第2-10話 累積する負債(THE ACCUMULATING DEBT)3
【国策の窒息(THE FISCAL SUFFOCATION)】
「ブー――ッ、ブー――ッ、ブー――ッ」
つくば研究所・中央制御室。ついに、最悪の警告音が鳴り響いた。
それは、ただの熱流動のエラーを示す黄色いランプではない。水素精製ラインの最終出口に設置された、放射線検知スクリーニングシステムが放つ、血のような赤の点滅だった。
「随伴放射能……検知……? そんな、ヘリウムが、水素ラインの隔壁を突き破ってリークしてる……?」
小野寺瑞穂は、コンソールにしがみついたまま、過呼吸のような引きつった息を吐いた。
一次冷却系のヘリウムガスに含まれる微量の放射性核種が、ボロボロに脆化した熱交換器の微細な亀裂を通り抜け、本来「完全にクリーン」でなければならない商用水素の製造ラインへと混入を始めていた。
今すぐ実証炉を緊急停止させ、すべてのバルブを遮断しなければならない。もしこのまま水素の出荷を続ければ、つくばから全国の水素ステーションへ向かうトレーラーを通じて、目に見えない死の灰が一般社会へと文字通り「大リーク」することになる。
震える手で、瑞穂は経済産業省の柳原大臣へと直通する、最高優先度の緊急回線のボタンを叩いた。
『――何事だ、小野寺!』
スピーカーから飛び出してきたのは、高級外車の後部座席でふんぞり返っている柳原の、ひどく機嫌の悪いダミ声だった。背景からは、総裁選を控えた選挙参謀たちの騒がしい怒鳴り声や、絶え間なく鳴る電話の音が混じって聞こえてくる。
「柳原大臣! 実証炉を止めます! 今すぐスクラムをかけさせてください!」
瑞穂はマイクに向かって、声を枯らして叫んだ。
「熱交換器が物理的に破断しました! 水素ラインに放射能が漏れ出しています! このままでは一般社会に汚染が――」
『バカを言うな!!!!』
柳原の狂ったような怒号が、スピーカーのコーンをビリビリと震わせた。その生々しい殺気と圧力に、瑞穂の身体がすくむ。
『止めるだと!? お前、自分が何を言っているのか分かっているのか! 総裁選の投開票は三日後だぞ! 五十兆円の水素国債を買い支えている海外の機関投資家どもが、日本の実証炉の動きを秒単位で監視しているんだ! 今ここで「放射能漏れで緊急停止」などというニュースを出してみろ! 国債は暴落、重工株は紙屑、この柳原の政治生命は一瞬で圧殺されるんだよ!』
「ですが、物理的に限界なんです! フィルターでは止めきれない! これ以上動かせば、炉心そのものが非線形崩壊を起こして――」
『あと七十二時間だ!!』
柳原の声は、完全に理性を失った獣の絶叫だった。画面越しでも、彼が顔を真っ赤に充血させ、脂汗を飛び散らせながら受話器を握りしめている姿が容易に想像できた。
『あと七十二時間、総裁選の投票箱が閉じるまで、死んでも出力を下げるな! 放射能だと? 精製フィルターの出力を限界まで上げて、数値を誤魔化せ! 排気塔のモニターの感度を一時的に下げろ! 現場の人間には「定期メンテナンスの誤差だ」と言っておけばいい! 後でいくらでも予算をつけてやる! だから今は動かせ! 動かし続けろォ!!』
ブツリ、と非情に回線が切れた。
ツーツーという無機質な音が、制御室の警告音にかき消されていく。
瑞穂は呆然とコンソールにへたり込んだ。
国を救うための「神の火」ではなかったのか。自分が人生のすべてを捧げて、敷島とともに見つめたあの美しい数式の楽園は、ただの老政治家が自身の保身と権力のために、引き返せない五十兆円のサンクコスト(埋没費用)という泥沼の中で溺れながら振り回す、醜いオモチャに過ぎなかったのだ。
「あは……あははは……」
瑞穂の口から、壊れた人形のような乾いた笑いが漏れた。
誰もいない深夜の制御室。赤く染まった視界の中で、彼女の精神の最後の糸が、プツリと音を立てて千切れようとしていた。
その時、制御室の重厚な防爆扉が、物理的な力で乱暴にこじ開けられた。
「小野寺!!!!」
ずぶ濡れの作業着をまとい、息を切らせた遠藤が、そこに立っていた。
彼の髪からは雨水が滴り、顔は長距離運転と怒りで充血していた。遠藤は一直線に瑞穂の元へと歩み寄ると、彼女の細い肩を乱暴につかんで揺さぶった。
「目を覚ませ、小野寺! 今すぐ炉を止めるぞ! 手遅れになる!」
「遠藤、さん……?」
瑞穂は虚ろな目で首を傾げた。その瞳には、もう生気が残っていない。
「遅いですよ……止められないの。柳原大臣が、動かせって。敷島先生の数式を、みんなが、政治の力で汚していくの……」
「数式だと!? まだそんな寝言を言っているのか!」
遠藤は、泥と雨水に汚れたカバンから、一冊のファイルを引っこ抜き、瑞穂の顔の前に叩きつけた。さらに、スイスの取引ログを記録した一本のUSBメモリを、コンソールの上に突き刺すように置いた。
「これを見ろ! これが、お前が『神』と崇めた敷島怜の、本当の『数式』の正体だ!」
瑞穂の視線が、吸い寄せられるようにその書類へと向いた。
そこに並んでいたのは、熱力学の記号ではない。
【日本国債(JGB)先物ショート:十兆円規模】
【信用デフォルト・スワップ(CDS)決済ログ:アルプス・インテリジェンス】
ファイナンスの、冷酷な清算の数字だった。
「敷島はお前を最初から使い捨ての『生け贄』にするつもりだったんだ」
遠藤の声が、低く、しかし引き裂くような重さで瑞穂の鼓膜に突き刺さる。
「あの野郎の狙いは、炉の完成じゃねえ。この炉が『確実に、非線形に崩壊する』という物理法則を前提にして、世界中の市場で日本国債と重工株を限界まで空売り(ショート)することだったんだよ!」
遠藤は瑞穂の顔を覗き込み、噛み締めた唇から血を滲ませながら言い放った。
「明日、お前が炉を動かし続け、内部が完全にクラッシュして国策が破綻した瞬間――敷島の口座には、一国の国家予算を遥かに凌駕する数兆円の純利益が合法的に転がり込む。お前が命を賭けて守ろうとしたあの『美しい調和』はな、最初から日本という国丸ごとハメ殺して、自分の帳簿を潤すためだけに設計された、精密な時限爆弾のタイマーだったんだよ!」
「……っ!!」
瑞穂の身体が、雷に打たれたように激しく硬直した。
敷島の冷たい微笑み。
『君だけが、私と同じ深淵の景色を見られる人間だ』
あの言葉の本当の意味が、氷のような質量を持って彼女の脳髄を貫いた。
深淵とは、科学の真理のことではなかった。一国の経済が、物理的な破壊をトリガーにして、音を立てて崩壊していく「最悪の清算の景色」のことだったのだ。自分は、その爆弾の信管を健気に守り続ける、最も都合の良い、盲信的な奴隷に過ぎなかった。
「あ……ああ、あああああああ!!!!」
瑞穂の喉から、人間のものではないような絶叫が迸った。
彼女はコンソールに突っ伏し、自らの爪がキーボードの間で割れて血が流れるのも構わず、絶望の泥水を吐き出すように泣き叫んだ。
ピ、ピ、ピ、ピ、ピ――。
その師弟の絶望を嘲笑うように、メインモニターの「累積応力(負債)」を示すインジケーターが、物理的な破壊の閾値である【九十九・八パーセント】へと達し、破滅へのカウントダウンを刻み始めた。
国家という名の巨大な怪物が、自らのエゴで窒息し、奈落へと転落する瞬間まで、あと、わずか。




