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恐怖


 七時すぎ、微かに色が残る空を夜の帳が闇色に染め上げようとしていた。


 道場を出た朔は、駅へと続く道を歩いていた。何処かの家の夕食なのだろう、カレーの匂いが漂ってくる。家々の窓から漏れる明かりを横目に、見慣れた道を進んだ。

 常に数人の通行人は視界にいた道も廃ビルに近づくにつれ人気が消えていく。街灯も結構な距離をおいてしか設置されておらず、そのうちのいくつかは点滅を繰り返している。足元の僅かな範囲しか照らし出していないせいで辺りは薄暗く不穏な雰囲気を醸し出していた。


 朔は今日何度も話を聞くことになった廃墟へと視線を向ける。


 築五十年を迎えたそのビルは、かつて幾つかの小さな会社が入居していた企業ビルだった。老朽化が進み、数年前には建て替えの話も持ち上がったが諸々の問題が発生し計画は消えた。取り壊されることもなく、かといって新たな買い手がつくこともなく、現在に至っている。


 薄暗い街灯に照らされた廃ビルは、崩れ落ちた外壁や割れた窓を晒し、夜の闇に異様な影を落としていた。


「……昨日まで普通に通ってたのに何か急に怖くなってきた、これもなんとか効果って名前がついてんのかな?」


 恐怖を振り払うように意識して言葉を口から出す。ぶつぶつと独り言を呟きながら夜道を歩く女子高生はそれなりに不気味であった。


「智子が言ってたように街灯が少ないから暗い、人気(ひとけ)もない。気にしだすと止まらん、こわ」


 背後に人の気配を感じた。恐怖にかられて振り返るが誰もいない。廃墟の闇から視線さえ感じ始めた。

全身の毛穴が総毛立つ。


「こらあかん、走れ朔」


 駆け出す朔。背後からなにかに追いかけられているような感覚があって振り返れない。


「!?」


 十字路の角から突然人影が現れ、朔はぶつかる寸前で足を止めた。恐怖に顔を引きつらせたが、相手はスーツ姿の若い女性だった。


「あ、ども」


 自嘲気味の笑いを浮かべて頭を下げる。女性は胡乱げな目を向けただけで、何も言わず通り過ぎていった 。その後ろ姿をしばらく見つめるとため息が漏れた。


「クソ、恥ずい。ちょっとビビりすぎ」


 事件現場とされた廃ビルの一帯は、もうとうに通り過ぎていた。遥か後方で見ることも出来ない。駅の煌々とした光が間近に迫っていた。


「結局何もなかった。恐怖は己の内にあるか…」


 最寄りの駅で降りる頃には、景色はすっかり闇に包まれていた。 とはいっても街灯が夜の街を明るく照らし出している。先程とは打って変わって恐怖を感じることは微塵もなかった。いつもと同じ道を歩き、家に帰って何をしよう?今日の晩御飯はなんだろうと考えていた矢先、衝撃が来た。


 初めに来たのは痛みではなく困惑だった。何が起こったのか理解できない。数秒後自分が空を見上げている事に気づいた。何者かによって道沿いの畑へと押し倒されたのだ。周囲には広い農地が広がり、民家がまばらに点在しているだけだった。人の姿は全く見当たらない。

 

 何者かは朔を引き倒し馬乗りになって手足を抑え込んでいた。朔の眼の前には欲望に醜く歪んだ男の顔があった。どうにか手足を自由に動かせるようにと男の手を振りほどこうとするがまるで歯が立たない。女ながら筋力にも多少の自信があったが、どれだけ力を込めようと男の腕はびくともしなかった。必死でこの状況を打破しようと試みるが、組み伏せられた状態では空手の打撃も使えない。声だ、大声をあげて助けを呼ぶ、考えを切り替えて思い切り声を上げようとした。


「静かに、しろっ!!!」


 息を深く吸い込んだ瞬間、最悪の間で鳩尾に拳を叩き込まれた。肺から空気が押し出され、一瞬で視界が白に染まった。


「かはっ」


 喉から呼気が漏れる。呼吸もままならず、酸欠の魚のように口を開閉したまま苦しむことしかできない。開いた口から唾液が溢(こぼ)れる。男は嗜虐的な笑みを口元に貼り付け、舐(ねぶ)るように見下ろしていた。汗が男の額を伝(つた)い、目に入った。反射的に汗を拭おうと右手を掲げる。朔は極限の苦痛に霞む視界でも、その一瞬を逃さなかった。死に物狂いで左手の指を男の目に引っ掛ける。


「がっ、こいつ!!」


 男が思わず腰を浮かせた。その隙に朔は身体をよじり、男の下から這い出す。息も整わぬまま、必死に身体を起こして立ち上がった。息を吸おうとしても、喉がひくつくばかりでうまく吸い込めない。足元もおぼつかず、身体に力が入らなかった。苦しさに意識が集中して思考が働かない。


「有効なのは金的だ」


 村上の言葉が蘇る。涙で霞む目に映る男が再び距離を詰め、襲いかかってきた。


「加減は無用だぞ」


 朔は残った力を振り絞り、股間へ前蹴りを放った。右足は男の股間を捉えたかに見えた。しかし、呼吸もままならない状態では十分な力が入らず、男の動きを止めるには至らなかった。突進してきた男によって片足だった朔はいとも簡単に押し倒される。

 

 背中に強い衝撃が走り、意識が遠のきそうになる。男が再び馬乗りになろうとするのを止めようと両手を上げるが、体が思うように反応しない。押さえつけようとする男の顔が間近に迫る。欲望に燃え盛る目が見えた。その瞬間、朔の中で何かが壊れた。


「ひっ」


 恐怖だった。圧倒的な恐怖だけがあった。数時間前までの自信に満ちた女子高生はもはや何処にもいなかった。




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