第1-5話 累積する負債(THE ACCUMULATING DEBT)1
【残留応力の利子(THE INTEREST OF RESIDUAL STRESS)】
実証試験の「大成功」から三日後。アース・ポートの地下第一管制室は、カフェインの焦げた臭いと、電子機器が発する熱気、そして人間の汗が混ざり合った、劣悪な空気に満ちていた。
「おい、第七制振ブロックの数値がまだブレてるぞ! ボルトを打ち替えたばかりのアンカープレート、レーザーアライメントの値を再確認しろ!」
遠藤の声は、完全に枯れていた。
目の下には死人のような濃いクマが張り付き、手元のマグカップからは、冷めきって表面に油膜の浮いたインスタントコーヒーが溢れそうになっている。彼が睨みつけるメインモニターには、あの実験で「生き残った」はずの、一ミリメートルのグラフェン・テザーの診断データが、無数の警告灯とともに点滅していた。
公式発表では、ゼニス社は「高度三十キロメートルへの到達、およびテザーの健全性実証」を謳い、世界中のメディアは神崎誠の誇らしげな笑顔を大々的に報じた。株価はさらに二〇パーセント跳ね上がり、すべては順調に見えた。
だが、現場の現実は違った。
「遠藤チーフ、だめです。テザーの『歪みヒステリシス』がゼロに戻りません」
若手エンジニアの一人が、泣き出しそうな声でキーボードを叩く。
「クライマーの急制動で発生した縦波と、コリオリの横波が交差したポイント――高度十五キロメートル付近のテザーが、微細にねじれたまま固定されています。張力をどれだけ調整しても、真っ直ぐな線に戻らないんです」
「……残留応力か」
遠藤は奥歯を噛み締めた。
一度巨大な運動エネルギーの暴力を受け、限界まで引き絞られたグラフェン繊維は、完全に元の結晶構造には戻っていなかった。見た目は一本の紐だが、その内部には、外からは見えない「物理的な歪みの記憶」が、不発弾のように蓄積している。
テザーは今も、外界の風が吹くたびに、妙に不自然な周期で「ビシ、ビシ」と身震いをつづけていた。それは、システム全体が物理の神様に支払わずに先延ばしにした、運動エネルギーの『利息』そのものだった。
「おやおや、まるで敗戦処理の司令部だな」
自動ドアが開き、仕立ての良い黒のタートルネックを着た敷島怜が、音もなく入ってきた。その肌は徹夜続きの現場の人間たちとは対照的に、不気味なほど滑らかで、血色が良かった。
「敷島……! お前、今までどこに行ってたんだ!」
遠藤が椅子を蹴立てて立ち上がる。コーヒーがデスクにこぼれたが、気にする余裕すらなかった。
「お前が組んだ制振プログラムのせいで、地上アンカーのギヤが粉砕されかけたんだぞ! コリオリの相殺項、あの過渡応答の計算は意図的にマージンを削っていたんじゃないのか!?」
「人聞きの悪いことを言うな、遠藤」
敷島はふっと鼻で笑い、こぼれたコーヒーを避けてコンソールの端に腰掛けた。
「私は完璧な数式を渡した。だが、君たちのCEOが、メディアの前で見栄を張るために高度三十キロで『急ブレーキ』を踏ませたんだ。私の数式に、人間の虚栄心という名のノイズを勝手に代入したのは神崎だ。その結果発生した非線形波動の全責任を、物理法則に押し付けられても困る」
「理屈はいい! なら、この残留応力をどうする!? このままじゃ、次のクライマーを動かした瞬間に、この歪みの結節点からテザーが爆発するように破断するぞ!」
「簡単さ。テザーを一度すべて巻き上げて、宇宙空間で焼きなまし(アニール)処理をするか、あるいは完全に新しいテザーに張り替える」
敷島は淡々と、爪の手入れをしながら言った。
「……バカを言うな!」遠藤が怒鳴った。「数万キロに及ぶグラフェン・テザーを丸ごと張り替えるのに、いくらかかると思っている!? 期間だって最低でも半年は全システムを停止させなきゃならん! そんなことを神崎が許すわけ――」
『その通りだ! 絶対に許さん!!』
管制室の天井スピーカーから、ヒステリックな絶叫が響き渡った。
バタン! と音を立ててドアが開き、入ってきたのは神崎誠だった。だが、いつもの完璧なジェントルマンの面影はどこにもない。高級スーツのネクタイは歪み、髪はかきむしられて乱れ、目は血走っていた。
「神崎社長……」
遠藤が気圧されるほどの狂気を孕んだ目で、神崎は敷島の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで距離を詰めた。
「敷島! お前、ヴァンデバーグ氏が何と言ってきたか分かっているのか!? 『第一期実証は素晴らしい。つきましては、次回の融資トランチ(五千億ドル)の実行条件として、来週中に高度百キロメートルの宇宙空間へ、実際の通信衛星の試作機を輸送してみせろ』だ!!」
神崎は自身の髪を乱暴に引っ張った。
「世界中の投資家が次のステップを見ている! 来週だぞ!? テザーの張り替えなんてやってみろ、ゼニス社の詐欺行為が露見したと見なされて、市場から一瞬で抹殺される! やるんだよ、今のテザーのままで、実用貨物の打ち上げをな!!」
「大統領のパレードの翌日に、戦車を全損させるような無茶を言う経営者だ」
敷島は神崎の手を冷酷にいなし、その乱れたネクタイを冷たい目で見つめた。
「神崎、落ち着け。君のその哀れな脳細胞でも、引き算くらいはできるだろう? 現在のテザーは、前回の剪断波動の『利息』を内部に抱え込んでいる。そこへさらに重い本物の貨物を載せて、高度百キロまで引き上げる。自転に伴う運動エネルギーの差分は、高度が上がるほど二次関数的に増大する。つまり、次に突きつけられるコリオリの『本税』は、前回の比ではない」
敷島はメインモニターの歪んだ波形を指さした。
「この傷ついた紐に、もう一度鞭を振るってみろ。波は共振し、地上アンカーを基礎ごとねじ切るか、あるいは上空の静止点プラットフォームを重力の底へ叩き落とす。破滅のカウントダウンを、自分から早めるだけだ」
「うるさい、うるさい、うるさい!!」
神崎はデスクを拳で叩きつけた。
「物理がどうした! 予算を握っているのは私だ! 遠藤! お前の工学チーム全員を徹夜させろ! プログラムのパッチを当てまくれ! アクティブ・ダンパーの出力を定格の百二十パーセントまで引き上げろ! とにかく、来週の木曜日、メディアの前でクライマーが百キロ上空へ到達すれば、私の勝ちなんだ!!」
神崎の怒号が管制室に虚しく響き渡る。
遠藤は、その狂気と絶望に満ちたCEOの姿を見て、言葉を失った。この男は、もう物理法則(現実)を見ていない。背後にいる巨万の資本の化け物――ニコラス・ヴァンデバーグという「人間」の圧力に、完全に精神を破砕されているのだ。
「……遠藤チーフ」
若手エンジニアが、震える手で遠藤の袖を引いた。
「ハワード博士の事務局から、緊急の通信が入っています。暗号化されたテクニカル・データの開示請求です。前回の試験の、生の応力ログをすべて提出しろと……」
遠藤の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
あの老物理学者は、やはり気付いている。前回の「大成功」の裏で、このアース・ポートがどれほどの悲鳴を上げていたのかを。もし生のデータが渡れば、ゼニス社のインフラが「張り子の虎」であることが一発で露呈する。
「データは……」遠藤の喉がカラカラに乾き、声が出ない。
「データなら、私が綺麗に『整形』して送っておいたよ、遠藤」
敷島が、ポケットからタブレットを取り出し、不敵な笑みを浮かべた。
画面には、すべての異常振動や残留応力の波形が、美しいサインカーブのノイズとして処理され、完璧な「許容値内」に収められた偽造ログが表示されていた。
「敷島、お前……! なぜ隠蔽する!? お前は、この計画が破綻することを楽しんでいるんじゃなかったのか!?」
遠藤が驚愕の目で敷島を睨む。
「勘違いするな、遠藤。ここでハワードに気付かれて、ショーが途中で中止になったらつまらないだろう?」
敷島は立ち上がり、狂乱する神崎と、絶望する遠藤の二人を見下ろした。その瞳は、奈落の底のように深く、昏い光を放っていた。
「神崎が望む通り、限界まで利息を膨らませて、次の『本税』の徴収日を迎えようじゃないか。高度百キロメートルのカルマン・ライン。そこは、人間が作った嘘が、宇宙の物理によって完全に窒息させられる、最高の舞台だ」
敷島は楽しげに背を向け、管制室を後にした。
残された遠藤は、震える手で冷めきったコーヒーを口に含んだ。その味は、これから訪れるであろう、人類史上最大の工学的崩壊の味がした。




