第1-2話 甘い計算(THE POTENTIAL SLIDE)2
【運動エネルギーの支払書】
三千億ドル。
それは、単なる数字の羅列を超えて、一国の国家予算をも脅かすほどの暴力的な質量を持った資本だった。
「これで勝てる……! オービタル・ダイナミクス社の再使用型ロケット(RCR)を、我が社は完全に過去のものにできるぞ!」
アース・ポートのCEOオフィスで、神崎誠は特大のシャンパングラスを掲げ、夜の海に向かって狂ったように笑声をあげていた。デスクの端末には、ニコラス・ヴァンデバーグのファンドから第一期着工資金が正式に送金されたことを示す、まばゆいグリーンの承認ログが点灯している。
世界中の投資家がゼニス社の動向を注視し、市場の期待値は成層圏を突き抜けていた。「火薬で宇宙へ飛ぶ野蛮な時代は終わる」「位置エネルギーを滑るだけのクリーンな楽園の階段」。神崎自身が創り出したキャッチコピーが、今や世界経済をドライブする最大の燃料になっていた。
「おい、敷島! お前ももっと飲んだらどうだ? お前がハワードのじいさんを黙らせてくれたおかげで、人類の歴史が動いたんだぞ!」
神崎はソファで黙々とタブレットの画面をスクロールさせている敷島怜に近寄り、強引にグラスを押し付けた。
だが、敷島はグラスを受け取ったものの、それを口に運ぼうとはしなかった。ただ、泡を立てて弾ける金色の液体を、冷徹な双眸で見つめているだけだった。
「神崎」
敷島は物静かに、だが室内の熱気を一瞬で凍りつかせるようなトーンで切り出した。
「お前、あのハワード博士がなぜ途中で黙り込んだか、本当に分かっていないのか?」
「あ? 決まってるだろ、お前の出したグラフェン繊維のデータと、あの美しすぎる静力学のシミュレーションにひれ伏したんだよ。完璧な天秤。非の打ち所がない計算だった」
「違うな」
敷島はグラスをデスクに置いた。コン、と乾いた音が響く。
「あの老学者はな、あまりのデータの美しさに『騙された』んだ。物理学者が最も好むのは、すべての項が綺麗に相殺されてゼロになる『静止した調和の世界』だからな。だが、博士の直感は気付いていたはずだ。……あのパズルが成立するのは、質量が『一歩も動かない』という絶対的な静止を前提にしている時だけだということに試算上なっている、とな」
神崎はグラスを持ったまま、怪訝そうに眉をひそめた。
「……何を言ってるんだよ。動くに決まってるだろ。エレベーターなんだから、クライマーが物資を載せて上へ登っていく。お前がプレゼンで言った通り、位置エネルギーの傾斜を滑るように――」
「そこだ、神崎。それが一般人と、お前のような無知な経営者が陥る『ポテンシャル・スライド』の甘い罠だ」
敷島はタブレットの画面を空中にスワイプした。ホログラムで投影されたのは、先ほどの美しい直線のテザーではない。地球の自転に伴う、全高度の『線速度ベクトル』の可視化モデルだった。
「一般人は、宇宙に行くことを『ただ高く登ること』、つまり位置エネルギー(ポテンシャル)の移動だと錯覚する。重力場の井戸からバケツを引き上げるような、一次元的な思考だ。だが、宇宙の本質は『高さ』じゃない。『速度』だ」
敷島はホログラムの地球の地表を指で叩いた。
「私たちがいるこの赤道基地は、地球の自転によって、すでに横方向へ秒速〇・四六キロメートルで動いている。だが、高度三万六千キロメートルの静止点の公転速度はいくらだ? 秒速三・〇七キロメートルだ。……神崎、この差の意味を理解できるか?」
「……差?」
「地表にある一キログラムの物資を静止点へ持っていくということは、高度を上げるプロセスにおいて、その物資に『差し引き秒速二・六キロメートル分』の運動エネルギーを新たに注入し、横方向へ超高速加速してやらなければならない、ということだ。時速に直せば約九千四百キロメートル。弾道ミサイルを遥かに凌駕する爆発的な運動エネルギーだ」
敷島は立ち上がり、神崎のすぐ目の前に立った。彼の瞳には、南国の夜景すら透過しない、絶対的な暗黒が広がっていた。
「位置エネルギーを滑るだけでタダ同然で登れる? 大嘘だ。エネルギー保存の法則は絶対だ。物資を持ち上げるたびに、その膨大な『秒速二・六キロメートル分の運動量』の支払書が、必ずシステム全体に突きつけられる」
「それは……」神崎の額から、じわりと冷や汗がにじみ出た。「クライマーに電力を供給して、モーターの力で無理やり登らせれば……」
「電気を流せば運動量が湧いて出るとでも思うのか? クライマーがグラフェン繊維を掴んで上に登るとき、自転半径が広がるにつれて、物資は角運動量保存の法則によって速度をそがれ、西側へ置いていかれようとする。それを、テザーという構造材が『東向き』に無理やり押し引きすることで、秒速三キロまで加速させるんだ。この時、作用・反作用の法則により、クライマーはテザーを同じ力で『西向き』に猛烈に押し返す」
敷島はホログラムの直線テザーを指で弾いた。シミュレーション上の黒い紐が、ぐにゃりと西側へ湾曲し、不気味な定常波を起こしてのたうち回り始める。
「三万六千キロメートルの、曲げ剛性が事実上ゼロのフニャフニャな炭素の紐だぞ? そこへ横方向からそんな暴力的モーメントが加わったらどうなる? テザーは巨大なムチのように狂ったようにのたうち回り、固有振動の共振を起こす。地上アンカーには自転をねじ切るような剪断荷重がかかり、静止点のプラットフォームは軌道を維持できずに重力場の底へ引きずり下ろされる。これが、モノが動いた瞬間に始まる動力学の地獄だ。……これを防ぐために、静止点側で常に化学スラスターを噴射して軌道を補正し続けたら、それこそ競合の化学ロケットを毎日何十本も使い捨てるより、遥かに大量の燃料を宇宙空間で消費することになるんだよ」
神崎のシャンパングラスが、カチカチと音を立てて震え出した。彼の誇る最高のインフラ理論が、物理の基礎法則によって、跡形もなく粉砕されていく。
「じゃあ……じゃあ、どうするんだよ! 制御系を強化して、クライマーの速度を極限まで落とせば……!」
「ああ、現場のエンジニアなら誰でもそう考えるだろうな」敷島は嘲笑した。「テザーがのたうち回らないように、クライマーの速度を時速二百キロ程度の新幹線並みに制限する。だがな、そうすると今度は経済学的な死が待っている。三万六千キロメートルを時速二百キロでノロノロ登ったら、片道だけで百八十時間――丸一週間以上かかるんだ。一本のテザーに複数台をぶら下げれば、その総重量でテザーは静止点からブツリと千切れる。つまり、一台が登りきるまで次の貨物は送れない。……単線構造体におけるスループット飽和限界だ。年間総輸送量は良くて千トン前後。オービタル・ダイナミクス社のロケット数機に完敗するレベルの、極めて細く、遅い『一本のストロー』のために、誰が数千億ドルの維持費を払い続ける?」
「嘘だ……」
神崎はソファに崩れ落ちた。手から滑り落ちたグラスが絨毯の上で転がり、金色の液体がシミを作っていく。
「工学的にも、経済学的にも、軌道エレベーターというシステムは最初から『破綻』しているんだ。ロケットを完全に再利用する技術が完成した現代において、宇宙にこんな危険な紐を垂らす合理性など、どこにも存在しない」
「だったら……なぜお前は、あの設計図を、あのシミュレーションを作ったんだ! ヴァンデバーグから金を奪うための、ただの詐欺だったというのか!?」
「人聞きの悪いことを言うな、CEO」
敷島はデスクの端末を操作し、完全に暗号化されたゼニス社の財務ログを表示させた。そこには、数分前に着金したはずの三千億ドルが、見たこともない複雑な経路を通って、一瞬で外部へ流出していくプロセスが記録されていた。
「私は最初から、物理法則という絶対に破れない神のルールを売っただけだ。ヴァンデバーグのような資本家は、金で買えない『重力からの解放』というファンタジーを所有したがり、大衆はロマンという麻薬を求めて株を買う。私は彼らに、世界で最も甘く、最も高価な夢を見せてやっているんだ。その対価を、私が構築した『分散型暗号元帳』を通じて受け取ったに過ぎない」
画面上の送金ステータスが、すべて「完了(SUCCESS)」へと切り替わっていく。追跡不可能な量子暗号通貨へと姿を変えた巨万の富は、すでに地球上のあらゆる法組織の手が届かないネットワークの彼方へと脱出を終えていた。
「神崎、お前の仕事は一つだけだ。これからも世界に向けて、あの最高に頭の悪い『ポテンシャル・スライド』の夢を熱弁し続けることだ。テザーの延伸実験が始まるまでの間な」
敷島はタブレットをポケットに収めると、ドアに向かって歩き出した。去り際、怯えきった操り人形のような神崎を振り返り、冷酷な美しさを湛えた笑みを浮かべる。
「さあ、資金は調達できた。次はいよいよ、世界で最も巨大で、最も不細工にのたうち回る『蜘蛛の糸のショー』を始めようじゃないか」
閉まったドアの音だけが、静まり返ったオフィスに虚しく響いていた。神崎は、自分が悪魔の用意した天国への階段で、どこまでも深い奈落へと転落しつつあることを、ついに確信したのだった。




