不明
恐慌状態から来る涙が目から溢れ、鼻水は垂れ、口は唾液塗れで顔はグシャグシャだった。自信も自尊心も打ち砕かれ、恐怖に飲み込まれた朔は半狂乱になりながら抵抗を諦めなかった。思うように動いてくれない左腕で男の胸を押し少しでも遠ざけようとする。だが、もとより筋力で敵う相手ではない。馬乗りになられた状態では、男の身体をわずかに動かすことすらできなかった。
男の心臓の激しい鼓動が、触れた手を通して強烈に伝わってくる。生々しいその感触が、男の欲望そのもののように思えた。悍ましさに身体が竦み上がり抵抗の力が弱まった。男が確信の笑みを浮かべる。
「へへっ、やっと諦めたか」
男の足が朔の足に割って入る。手が下着にかかった。声にならない絶望の叫びを上げる。
「っぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
そこには空手を学んできた者の矜持はなかった。ただ、本能としての拒絶だけがあった。
恐怖と凌辱で自我が壊れようとした、その時。
世界が停止した。
男の動きが止まっていた。項垂れたまま、体重だけが朔に寄りかかっている。しばらくの間何が起きたのか理解できず放心していたが、とにかく震える手足で男の体の下から這い出た。
「はっはッ……」
喘ぐ口からは唾液が糸を引いて地面に垂れた。ただひたすら呼吸を取り戻すことに専念する。五分もすると、ようやくまともに息が吸えるようになった。
「はっ、はっ……すぅ~……」
さらに数分ほど経つと、僅かな冷静さが戻ってきた。深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせると、体液まみれの顔を制服の袖で拭う。深い溜息をつくと俯せのまま微動だにしない男に目を向けた。
初めて、男の姿をまじまじと見た。
街灯の僅かな明かりで浮かび上がるその姿は、身長は平均的で自分と大して変わらなそうに見えた。髪はぼさぼさ、服の上からでも分かるぐらい痩身だった。朔は衝撃を受けた。このような鍛えてもいなそうな男にさえ蹂躙されそうになった現実に。
バッグを拾い上げるとその場を後にした。今は一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。帰宅すると脱ぎ捨てた靴も揃えず一直線に風呂場へと向かった。気づいた母親が声をかけてきたが答えずに土塗れになった制服を脱ぎ、洗濯機へと放り込んだ。裸になり浴室へ入る。シャワーでもいいかと思っていたが浴槽にはお湯が張ってあった。
今はそれが本当にありがたかった。
風呂から上がると朔は家族と顔を合わせることもなく自室に籠もった。望が階下から上がってくると部屋の前で足を止め、ぶっきらぼうに声をかける。
「晩御飯だって」
「食べたくない」
面倒くさそうだった望が僅かに表情を変えた。
「開けるよ」
「開けないで」
朔の言葉を無視して望はドアを開けた。暗闇の中、朔はベッドの上で両膝を抱え顔を埋めていた。望はしばらくその姿を見つめてから普段にない声色で問いかける。
「何かあった?」
「…何で?」
朔は顔を埋めたまま答えた。
「だってあんた今まで一度も夕飯抜いたこと無いじゃない」
「別に何もない。食べたくないだけ」
望は朔の様子をうかがうように、少し間を置いた。
「本当に?」
「ごめん、お姉ちゃん。今は放っておいて」
「……そう。分かった。お腹すいたら降りてきな」
朔から返事はなかった。望は静かにドアを閉めた。階下に戻ると、母親の紗夜が不思議そうに尋ねた。
「あれ朔は?」
「体の調子が悪くて食欲ないってさ」
いつも通りの素っ気ない口調で答えた。
「珍しいこともあるもんね、風邪かしら?熱は?」
「寝るから放っておいてって。風邪薬出しといてくれれば、後で私が持ってくよ」
「あら、そう。じゃお願い」
紗夜は望の言葉を特に不審がる事はなかった。




