけをゆっくりと遠藤に向けた。その瞳には、かつて自分を一人前の技術者に育ててくれた師への敬意など、微塵も残っていなかった。
「無断で私の部屋に入らないでください。ここは明日からの実証炉稼働に向けて、敷島先生から全権を預かっているエリアです」
「敷島、敷島と、お前はそればっかりか!」
遠藤はデスクに歩み寄り、握りしめていたUSBメモリを、瑞穂のキーボードのすぐ横に叩きつけた。プラスチックが硬い音を立てて跳ねる。
「これを見ろ! 俺が今、地下の資材搬入路に忍び込んで、明日炉心に組み込まれる欧州製のセラミックリングを直接、超音波で叩いてきたデータだ! お前らがスパコンの画面だけで『完璧だ』と拝み倒しているあのマテリアルの、内側の断層画像だぞ!」
瑞穂は、キーボードの横の黒い物体を、まるで汚物でも見るかのように一瞥しただけだった。
「それが何ですか? 欧州のトップメーカーが、先生の監修のもとで製造した最高級品です。エラーがあるわけがない」
「エラーじゃない! 『仕込み』だ!」
遠藤は身を乗り出し、瑞穂の顔の前に自身のノートPCを開いた。画面に映し出されたのは、セラミック組織の拡大画像。一見すると均一な結晶組織の隙間に、まるで針の先で突いたような微細な空隙が、規則的に、そして無数に並んでいた。
「見て分からんか、天才シミュレーターのお前なら! この空隙は、製造段階で意図的に作られたものだ。常温や、短時間のシミュレーションじゃ絶対に検出されん。だがな、炉心に火が入り、九百五十度の超高温下で、四十気圧のヘリウムガスがこの隙間に流れ込んだらどうなる? 単原子ガスのヘリウムが元素サイズでこの空隙に侵入し、内圧破壊を引き起こす。さらに、併設するラインから漏れ出す高圧水素による高温脆化が重なれば、強度は一瞬でガラス以下になるんだ!」
遠藤の額から汗が滴り、瑞穂のデスクに落ちた。
「敷島はお前を騙している。この炉は、稼働してから数百時間で、内部から熱応力による構造崩壊を起こす。メルトダウンはしねえ。だが、中の熱交換器がクラッシュすりゃあ、高濃度の放射性物質が外部の水素ラインに混ざって、日本中に大リークするんだぞ! 救国のエネルギーどころか、この国を永久に再起不能にする毒の釜だ!」
遠藤の必死の叫びが、狭い部屋に木霊する。
しかし、瑞穂の表情はぴくりとも動かなかった。彼女はゆっくりと立ち上がると、遠藤のノートPCの画面を、指先で静かにパタンと閉じた。
「……あなたのその『現場の皮膚感覚』、本当に哀れですね」
「何だと……?」
「敷島先生は、この空隙の存在すら、最初から計算に組み込んでいらっしゃいます」
瑞穂の口から出たのは、科学的な論理ではなく、完全な狂信の言葉だった。その生々しいほどに虚ろな目が、遠藤を射抜く。
「これは素材の欠陥ではありません。超高温下におけるヘリウムの『ミクロな熱散逸』を促すための、高度な多重解シミュレーションの一部です。あなたの言っている強度の低下は、古典的な材料工学の範疇でしかない。先生の描く数式は、もっと高次元の、時間と熱の調和の中で成り立っているの。……数式を理解できない凡人が、現場の錆びた物差しで先生の美しさを測ろうとしないで」
「小野寺、お前……正気か?」
遠藤の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けた。
彼女は騙されているのではない。騙されているという事実すらも、敷島の「絶対的な知性」という麻薬によって、自ら進んで肯定しているのだ。敷島に認められ、彼の世界の唯一の理解者であるという快感が、瑞穂という人間を内側から完全に解体していた。
「もういいです、遠藤さん。あなたをこれ以上ここに置いておくと、データの調和が濁る」
瑞穂はデスクの上のインターホンに手を伸ばし、冷酷にボタンを押した。
「警備室ですか。第一シミュレーション室に、権限のない不審者が侵入しています。今すぐ排除してください」
「小野寺!!」
「さようなら、過去の遺物」
瑞穂は再びモニターに向き直り、何事もなかったかのようにタイピングを再開した。
廊下から、複数の重い足音が近づいてくる。遠藤は唇を血が出るほど噛み締めると、デスクの上のUSBメモリを力任せにひっつかんでポケットに叩き込み、非常階段の闇へと駆け出した。かつて自分が技術のいろはを教え、誰よりも科学に誠実だったはずの教え子は、もうどこにもいなかった。
*
二時間後。東京・麻布にある経済産業大臣・柳原幸一郎の私邸。
重厚な書斎の空気は、煙草の煙で黄色く澱んでいた。
「……深夜に叩き起こして、泥棒のように裏口から入ってきたと思えば、何だこの紙切れとメモリは」
柳原は、高級な絹の寝間着の上にガウンを羽織っただけの姿で、ソファに深く腰掛けていた。その顔は、加齢と連日の電力逼迫対応による疲労で、土気色に弛んでいる。彼は遠藤が差し出した臨時の検査レポートとUSBメモリを、忌々しそうに老眼鏡越しに眺めていた。
「実証炉の中核部品に致命的な欠陥。稼働後、数百時間で内部崩壊……。遠藤、お前、自分が何を言っているか分かっているのか?」
「分かっています! だからこそ、明日の点火を止めろと言っているんです、大臣!」
遠藤は柳原の前に膝をつき、絨毯を拳で叩いた。
「敷島はペテン師です。あの男の持ってきたサプライチェーンも、シミュレーションも、すべては『数年後に確実に壊れる』ように巧妙に設計されたハリボテだ。今すぐプロジェクトを凍結し、欧州の全部品の再検査を行わなければ、明日、あの炉に火を入れた瞬間に、我が国は五十兆円の負債とともに地獄へ落ちます!」
柳原は煙草を灰皿に押し付け、ふぅ、と重い息を吐き出した。
その目は、遠藤のレポートを拒絶していなかった。政治の修羅場を生きてきた柳原には、遠藤のこの必死さが「本物の真実」を突いていることくらい、直感で分かっていた。だが、分かっているからこそ、彼の顔は醜く、歪んでいった。
「……止められるわけがないだろう」
柳原の声は、地を這うように低かった。
「大臣!」
「黙れ!!」
柳原が立ち上がり、激しく机を叩いた。高級なクリスタルのペン立てがガタガタと震える。
「お前ら技術者は、いつでも『真実』だの『安全』だのという綺麗な正義でモノを言う! だがな、この国の政治はもう、あの『天の火』が成功するという前提で、五十兆円の国債を刷りちぎって回っているんだ! 大手ゼネコンも、重工メーカーも、地元の支持基盤も、みんなあの予算の血肉を吸って、ようやく息をしている!」
柳原は遠藤に近づき、その胸ぐらを乱暴に掴み上げた。老人のものとは思えない、執念に満ちた生々しい力が遠藤の襟を絞める。柳原の口から、ヤニ臭い息が遠藤の顔に吹き付けられた。
「今さら『敷島に騙されました、部品に欠陥がありました、明日からの稼働は中止です』と発表してみろ。明日の朝一番で、我が国の国債と株価は暴落し、内閣は即座に総辞職だ。私は歴史に名を残す『大愚物』として、一族郎党まですべてを失うんだよ!」
「……ならば、数年後に炉が壊れて、放射性物質が漏れてもいいと言うんですか!」
「数年後だろう!?」
柳原は遠藤を突き放し、狂ったように笑った。
「数百時間、数年……。そこまで動けば、実証試験は『一時的に成功した』と見なせる。その後に起きる崩壊は、現場の『予期せぬ運用ミス』か『不可抗力』として処理すればいい! その頃には私は総理大臣の座に座っているか、政界を引退して極上の退職金をもらっている! 後の奴らがどれだけ胃を痛めようが、知ったことか!」
遠藤は呆然と、目の前の最高権力者を見つめた。
ここにあるのは、国を救う大義名分などではない。サンクコスト(埋没費用)の化け物に魂を売った、一人の老政治家の、生々しく、醜い保身の剥き出しの本音だった。
柳原はデスクの脇にある、業務用の大型電動シュレッダーの電源を入れた。
ブゥゥゥン、と重々しいモーター音が書斎に響く。
彼は遠藤の持ってきた検査レポートの束を、その吸い込み口へと迷わず差し込んだ。
ジョリ、ジョリ、ジョリジョリジョリ――。
鋭い刃が、遠藤の血の滲むような警告データを、冷酷に細切れの紙屑へと変えていく。その音が、書斎の重苦しい空気の中で、まるでこの国の未来が物理的に押し潰されていく断末魔のように響いた。さらに柳原は、デスクの上のUSBメモリをつまみ上げると、自らの重厚な金庫の奥へと放り込み、ガチャリと鍵をかけた。
「遠藤。お前の持ってきたUSBは、私が預かっておく。お前はもう、この件に一切触れるな。地方の資材置き場で、大人しく余生を過ごせ。……それが、お前が生き残る唯一の方法だ」
柳原はシュレッダーのゴミ箱に落ちた紙屑を見つめたまま、遠藤に背を向けた。
遠藤は、拳を血が滲むほど握り締めながら、一言も発せずに書斎を後にした。
外に出ると、東の空が、不気味なほど白々と明け始めていた。
国家という名の巨大なストローは、自らを破滅させる夢の火に向かって、もう止まることのない暴走を始めていた。




