第1-4話 のたうち回る紐(THE THRASHING TETHER)2
【進行性剪断波動(PROGRESSIVE SHEAR WAVE)】
翌朝、午前九時四十五分。
赤道直下の太陽は容赦なく照りつけ、鏡のように平穏な太平洋の海面を白銀に染め上げていた。アース・ポートの最上層に位置する展望デッキは、空調の効いた涼音のなかに、世界中から集まったプレス関係者の熱気と、数十台の4Kカメラの駆動音を包み込んでいた。
「ご覧ください。あれこそが、人類の新たな四肢です」
神崎誠は、完璧に仕立てられたライトグレーのスーツの袖をまくり、全面強化ガラスの向こうを指し示した。
ドームの真ん中、直径五十メートルに及ぶ巨大なチタン製の開口部。その中心を、一本の「黒い細線」が貫いている。太さはわずか一ミリメートル。高強度グラフェン繊維で編まれた、人工のクモの糸だ。それは太陽光を浴びて金属的な鈍い光を放ち、遥か上空、雲一つない青天の彼方へと、視界から完全に消え去るまで真っ直ぐに伸びていた。
その糸の根元に、全長四メートルほどのスマートな涙滴型の機体が固定されている。炭素繊維強化プラスチック(CFRP)の滑らかなボディを持つ初期型昇降機――『クライマー・ゼロワン』だ。
「現行のロケットが、一回の打ち上げごとに数百万リットルの猛毒の推進剤を大気圏にぶちまけているのに対し、このクライマーは完全なクリーン・エネルギーで動きます。アース・ポートの超伝導磁気軌道から供給される非接触電磁誘導、そして上空からのレーザー推進力伝送。位置エネルギーの坂道を、ただ静かに、エレベーターのように滑り上がる。今日行われるのは、高度五十キロメートル――中間圏の入り口までの、世界初の公開実証飛行です」
パシャパシャと激しいフラッシュが焚かれ、神崎の顔を白く浮き上がらせる。
最前列の特等席には、ニコラス・ヴァンデバーグが座っていた。老資本家は、彫刻のように動かない顔でテザーを見つめ、その隣ではハワード博士が、昨日から一睡もしていない憔悴しきった顔で、手元のデータ端末を睨みつけていた。
同じ時刻、そのデッキの真下、十五メートルに位置する第一管制室。
「コリオリ偏位、さらに西へ〇・二度拡大。テザー下端の張力ベースラインが、静的許容値の九十二パーセントに達しています!」
「ダンパー、最大出力でホールドしろ! これ以上波形を暴れさせるな!」
遠藤の怒号が、冷却ファンの唸り声を裂いた。
メインコンソールには、肉眼で見える「静かな青空」とは似ても似つかない、狂暴な物理の現実が描かれていた。上空数十キロメートルから数百キロメートルの電離層を突き抜けるテザーは、地球の自転に伴う速度差――すなわちコリオリの風圧を受け、西側に向かって不気味なS字型に膨らんでいた。
それは、今にも弾け飛ばんとする巨大な弓の弦だった。
「遠藤、神崎がカウントダウンを始めたぞ」
管制室の壁に背を預け、冷めた目で見つめていた敷島怜が、自身の端末を見つめながら淡々と言った。画面のなかでは、神崎がカメラに向かって白い歯を見せ、指を一本ずつ折っている。
「……あいつは狂っている」遠藤は血が滲むほど唇を噛んだ。「この状態で動かせば、クライマーの重量がトリガーになって、テザー全体に致命的な波が走る。システムがもたない!」
「止めるかね?」敷島は小馬鹿にするように笑った。「止めた瞬間、ゼニス社の株価は紙クズになり、神崎は詐欺罪で監獄行きだ。もちろん、君たちの研究資金も、これまで費やした人生もすべて消える。……ほら、神崎がスイッチを押した」
『――テイクオフ(昇航開始)』
スピーカーから神崎の晴れやかな声が響いた瞬間、モニター上の『クライマー・ゼロワン』のステータスが緑色に反転した。
キュウゥゥゥゥィィィィン……。
超高周波のモーター音が、アース・ポートの構造体を伝って微かに響く。
テザーを挟み込んだ二組の磁気駆動ローラーが超高速で回転を始め、重量二トンのダミー貨物を積載したクライマーが、ゆっくりと、しかし確実に垂直方向へと上昇を開始した。
時速百キロ、二百キロ、三百キロ――機体はみるみる加速し、天井の開口部を突き抜けて、南国の青空へと吸い込まれていった。
「おお……!」
頭上の展望デッキから、地鳴りのような歓声と拍手が湧き起こるのが、床を伝って聞こえてきた。カメラは、青空のなかに消えていく美しい涙滴型の機体を捉え、世界中に「ロマンの実現」を同時中継していた。
だが、管制室のエンジニアたちが見ていたのは、全く別の地獄だった。
「クライマー、高度十二キロメートルを通過! 速度、時速四百キロメートルで巡航に移行!」
「……来るぞ」遠藤が声を震わせた。
高度が上がる。それはすなわち、クライマーが「地球の自転半径の外側」へと移動していくことを意味する。
地表において、時速約千六百キロメートル(秒速〇・四六キロ)の線速度で地球と一緒に回っていたクライマーは、上空に登るにつれて、より速い自転線速度を要求される。しかし、クライマー自体には、横方向への加速推力はない。
では、誰がその速度を支払うのか?
――クライマーが掴んでいる、一ミリメートルのグラフェン・テザーそのものである。
「応力グラフ、急上昇! クライマー通過の直後から、テザーが西側へ急激に引っ張られています!」
「角運動量の剥離が始まったな」
敷島は、端末に表示される複雑な偏微分方程式の挙動を、まるで美しい絵画でも鑑賞するかのように眺めていた。
「クライマーが登るにつれて、テザーは貨物を『東方向』へ無理やり引きずり回さなければならない。その反作用として、クライマーはテザーを猛烈な力で『西方向』へ押し返す。……ほら、始まったぞ。物理の神様からの、最初の徴税だ」
高度二十五キロメートル。成層圏の中層において、異変は目に見える形となって現れた。
上昇するクライマーの直下で、これまで張り詰めていたテザーが、まるで強風に煽られた鞭のように、不気味に、そして急激に「横方向」へとブレ始めたのだ。
グラフェン繊維は引張強度こそ世界最強だが、横方向の力に対する「曲げ剛性」はゼロに等しい。クライマーが遺していった西向きの反作用のエネルギーは、テザーの内部を伝わる「機械的パルス」――すなわち進行性剪断波動(Progressive Shear Wave)へと変換された。
その波の伝播速度は、テザーの張力と密度によって決定される。音速を遥かに超える速度で、その「歪みの波」が、テザーを伝って一気に上空へと駆け上がっていった。
「テザー中層、高度千キロの低軌道領域へ波が到達! 張力不連続面で反射が発生しています!」
「上空のスラスター、波の打ち消しが追いつかない!」遠藤が叫ぶ。
クライマーの連続上昇によって生じた剪断波動は、真空の宇宙空間へ向かって駆け上がる途上、密度と張力が変化する領域で位相を反転させ、凄まじいエネルギーを維持したまま、地表に向かって「下り」の波として跳ね返ってきた。
「戻ってくる……! 反射波、高度百キロを通過! 速度、マッハ8!」
「まずい、地上アンカーに直撃するぞ! アンカーギヤのダンパーを解放、負荷を逃がせ!」
「無駄だよ、遠藤」敷島が冷ややかに遮った。「解放すれば、次の瞬間にはテザーの下端がアース・ポートごと海に引きずり込まれる。耐えるしかないさ」
次の瞬間、第一管制室全体を、これまで経験したことのないような不気味な「鳴動」が襲った。
ズゥゥゥゥン……!!
それは、耳で聞こえる音ではなかった。アース・ポートを構成する数万トンのコンクリートとチタンの骨組み全体が、物理的な限界まで引き絞られたときに発する、低周波の悲鳴だった。
上空から超高速で駆け下りてきた剪断波動が、地上アンカーの電磁ロック機構に衝突したのだ。
「地上アンカー、瞬間荷重――四千二百メガパスカルを記録! 許容限界を突破しました!」
「チタンベアリングから異常発熱! 冷却系が追いつきません!」
展望デッキの華やかな空気は、一瞬で凍りついた。
床面から響く不気味な振動と、ガラスの向こうで、開口部を貫くテザーの根元が、まるで生き物のように数センチメートル単位で「ビシ、ビシ」と左右に激しくのたうち回る光景が、投資家たちの目に飛び込んできたからだ。
「……神崎君、これは何の振動だ?」
ニコラス・ヴァンデバーグの、地を這うような声が響いた。
神崎の顔から、営業用の笑みが完全に剥ぎ取られた。額から大粒の汗が流れ落ち、特注のスーツに黒いシミを作る。
「あ、あれは……その、大気圏の気流による一時的な……共振現象でして、想定の範囲内……」
「嘘を言うな!!」
隣で端末を叩いていたハワード博士が、狂ったように叫んで立ち上がった。老学者の顔は、恐怖で白く染まっている。
「気流なわけがあるか! これは内部応力の反射波だ! クライマーの運動量がテザーを伝って、システム全体でレゾナンス(共振)を起こしている! 神崎、今すぐクライマーを止めろ! 次の波が来たら、テザーが根元から千切れるぞ!」
「止める……? しかし、試験はまだ高度三十キロメートルで、メディアが――」
「死にたいのか! 止めろと言っているんだ!」
神崎はガタガタと震える手で、手元の緊急停止スイッチを叩き割るようにして押した。
高度三十二キロメートル。成層圏のただ中で、時速五百キロメートルで上昇していた『クライマー・ゼロワン』のブレーキが強制的に作動した。
だが、重量物をその場で急制動させるということは、テザーに対して、さらなる「縦方向の強烈な衝撃波」を叩き込むことに他ならなかった。
バギィィン! という、金属が引きちぎれるような破壊音が、洋上に響き渡る。
テザー自体は千切れなかった。グラフェンの強度は、その衝撃に耐えきった。しかし、テザーの先端を地中に繋ぎ止めていた、地上アンカーの第一固定ギヤのボルト数本が、数百万トンの引張荷重に耐えかねて、弾丸のような速度で弾け飛んだのだ。
アース・ポート全体が大きく一度傾き、展望デッキのグラスが床に落ちて粉々に砕けた。
プレス関係者たちの悲鳴が響き渡る。
「……試験は、成功だ」
その混乱のなか、敷島怜だけは、誰よりも早く管制室のログをクローズし、退室の準備を始めていた。彼の端末には、地上アンカーの構造が、今回の「第一波」によって修復不可能な微細亀裂を無数に刻まれたことを示す、真っ赤な診断データが表示されていた。
「クライマーは高度三十キロメートルまで到達し、テザーは破断しなかった。神崎はニュースでそう強弁するだろう。だが……」
敷島は、恐怖で硬直している遠藤の肩を優しく叩いた。
「物理の徴税人は、一括払いが無理なら、利息を乗せて『次の機会』に必ず取り立てに来る。遠藤、この紐はもう、二度とまっすぐには戻らないよ」
敷島は、どよめきと怒号が響く通路へと、静かに姿を消した。人類が重力場に仕掛けた無謀な挑戦の、最初の破綻の足音が、確かにそこに刻まれていた。




