第2-8話 累積する負債(THE ACCUMULATING DEBT)1
【見せかけの楽園(THE SEEMING PARADISE)】
テレビの液晶画面の向こうで、狂乱のパレードが続いていた。
『――本日午前、つくばの次世代高温ガス炉実証炉「天の火」より、精製された第一号の「クリーン水素」を積んだ大型トレーラーが出荷されました! 臨席した柳原経済産業大臣は、「我が国は本日、エネルギーの完全独立を達成した」と力強く宣言……』
東京・大手町の高級ホテルの最上階スイートルーム。
柳原幸一郎は、仕立て直したばかりの最高級シルクの三つ揃えをまとい、ガラス窓の向こうに広がる東京の夜景を見下ろしながら、極上のボルドーワインを喉に流し込んでいた。
画面の中でカメラのフラッシュを浴び、割れんばかりの拍手の中で誇らしげに胸を張る自分。その姿は、数日後に控えた総裁選の「勝利」を誰の目にも確信させるものだった。
「ハハハ……見たか。誰もが私を拝んでいる」
柳原の頬は興奮とアルコールで赤黒く爛れ、その肥大化した自己愛は破裂寸前だった。
五十兆円の『脱炭素グリーン水素国債』は瞬く間に国内外の投資家に買い漁られ、東洋重工業の株価は年初来最高値を連日更新している。南シナ海の封鎖に怯えていた市場は一転して「水素社会の到来」という壮大なファンタジーに酔いしれ、狂ったようにマネーを注ぎ込んでいた。
数日前、自分の書斎で遠藤のレポートをシュレッダーにかけたときの、あのジョリジョリという不気味な刃の感触。それは今や、柳原の脳内で「勝利へのステップの音」へと都合よく変換されていた。
壊れる? 数年後に炉が内部崩壊する?
それがどうした。現に今、九百五十度の熱は水素を生み出し、金を動かし、私を総理大臣の椅子へと押し上げている。物理法則の限界など、この圧倒的な国策の濁流の前には、ほんのさざ波に過ぎない。
「すべては、私のレガシーだ……」
柳原は夜景に向かってグラスを掲げ、下卑た笑みを深く刻んだ。自らの足元で、五十兆円という莫大な負債のタイムリミットが、一秒ごとに音を立てて削られていることなど、この絶頂の夜には、微塵も感じられなかった。
*
同じ夜。その狂乱の中心地であるつくば研究所から、敷島怜の姿は完全に消えていた。
彼がいたのは、港区にある私設のプライベート・オフィスだった。調度品の一切が省かれた無機質な部屋の中、ただ一台の特注端末だけが、静かにファンの音を立てて稼働している。
カチリ、と敷島は千九百五十年代のヴィンテージ・パテックフィリップの蓋を閉じた。
画面に映し出されているのは、プラントの制御データではない。世界中のオフショア市場、暗号資産交換所、そしてスイスの『アルプス・インテリジェンス』を経由した、膨大な「清算」の帳簿だった。
「日本国債(JGB)先物、十トランチのショート(空売り)執行完了」
「東洋重工業株、および関連サプライヤー銘柄の貸株による売り建て、全ポジション設定完了」
無機質な電子音声が、敷島の完璧な「引き際」を告げていた。
世界が『天の火』の誕生を祝い、株価と国債が最高値を記録したその瞬間――そここそが、敷島にとっての「利益の最高到達点」だった。
敷島は、最初からこの炉を永続的に動かす気などなかった。
欧州の中核部品メーカーを完全買収して国策の予算を法外なライセンス料で吸い上げ、株価と国債を極限まで吊り上げたところで、今度はその「崩壊」を前提とした空売り(ショート)の網を地球規模で張り巡らせる。
数ヶ月後、炉が物理的な限界を迎えて停止した瞬間、五十兆円の国債は紙屑と化し、東洋重工は破産し、日本経済はハイパーインフレの奈落に落ちる。その時、敷島の元帳には、一国の国家予算を遥かに凌駕する純利益が、合法的に刻まれるスキームだ。
「人間は本当に、同じ過ちを繰り返す」
敷島はエスプレッソを静かに口に含み、薄い唇の両端をわずかに上げた。
かつてのヴァンデバーグも、今回の柳原も、目先のロマンとサンクコストに目を眩まされ、足元の物理法則の悲鳴から目を背けた。物理法則は一票の忖度も、一ドルの買収も認めない。支払うべき負債は、必ず、最も残酷な形で清算される。
敷島は端末の電源を落とすと、コートを手に取った。
つくばの研究所には、もう用はなかった。そこには、自分の代わりに破滅の泥水をすべて被ってくれる、完璧に調教された「防波堤」が残されているのだから。
*
つくば研究所・中央制御室。
午前二時を回った室内は、世界中の歓喜から隔離されたように、冷たい静寂が支配していた。
小野寺瑞穂は、チーフ・エンジニアの全権を示すゴールドのIDカードを胸に下げ、メインコンソールの前にただ一人、座り込んでいた。
出荷成功のニュース以来、彼女は研究所の「神」として崇められていた。役員たちは彼女に頭を下げ、部下たちは彼女の指示を絶対の命令として仰いだ。
だが、瑞穂の心の中にあるのは、名誉による充足感ではなかった。ひび割れた砂漠のような、強烈な焦燥感だった。
「……先生。どうして、お電話に出てくださらないのですか」
瑞穂は震える指で、私有のスマートフォンを握りしめていた。
ここ三日間、敷島の極秘回線に何度かけても、聞こえてくるのは「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか……」という無機質なアナウンスだけだった。研究所内をいくら探しても、彼のサヴィル・ロウのスーツ姿はどこにもない。
『君だけが、私と同じ深淵の景色を見られる人間だ』
あの夜、耳元で囁かれた敷島の甘く冷たい声が、瑞穂の脳内で何度も再生され、彼女の精神を辛うじて維持していた。先生は忙しいのだ。国家規模の利権からこの炉を守るために、裏で動いてくださっているのだ。私を信じて託してくれたからこそ、この制御室の全権を私に委ねたのだ――。
そう自分に言い聞かせなければ、恐怖で脳が破裂しそうだった。
その時、コンソールの端にある、通常はアラートすら鳴らない補助監視モニターの数値が、わずかに揺れた。
「……え?」
瑞穂は充血した目を凝らし、画面のログを凝視した。
炉心内部を循環する超高圧ヘリウムガスの総流量を示すパラメータ。
【九十九・九九九パーセント】
ほんの、わずか。計算値から「零・零零一パーセント」だけ、ガスが減少していた。
その瞬間、瑞穂の脳裏に、数日前に遠藤が狂ったように突きつけてきた、あの陰惨な断層画像がフラッシュバックした。
『この空隙に、単原子ガスのヘリウムが元素サイズで侵入し、内側からセラミックを爆発的に脆化させるんだ!』
「違う……!」
瑞穂は激しく頭を振り、自らの思考を力ずくで圧殺した。
「そんなはずはない! 遠藤さんは数式を理解できない凡人だから、そんなオカルトを信じるんだ。これはただの、配管の初期馴染み。バルブの熱膨張による、極小の容積変化に過ぎない。敷島先生の数式は完璧なんだから!」
瑞穂の指が狂ったように動き、零・零零一パーセントの減少を「システムの初期公差」として処理するコードを上書きした。画面のアラートは消え、再び美しい緑色の「正常」の文字が灯る。
だが、彼女の背中を伝う冷たい汗は、止まらなかった。
科学を純粋に愛していたはずの彼女の知性は、今やバグを検出するためではなく、敷島という神の正しさを証明するために、都合の悪い現実を「隠蔽」するための道具へと完全に成り下がっていた。
モニターの青白い光の中で、瑞穂は狂ったように笑みを浮かべ、再び繋がらない敷島の番号へ、発信ボタンを押し続けた。
炉心の奥深く。九百五十度の絶叫のなかで、超高圧のヘリウムが、セラミック組織に仕込まれた目に見えない「空隙」へと、確実に、一歩ずつ、侵入を始めていた。物理法則という名の徴税人が、見せかけの楽園の扉を、静かにノックした音だった。
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