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天才科学者・敷島怜の冷徹なる計算  作者: 山口遊子
第一章:楽園への糸口(ストロー)

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第1-3話 のたうち回る紐(THE THRASHING TETHER)1

【コリオリの徴税人】


静力学(スタティック)の楽園が終わり、動力学(ダイナミクス)の地獄が幕を開ける。その境界線は、地上わずか高度八十キロメートル、大気圏の最外縁である熱圏の底に引かれていた。


「また偏位(オフセット)が広がっている! 制御が追いつかない! 自動補正マージンまであと〇・三パーセント!」


赤道洋上基地『アース・ポート』の地下最深部。外界の嵐から完全に遮断された管制センターは、数十台の量子サーバーが発する微かな駆動音と、エンジニアたちの悲鳴に近い怒号で満たされていた。

中央の三次元メインモニターに映し出されているのは、ゼニス社が誇る「一次元炭素テザー」のリアルタイム延伸シミュレーション。だが、それは神崎誠が投資家たちに見せたあの「直立する美しい白線」ではなかった。

高度三万六千キロメートルの静止衛星プラットフォームから、地球の重力場に向けてゆっくりと降ろされてきた細さ一ミリメートルのパイロット・テザーは、まるで水流に弄ばれる一本の髪の毛のように、不気味にS字型に歪み、のたうち回っていた。


「遠藤チーフ! 静止点側からのスラスター噴射命令、まだ承認されませんか! このままだと、テザー下端が対流圏に突入した瞬間の風圧で、根元から剪断(せんだん)波動が発生します!」


コンソールを血走った目で睨みつけているのは、現場の工学チームを率いる総責任者、遠藤だった。かつて国家宇宙機関で構造力学の鬼と呼ばれた彼の手は、今、冷や汗で滑るコントロールレバーを必死にホールドしている。

彼の前に表示されているのは、テザー各層に配置された光ファイバー歪みゲージからの生データだ。


「……だめだ。静止点プラットフォームのキセノン燃料は、すでに初期計画の四割を消費している。テザーがまだ地上に届いてもいない段階でこれだ。今これ以上の補正噴射を行えば、アンカー緊結(ロック)時の最終軌道同調のための燃料が底をつく」


遠藤は歯を食いしばり、痛々しいほど拳を握りしめた。

数式は、嘘をつかない。

テザーを上空から下ろすということは、周速(線速度)の速い高高度の質量を、自転周速の遅い地表へと引きずり下ろすということだ。高度が下がるにつれて、テザー自体が持つ「角運動量」が過剰になり、構造体は自転方向(東)へと勢いよく飛び出そうとする。だが、下層の大気圧や上空の超高速風と衝突することで跳ね返り、テザーは東へ膨らみ、西へとしなる複雑な定常波を描いて波打っていく。


――コリオリの力。

回転座標系に現れるその見かけの力は、この数万キロメートルの巨大構造物に対しては、牙を剥いた物理の怪物そのものだった。


「よう、遠藤。随分と景気の悪い顔をしているな」


背後の自動ドアが開き、防水コートを肩にかけた敷島怜が、缶コーヒーを片手にふらりと入ってきた。その足取りは、まるで緊迫した管制室を自分の書斎か何かと勘違いしているかのように軽やかだった。


「敷島……! お前、コンサルタントなら何とかしろ! この制御モデルはお前のチームが組んだものだぞ!」

遠藤が椅子を蹴立てて敷島に詰め寄る。その胸ぐらを掴まんばかりの勢いにも、敷島は視線一つ動かさず、ただ手元の缶コーヒーを一口啜った。


「私のモデルに間違いはないよ、遠藤。間違っているのは、このシステムに『直線の安定』を求めている君たちの頭の方だ。エネルギー保存の法則は、いつだって冷徹な『徴税人』だ。タダで高度を下げよう、タダで宇宙へ登ろうなどという虫のいい話には、必ずコリオリという名の莫大な税金を請求してくる」


敷島は遠藤のコンソールを押しのけ、いくつかの数式を画面に展開した。


「現在のパイロット・テザーの質量は、一メートルあたりわずか数グラムだ。だが、これが本番の『商用複合テザー』になれば、総重量は数十万トンに膨れ上がる。それを掴んで、貨物を載せたクライマーが時速数百キロで上昇を始めたらどうなる? クライマーが上昇するたびに、地表の遅い角運動量が上空へと持ち上げられる。テザーは、地球の自転を『引き留める』方向へ猛烈なブレーキとして作用するんだ。その反作用で、テザーの中間層は西側へ何百キロメートルも引き絞られ、巨大なパチンコのゴムのようになる」


敷島は画面の波形を指さした。


「反動で発生した横波(トラバース・ウェーブ)は、グラフェン繊維の超高音速特性によって、秒速数キロメートルの速度でテザーを上下に往復する。これが『進行性剪断波動』だ。波が地上アンカーと静止点プラットフォームの間で跳ね返りを繰り返すうちに、固有振動数がシステム全体の共振点(レゾナンス)と同調する。……遠藤、君なら分かるだろう? タコマナローズ橋が風で崩壊したように、この数万キロの紐は、自らが生み出した運動エネルギーの逃げ場を失って、宇宙空間で自爆するんだよ」


「そんなことは……理論の段階で対策が練られていたはずだ! アクティブ・ダンパーと、静止点のスラスターによる動的相殺制御(ダイナミック・キャンセル)がある!」


「だから言ったろう。その相殺に必要なエネルギーを計算してみろ」

敷島は冷たく微笑んだ。


「クライマーが持ち上げる運動エネルギーの差分を、すべて宇宙空間での推進剤噴射で帳消しにするなら、その燃料はどこから持ってくる? その燃料を持ち上げるために、またエレベーターを動かすのか? それは無限ループだ。結局、オービタル・ダイナミクス社のように、地球の重力場と運動量の支払いを、最初から『ロケットの使い捨て』という形でその都度100%決済している方が、工学的には遥かに健全で安上がりなんだよ。このエレベーターというシステムはな、決済を先延ばしにしているだけの、物理的な『リボ払い』に過ぎない」


「リボ払い……」

遠藤の顔から血の気が引いていく。その言葉の本質を、彼の天才的な工学的脳細胞は瞬時に理解してしまった。ゼニス社がやっていることは、持続可能な宇宙開発ではない。破滅的な物理の負債を、テザーという一本の紐の中に限界まで溜め込んでいるだけなのだ。


その時、管制室のスピーカーから、割れんばかりの明るい声が響いた。


『ハロー、現場の諸君! 進捗はどうだい?』


メインモニターの端に、高級ホテルのスイートルームから通信を繋いでいる神崎誠の顔が映し出された。彼の背景には、シャンパンタワーと、名だたる大物政治家たちの姿が見える。神崎の顔は、勝利の美酒と興奮で紅潮していた。


『遠藤、明日の午前十時に、ニコラス・ヴァンデバーグ氏が直々にアース・ポートを視察に訪れる。第一期延伸の成功を祝して、初期型クライマーの「模擬上昇試験(ファースト・ラン)」をメディアに公開するぞ。高度五十キロメートルまで、ダミーの貨物を一気に引き上げてみせるんだ。世界中の株価がこれで跳ね上がる!』


「待ってください、神崎社長!」遠藤が画面に飛びついた。「不可能です! 現在、パイロット・テザーのコリオリ偏位は自動補正の限界(クリティカル・エッジ)です! この状態でクライマーなんて動かしたら、テザーの下端がねじ切れるか、アンカーギヤに想定外の剪断荷重が――」


『静粛に、遠藤君』

神崎の声から、一瞬で温度が消えた。冷酷な、だがどこか狂気を孕んだ経営者の目が、カメラ越しに遠藤を射抜く。


『三千億ドルが動いているんだ。ヴァンデバーグ氏は、次のトランチ(段階的融資)の条件として「目に見える成果」を要求している。物理の細かい理屈は、君たち天才エンジニアが裏で上手く処理すればいい。私は世界に夢を売った。君たちはその夢を動かす歯車だ。違うかね?』


「神崎……お前は何も分かっていない! これは、人間の意志でどうにかなるレベルの――」


『明日、十時だ。期待しているよ』


通信が非情に切れた。

管制室には、再びサーバーの重苦しい駆動音だけが残された。遠藤は絶望のあまり、コンソールに両手を突いて項垂れた。


「……終わりだ。明日、この基地は地獄になる」


「いいや、素晴らしいショーの始まりさ」

敷島は空になった缶コーヒーをゴミ箱へと放り投げた。その放物線は、重力に従って正確に、美しく、一点の狂いもなくゴミ箱の底へと収まった。


「物理の神様は、決して踏み倒しを許さない。明日、最初の『督促状』が届くぞ、遠藤」


敷島は楽しげに目を細め、のたうち回る黒い蛇のようなテザーのホログラムを見つめていた。そのカウントダウンは、すでに始まっていた。


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歴史『技術立国日本』https://ncode.syosetu.com/n2476mn/ よろしくお願いします。

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