43話同級生
プロイセンの騒乱から数日。バヤールはアルテミス・レイが放った微弱なGPS信号の航跡を解析し、次なる目的地をこの大西洋に浮かぶ島国のイングランド王国へと定めていた。
「アイ、深度及び高度、共に規定値内。光学迷彩機能、正常に出力中。これより本艦は、予定通り指定座標の廃墟へ降下するぞ」
耳に仕込まれた超小型インカムから、ボリス艦長の静かな声が響く。
「了解したよ、バヤール。周囲の警戒を怠らないでね」
私が操る《ニルヴァーナ》、そしてわたしを運ぶバヤールは、一筋の光すら漏らすことなく、イングランドの空へと滑り込んでいった。
この国は、一年を通じて湿った霧に包まれている。特に今、私たちが目指している地方都市の郊外は、視界が数十メートル先すら怪しいほどの、文字通りの「濃霧の街」だった。ごつごつとした岩肌が露出する険しい山を登りつめた先、かつてこの地を治めていた貴族の城跡だろうか、崩れかけた石壁がそびえ立つ廃墟が、霧の向こうから幽霊のように姿を現した。
バヤールは一切の風切り音を立てず、まるで霧そのものが地面に降り立つかのように、静かにその巨体を廃墟の敷地内へと着陸させた。
「着陸完了。ニルヴァーナの偽装および固定を確認。アイそれではアルテミス・レイを捕まえる算段をつけるため街を調査してきてください」
「分かってる。じゃ行ってきます!」
私はパイロットスーツの上に、現地に馴染むような厚手のトレンチコートを羽織り、深く帽子を被った。手首の端末に最低限の暗号化通信機能とデータスキャナーが生きていることを確認し、私は一人、霧が渦巻く山道を下り、麓の街へと歩みを進めた。
麓の街は、イングランド特有の赤レンガと黒ずんだ石造りの景観が並ぶ、歴史ある静かな場所だった。
しかし、その静けさはどこか不自然だった。街を行き交う人々の足取りは重く、誰もが互いを警戒するように目を伏せて歩いている。プロイセンのような戦火の痕跡こそないものの、ここには目に見えない息苦しさと、軍事的な緊張感が張り詰めていた。
(……この街、何かがおかしいな)
手首のデータスキャナーを見つめながら、私は眉をひそめた。
そもそも地球では、その希少性からアルテミシウムはあまり使われない。エネルギーの主流は未だに旧来の化石燃料や通常の電気、あるいは水素だ。それなのに、このしがない地方都市の地下からは、微弱ながらも明らかに人工的なアルテミシウムの反応が漏れ出ている。
公にできない何かが、この地下で動いている。
私は一般の観光客を装いながら、街のあちこちを調べていく。
「……やっぱりね。昨日この街の特別検問所を通過した大型コンテナの運行記録、完全にデータが偽装されている」
点と点が、霧の向こうで少しずつ繋がり始めていた。地球では滅多にお目にかかれないはずのアルテミシウムを極秘裏に運び込み、何かをこの街で開発している……。
およそ3時間に及ぶ緻密な移動と調査を終えた頃、頭がわずかに熱を帯びるのを感じた。膨大な暗号データを脳内で処理し続けたせいだ。一度、情報を整理するための休息と、周囲の状況を定点観測するための場所が必要だった。
私は、街の中心部から少し外れた場所にある、古びたカフェの扉を押した。
チリン、と静かな鈴の音が店内に響く。
カフェの中は、外の濃霧とは対照的に、温かいランプの光と、香ばしい紅茶の香りに満ちていた。客はまばらで、地元の老人たちが数人、静かに新聞を読んでいるだけだ。
私は店の最も奥、外の通りが霧越しに広く見渡せる窓際の席を選んで腰を下ろした。店員に温かいアッサムティーを注文し、運ばれてきたカップから立ち上る湯気を眺めながら、手首の端末に集約されたデータを網羅していく。
「バヤール、聞こえる? 街の地下構造のマップを半分ほど復元したわ。何か、北側の渓谷沿いに怪しいエネルギー反応がある」
『確認しました、アイ。こちらも上空からの熱源探知を進めます。……ただ、無理はしないで下さい。あなたの心拍数が少し上がっています。』
「もう、ただのストレートティーだよ。ソ連のキツい珈琲に比べれば、少し物足りないだけ」
冗談を返しつつ、私はふと、窓の外の景色に視線を向けた。
窓のすぐ外は、白く濁った濃霧の世界だ。歩行者の姿も、まるで影絵のようにぼやけて見える。視界は最悪だった。
だが、その時。
道を挟んだ向かい側、霧のカーテンがほんの一瞬だけ、風に煽られて薄くなった。その刹那、街灯の鈍い光に照らされた「一人の女性」の横顔が、私の網羅した視界の隅に飛び込んできた。
黒いタイトなコートを着込み、霧の中に溶けるような滑らかな足取りで歩くそのシルエット。
帽子から覗く、見覚えのある流れるような髪の毛のハネ方。そして何より、周囲の環境を完全に警戒し、一寸の隙もなく周囲に視線を走らせる、あの独特な「肉食獣」のような歩行。
(まさか……)
私の心臓が、バヤールに指摘された時とは比べ物にならないほど大きく跳ね上がった。
見間違うはずがない。あの歩き方、あの徹底された隠密の気配。
それは、ソ連の冷徹極まるエージェント養成機関において、数年間、常に私の数歩後ろ、あるいは数歩先を歩み、互いの命を削り合うような訓練を共にしてきた、唯一無二の女同級生。
「……ダリア?」
声にはならなかった。ただ、私の唇がその懐かしくも危険な名前を形作った。
なぜ、彼女がここにいるの? ソ連のエージェントであるはずの彼女が、なぜこのイングランド王国の、アルテミス・レイの影が来ると予想される街にいるのか?
彼女は、ソ連上層部から別の任務を帯びて派遣されたの? それとも、私と同じように、あの白い悪魔の謎を追って独自に潜入しているのか。
霧が再び濃くなり、向かいの通りにいた彼女の姿を白く塗りつぶしていく。
「バヤール、予定を変更するね」
私は紅茶の代金をテーブルに置き、トレンチコートの襟を立てて席を立った。
『アイ? どうしましたか?』
「意外な『先客』を見つけたの。……霧が深くなってきた。迷子にならないうちに、彼女の背中を追うね」
私はカフェの扉を開け、再び冷たい霧が支配するイングランドの街へと、音もなく踏み出した。




