第2-9話 累積する負債(THE ACCUMULATING DEBT)2
【最初の利息(THE FIRST INTEREST)】
チリ、チリ、チリチリチリ――。
それは、人間の耳では辛うじて捉えられるかどうかの、極めて高い周波数の不気味な微振動だった。つくば研究所の中央制御室。数日前まで世界中からの称賛に沸き返っていたその場所は、今や「物理法則」という名の冷酷な徴税人が、冷徹に電卓を叩く音で満たされていた。
「――嘘。なんで……なんで止まらないの!?」
小野寺瑞穂は、髪を両手で引きちぎらんばかりにむしり、コンソールに齧りついていた。
実証炉『天の火』の連続稼働時間が五百時間を超えたその日、楽園の数字は完全に牙を剥いた。
前話で「零・零零一パーセント」だったヘリウムガスの減少速度が、ここ数時間で、二次関数的なドミノ倒し――非線形の暴走を始めていた。
遠藤の予言は、あまりにも残酷な正確さで的中していた。欧州製の特殊セラミックに仕込まれた目に見えない「微細な空隙」に、四十気圧で狂ったように循環する超高温のヘリウムが、単原子ガスの元素サイズで深く楔入。素材を内側からスポンジのようにスカスカに変質させていたのだ。
さらに最悪なことに、九百五十度の熱を受け取るはずの熱交換器(ハステロイXR)の隔壁が、急速な熱疲労と、併設する水素製造ラインから逆流してきた高圧水素によって「水素脆化」を起こし、原子レベルでボロボロに砕け始めていた。
「バグじゃない……これは、実在する破壊のシミュレーション……!?」
瑞穂の指はガタガタと震え、まともにキーボードを叩けない。
彼女は敷島から与えられたあの「完璧な調和の連成近似式」に、現実の劣化パラメータを必死に打ち込み続けていた。だが、画面に弾き出されるのは、美しく収束するサインカーブではない。すべての数式が解を失い、画面全体が真っ赤なエラーコードで埋め尽くされていく。
現実の物理挙動は、敷島の美しかった数式を嘲笑うように、破滅へと向かって発散していた。
瑞穂の容貌は、見る影もなく荒廃していた。
一週間近くまともな睡眠をとっておらず、肌はカサカサに乾いて粉を吹き、唇の端からはストレスによる口内炎の血が滲んでいる。デスクの脇には、何十本目かも分からないエナジードリンクの空き缶が転がり、室内に饐えた薬品臭を放っていた。
だが、肉体の限界以上に、彼女の精神を内側からゴリゴリと削り取っていたのは、強烈な「見捨てられ不安」だった。
プルルルル、プルルルル……。
コンソールの横に置いたスマートフォンが、むなしく呼び出し音を鳴らし、そして切れる。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――』
「先生……お願い、出て。私を一人にしないで……!」
瑞穂はスマートフォンの画面に額を押し当て、子供のように泣きじゃくった。
何十回、何百回、敷島の極秘回線にかけても、返ってくるのはこの無機質な電子音声だけ。あの深夜、自分の肩に優しく手を置き、『君だけが、私と同じ深淵を見られる人間だ』と囁いてくれたあの男の温もりは、幻だったのか。
脳裏に、最悪の推測が、黒い毒のように広がっていく。
自分は「神の数式の理解者」などではなかった。敷島怜という巨大な怪物が、一国の富を吸い上げるストローを固定するための、ただの「使い捨ての防波堤」に過ぎなかったのではないか――。
「違う、違う! 先生は私を裏切らない! 私が、私が不甲斐ないから、先生の数式を現実のノイズで汚してしまったからだ……!」
瑞穂は狂ったように叫び、自身の爪を肉に食い込むまで噛み締めながら、再びエラーだらけのモニターへと視線を戻した。炉心内部からの「チリチリ」という金属とセラミックの悲鳴が、徐々にその音量を増していく。
*
同じ頃、つくばへと向かう常磐自動車道。
土砂降りの雨の中、ガタガタと震える型落ちの軽自動車を走らせている男がいた。遠藤だった。
地方の、文字通り泥と錆にまみれた資材置き場に左遷された彼は、しかし、職人としての魂まで漂白されてはいなかった。彼はこの数週間、かつて金融界で鳴らした自己勘定投資家の古い友人や、合弁会社の監査を担当する税務の知人を泥臭く訪ね回り、ある「巨大な帳簿の闇」を暴き出していた。
遠藤は、助手席に置いた泥汚れのついたカバンを一瞥した。
その中には、スイスの『アルプス・インテリジェンス』が、日本の『水素国債』が発行された瞬間から、裏でどれほどの規模の「ショート(空売り)」を仕込んでいたかを示す、確定的な国際送金と貸株決済のログが入っていた。
「あの野郎……最初から、この国丸ごとハメるつもりだったんだ」
遠藤は、ひび割れたステアリングを思い切り叩きつけた。
敷島怜の狙いは、高温ガス炉の完成でも、クリーン水素による資源独立でもなかった。『天の火』という完璧なロマンをエサに、国家に五十兆円の国債を刷らせ、株価を極限まで吊り上げたところで、今度はその「技術的破綻」を前提とした空売りの網を地球規模で引き絞る。
炉が壊れた瞬間、東洋重工は潰れ、五十兆円の国債は紙屑になり、日本経済はハイパーインフレのどん底に落ちる。だが、敷島はその破滅の瞬間に、一国の国家予算を遥かに凌駕する「清算利益」を得る。そのための精密なファイナンス・ハックだった。
「政治家どもが欲に目を眩まされている間に、なんて真似をしやがる……」
だが、遠藤がつくばへ引き返している最大の理由は、国家の財政を心配してのことではなかった。
あのシミュレーション室で、敷島の数式という名のカルトに脳を焼かれ、破滅のタイマーの前に置き去りにされた、かつての教え子――小野寺瑞穂の姿が、どうしても脳裏から離れなかったからだ。
「小野寺……お前はバカだ。天才のくせに、とんでもねえ大バカ野郎だ」
遠藤はアクセルペダルを床まで踏み込んだ。軽自動車の貧弱なエンジンが、悲鳴のような爆音を上げて雨のハイウェイを突き進む。
待っていろ、小野寺。数式がどれだけ綺麗だろうがな、現実のマテリアル(物質)は嘘を吐かねえんだ。お前をあの冷血なペテン師の呪縛から、引きずり下ろしてやる。
つくば研究所の地下深くでは、熱交換器のハステロイ合金の結晶組織が、水素の侵入によって、今まさにガラスのようにボロボロと崩れ落ちようとしていた。累積する物理的な「負債」の臨界点は、もう目と鼻の先まで迫っていた。




