第2-7話 神の火の分配(THE DISTRIBUTION OF GOD'S FIRE)5
【臨界前夜(THE EVE OF CRITICALITY)】
午前三時、つくばの地下五十メートルに建設された『天の火』中央制御室。
すべてのオペレーターが仮眠室へと去り、静まり返ったその空間は、まるで鋼鉄とコンクリートで築かれた巨大な神殿のようだった。数千のインジケーターが放つ微弱なLEDの光が、小野寺瑞穂の顔を青白く縁取っている。
瑞穂はコンソールの前に、ただ一人、彫刻のように座っていた。
彼女の身体は限界を迎えていた。最後にまともな食事をとったのがいつかも思い出せない。喉はカラカラに渇き、唇はひび割れて血が滲んでいる。だが、彼女の脳内は、かつてないほどの鋭敏さと、濁った恍惚感(トランス状態)に満たされていた。
中央の巨大なディスプレイには、実証炉心の三次元ホログラムが浮かび上がっている。
黒鉛ブロックの隙間を、ヘリウムガスが完璧な層流となって駆け抜ける。敷島怜から与えられたあの「美しい数式」の通りに、すべてが、寸分の狂いもなく調和していた。
「……できた。私が、人類を救うんだ」
瑞穂の喉から、掠れた笑いが漏れた。
遠藤の持ってきた「微細な空隙」のデータなど、今の彼女の脳内からは完全に消去されていた。あれは、敷島先生の調和を理解できない凡人の、哀れなノイズに過ぎない。自分は明日、この国のエネルギーの歴史を、ひいては人類の未来を塗り替える救世主になる。敷島という絶対的な知性に選ばれ、同じ深淵を見つめているという強烈な全能感が、彼女のすり減った精神を極限まで肥大化させていた。
「美しいだろう、小野寺君」
音もなく、背後の闇から敷島怜が現れた。その端正な輪郭は、青い光の中で大理石のように冷たく、完璧だった。
「先生……!」
瑞穂は弾かれたように立ち上がり、敷島の足元へ狂信的な視線を向けた。
「すべて……すべて先生の計算通りです。臨界へのプログラムは完全に同期しました。明日、この国は、本当の神の火を手に入れます!」
敷島は瑞穂の血走った、しかし幸福そうに爛々と輝く瞳を見つめた。その眼差しには、哀れみも親しみもなかった。ただ、自らが仕掛けた「心理的なストロー」が、この哀れな天才少女の脳髄の底まで完璧に突き刺さっていることを確認する、冷徹な観察者の目だった。
「よくやった。君の知性だけが、この嘘に満ちた世界で私の数式を具現化できた」
敷島はそう言うと、瑞穂の細い肩を、手袋をはめた手で優しく引き寄せた。
「明日、世界は私たちの調和を目撃することになる」
「はい……! はい、先生……!」
瑞穂は敷島の胸に顔を埋め、歓喜の涙を流した。自分が、この男の冷酷な帳簿の上で、最も都合よく踊らされている「最後のパーツ」であることなど、夢にも思わずに。
*
つくばでの掌握を終えた敷島は、専用のVTOL(垂直離着陸機)で夜闇を切り裂き、京都・貴船へと飛んでいた。
午前四時半。実証炉の竣工式を数時間後に控えた経済産業大臣・柳原幸一郎は、外界のせせらぎを遮断した貴船の料亭の一室で、狂ったように高級シャンパンを煽っていた。
「ハハハ! 見たか敷島! 米中も、外務省のヘタレどもも、みんな最後は私の足元に平伏した!」
柳原の顔は赤黒く充血し、脂ぎった額から大粒の汗がボタボタと畳に落ちていた。
彼の脳裏には、シュレッダーの刃が遠藤のレポートを切り刻む「ジョリジョリ」というあの生々しい音が、幻聴となって鳴り響き続けている。その罪悪感と破滅への恐怖を、彼はアルコールと、引き返せない五十兆円のサンクコスト(埋没費用)という誇大妄想で、無理やり麻痺させようとしていた。
「本日、あの炉に火が入れば、私は次の総裁選の特等席に座る。五十兆円の水素国債は、すべて私の歴史的レガシーだ! 遠藤の言う材料の寿命だと? そんなものは、私が権力の頂点に座ってから、いくらでも予算を組んで補修させればいい話だ! 違うか、敷島!」
対面に座る敷島は、柳原の醜い虚勢を、ただ冷ややかに見つめていた。
敷島の手元にあるグラスの水には、一滴のアルコールも混ざっていない。
「その通りですよ、柳原大臣。国家というシステムは、一度回り始めた輪転機を止めることはできない。君は、政治家として完璧な意思決定をした」
「そうだ……! 私が正しいんだ!」
柳原はグラスを床に叩きつけるように置き、下卑た笑みを浮かべた。
しかし、敷島は心の中で、柳原の「秒単位の寿命」をカウントダウンしていた。
敷島がこの数ヶ月で仕込んだのは、米中の利権調整だけではない。スイスの『アルプス・インテリジェンス』を通じて、彼はすでに「日本の国債の大規模なショート(空売り)」と、自らが百パーセント握る「欧州サプライヤーのライセンス利益確定売り」のクロス取引を、世界中の暗号資産市場とオフショア市場で完了させていた。
本日、実証炉『天の火』が点火され、一時的な「成功」のニュースが世界を駆け巡った瞬間が、敷島の利益の最高到達点となる。
そして数ヶ月後、あるいは数百時間後、炉心内部のセラミックリングがヘリウムリークによって物理的に破断し、五十兆円の国家プロジェクトが「永久に再起不能な黒鉛の塊」へとクラッシュした時、日本の国債は紙屑と化し、ハイパーインフレがこの国を襲う。その時、敷島の元帳(Ledger)には、一国の国家予算を遥かに凌駕する、真の「清算利益」が刻まれるのだ。
「柳原大臣。本日、火が灯る瞬間を、特等席で楽しんでください。物理法則は常に、支払われた対価にふさわしい結果を返してくれますから」
敷島は立ち上がり、ヴィンテージのパテックフィリップをパチンと閉じた。
その音は、この資源なき国に下される、冷酷な破産宣告の鐘のようだった。
窓の外、貴船の山端から覗く空が、不気味なほど真っ赤な朝焼けに染まっていく。
誰もが救済を信じるその前夜、物理法則という名の「絶対に踏み倒せない徴税人」は、すでに処刑台のレバーに手をかけていた。




