45話愛人
私は機体の手から降りた。アイの姿は、もう背後にはない。
……いや、あの子ならきっと追ってくる。
昔からそうだった。一度「気になる」と思ったことには一直線。危険だろうと命令違反だろうと、自分の答えを見つけるまで決して止まらない。
「……本当に変わらないな」
思わず小さく笑みが漏れる。
そして同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
養成機関時代。
数え切れないほど死線をくぐり抜け、互いに背中を預け合った日々。
ある夜、任務帰りに二人で見上げた満月。
アイがきっかけでヒノモト文化に興味を持っていた私は、図書室で読んだ一冊の本を思い出しながら言った。
『ヒノモトでは、“月が綺麗ですね”って告白になるらしいぞ』
私はソ連の言語で静かに呟いた。
「Luna krasiva(月が綺麗だ)……」
アイは月を見上げると、満面の笑みで頷いた。
「うん! 本当に綺麗だね!」
……私は三日ほど食事が喉を通らなかった。
「……本当に鈍感だ」
思い返すだけで頭が痛くなる。あれほど分かりやすく伝えたつもりだったのに、あの子は最後まで気付かなかった。
だが、その想いも今では昔話だ。
私は立ち止まり、霧の向こうにそびえる断崖絶壁を見上げる。
北側渓谷。アイが言い当てた場所。
あの子の勘は昔から異常なほど鋭い。地下施設の存在まで掴んでいたとは、正直驚いた。
「だからこそ……来てはいけないんだ」
私は崖へと続く獣道を登り始めた。
やがて谷底へ続く巨大なエレベーターシャフトが姿を現す。岩肌に偽装された装甲扉は、一般人なら絶対に気付かない。
手首の端末をかざす。
『Code D-07 confirmed. Welcome back, Dahlia.』
低い機械音声と共に、巨大な岩壁が左右へ開いた。
地下施設へ足を踏み入れると、重厚な装甲扉の前で十数名の兵士や整備士が行き交っていた。
みんなはイングランド王国政府直属急襲機兵部隊レイヴンズ。今の私の仲間たちだ。
「ダリア、お帰り」
先頭に立っていた栗色の短髪の女性が、静かに微笑む。
シェリル・アッシュフォード。急襲機兵部隊レイヴンズの隊長であり、王国軍史上最年少で「王直属騎士」の称号を与えられた、生きる伝説。
数年前、ソ連から私に与えられた任務は、最初から失敗を前提とした「捨て石」だった。
敵地へ潜入し、情報だけ奪って死ぬ。救援も撤退指示も存在しない。
任務を終えた私を待っていたのは、味方ではなくイングランド軍だった。
銃弾が尽きても。ナイフが折れても。拳が砕けても。
私は最後まで泥臭く抗った。
だが多勢に無勢。膝をつき、いよいよ処刑を覚悟したその時だった。
「もう十分だ」
そう言って前へ出てきたのが、シェリル隊長だった。
夜風に髪をなびかせ、私を静かに見下ろす。
「祖国は君を迎えに来ないようだな?通信も沈黙、救援も無し、撤退命令すら出ない……君は最初から切り捨てられていたんだ」
その言葉だけは、否定できなかった。
「……敵でしょう」
私が吐き捨てるように言うと、隊長は穏やかに笑った。
「国同士は敵だ。……だが、優秀な兵士に国境はない。我々には君のような兵士が必要だ。君の居場所は、祖国だけとは限らない」
その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
私はその時、涙を流した。
祖国に捨てられた悲しみからではない。初めて、自分という存在を心から必要としてくれる人が現れたからだった。
それ以来、私はレイヴンズの一員として生きている。
シェリルは踵を返し、歩き出した。
「ダリア。ブリーフィングだ。ついてきなさい」
その声に回想から呼び戻される。
「了解しました」
私は短く答え、その背中を追った。
地下施設の通路は天井が高く、山岳地帯の地下とは思えないほど広大だった。壁一面に太い冷却パイプと電力ケーブルが這い、整備員たちが慌ただしく行き交っている。
搬送レールの先では巨大な装甲板が次々と運ばれ、格納ドックからは重低音のアルテミシウム・ノヴァの炉の駆動音が響いていた。
私は自然と視線を横へ滑らせた。
厚いガラスの向こう。
巨大な格納庫の中央で、それは静かに佇んでいた。純白の装甲。紫色の光を宿す内部フレーム。背部から幾重にも広がる可動式の雨覆羽。
翼とも刃とも見えるその巨大なシルエットは、まるで神話に登場する裁きの天使のようだった。
イングランド王国戦略級強襲機体エアリオン。
全高約百メートル。
王国が数年という歳月を費やし、極秘裏に開発を続けてきた対国兵器。
雨覆羽の一枚一枚には圧縮空気生成器とアルテミシウム共振機構が組み込まれ、一斉展開すれば数百の超高圧エアーカッターを放つ。
その切断能力は常識を超えていた。
戦闘シミュレーションでは巨大要塞が一瞬で断ち切られ、王都で最も堅牢な石造建築を模した試験構造物も紙細工のように両断された。
この機体が実戦投入されれば、一都市どころか国すら一夜で崩壊しかねない。
そして、その標的は覇権を独占するヒノモト。
私はしばらくエアリオンを見つめた。
この作戦が成功すれば世界の勢力図は大きく塗り替わる。
その瞬間、自分も歴史の当事者となるのだ。
「……」
感傷を振り払うように視線を前へ戻した。
シェリルは何も言わず歩き続けていた。
やがて分厚い鋼鉄製の自動扉が左右に開く。
その先は円形のブリーフィングルームだった。
室内に置かれているのは、巨大なホログラムテーブルだけ。
部屋にいるのはシェリルと私だけだった。
扉が閉まり、静寂が訪れる。
シェリルはホログラムを起動した。
青白い光と共にエアリオンの立体図が浮かび上がり、その周囲に輸送ルートと護衛配置が表示されていく。
「計画は最終段階へ移行する」
シェリルは端末のホログラムから一度も目を離さず、淡々と、しかし重みのある声で告げた。
「エアリオンは三十時間後、地下ドックより搬出される」
「……完成まで、あと僅かということですね」
私が静かに頷くと、シェリルはゆっくりと顔を上げ、その鋭い視線を真っ直ぐ私に向けた。
「そうだ。そこで君に任務を与える。君の愛機プリズラクには、エアリオン搬送部隊の直衛を担当してもらう」
操作盤がかすかな電子音を立て、青白いホログラムの中に一機の巨大な影が浮かび上がる。その周囲には、幾重もの護衛陣形を描く光点が整然と並んでいた。
「王国にとって、エアリオンの存在そのものが対国家のそのものだ。起動前に失うことなど絶対に許されない」
「理解しています」
「……それと、もう一つ警戒すべき不確定要素がある」
シェリルの声のトーンが落とされる。部屋の空気が、さらに張り詰めた。
「アルテミス・レイだ」
思わず眉をひそめる。
「アルテミス・レイ……」
シェリルが指先でホログラムを払うと、世界地図の上に赤い光点が次々と弾けた。そのどれもが、アルテミシウム関連施設の位置と正確に一致している。
「奴は何らかの手段で、高濃度のアルテミシウムを探知している可能性が極めて高い」
光点は一収束し、再び中央のエアリオンへと戻った。
「そしてエアリオンには、これまで建造されたどの機体をも凌駕する、最高濃度のアルテミシウムが充填されている」
息を呑む音が、自分でもはっきりと聞こえた。
「……つまり」
「ああ」
シェリルは感情を削ぎ落とした声で言い放つ。
「エアリオンそのものが、奴を引き寄せる巨大な撒き餌になり得てしまうということだ」
重苦しい沈黙が、司令室を満たす。
「搬送中、他国による妨害工作も確実に発生するだろう。この機体の価値を知れば、どの勢力もなりふり構わず動き出す」
シェリルの言葉は容赦なく続いた。
「だが、真の脅威は人間だけとは限らない。万が一、アルテミス・レイまで引き寄せられれば……今回の搬送は、過去類を見ないほど苛烈な作戦になる」
ホログラムの中で青く揺れるエアリオンのシルエットを、私はじっと見つめた。
「……あらゆる脅威から、護衛対象を守り抜けと?」
「そうだ」
シェリルは一切の躊躇なく即答した。
「任務の最優先事項はエアリオンの無事。障害となるものは、国家であれ何であれ全て排除しろ」
迷いはなかった。私は背筋を伸ばし、右手を額へと掲げた。
「了解」
シェリルは満足げに、短く一度だけ頷いた。
「君なら任せられる」
交わされた言葉は、それだけだった。
しかし、かつて祖国に裏切られ、居場所を失った私にとって、その淡々とした信頼の言葉は胸の奥を強く揺さぶった。
知らず知らずのうちに、握りしめた拳に力が入る。
エアリオンを守り抜く。
それこそが、イングランド王国軍人、ダリア・ヴォルコワに課せられた譲れない使命だった。
そして踵を返し、扉へと向かって踏み出そうとしたその時——私はふと、脚を止めた。
「あの……」
シェリルがこちらへ視線を向ける。
「その……いつものアレは……シないんですか?」
シェリルは一瞬だけ目を丸くしたあと、口元をわずかに緩めた。
「ふふっ、欲張りさんめ」
そして、私たちは行為におよんだ。私はシェリルの"愛人"なのだ。そして、私もやぶさかではなかった。こうやって外からは見えず、施錠が可能なブリーフィングルームでいつも行為におよぶ。
シェリルはホログラムテーブルの端に腰を預け、私を静かに見つめた。青白い光が彼女の栗色の髪を淡く照らし、いつもの凛とした隊長の顔とは違う、柔らかな表情を浮かべている。
「……本当に、任務前にそんなことを言うなんて」
彼女は小さく笑いながら、私の胸に指を滑らせた。制服越しに伝わる体温が、じんわりと熱を帯びていく。ブリーフィングルームの分厚い扉は完全に施錠され、外の喧騒を完全に遮断していた。ここは私たちだけの、短い逃避空間だ。
私は無言で彼女の腰を引き寄せた。シェリルは抵抗などせず、むしろ甘えるように体を預けてくる。唇が重なり、吐息が混じり合う。彼女の指が私の背中に回り、制服の布地を強く握りしめた。
「……んっ」
小さな声が漏れる。いつもは冷静沈着な王直属騎士の、そんな僅かな隙が、私はたまらなく愛おしくなっていた。
行為は激しく、けれど切ないほど優しかった。任務の緊張、過去の失敗、そして互いへの想い、すべてを忘れさせるような時間。シェリルは私の首筋に顔を埋め、掠れた声で何度も私の名を呼んだ。
「……ダリア」
やがて、静けさが戻ってきた。
シェリルは乱れた制服を整えながら、私の頰に軽くキスを落とした。頰はまだ上気したまま、瞳は満足げに細められている。
「本当に欲張りね?」
私は苦笑した。
「隊長が誘うからです」
「ふふ、言い訳ね」
彼女は再びホログラムテーブルに向き直り、表情を瞬時に切り替えた。そこにはもう、レイヴンズの隊長としての顔しかない。
「三十時間後……絶対に成功させる。君も、私も生きて帰る。それが条件だ」
「了解しました」
私は敬礼し、彼女の背中を見つめた。
この関係が、いつまで続くのかはわからない。祖国に捨てられた私にとって、シェリルは救いであり、枷であり、愛そのものだった。彼女もまた、王国に全てを捧げて生きる身。いつかこの戦いが終わった時、私たちはどうなるのだろう。
しかし今は、そんな感傷に浸る時間はない。
私は踵を返し、ブリーフィングルームを出た。廊下の冷たい空気が、熱を帯びた体を冷ましてくれる。
エアリオンの格納庫へ向かう足取りは重く、しかし確かだった。
プリズラクのコックピットに座る時、私はもう一人の自分、イングランド王国軍人ダリア・ヴォルコワに戻る。愛人としての時間は終わり、戦士としての時間が始まる。
アイ……お前が来るなら、来るがいい。
だが、私はもうお前の敵だ。
私はプリズラクのメインスクリーンに映る純白のエアリオンを睨みつけ、静かに呟いた。
「……月が綺麗だったな、アイ」
あの夜の想いは、もう胸の奥深くに封じ込めた。
今はただ、シェリルと共に生きるために、戦うだけだ。




