30話完全なる敗北
バヤールに残されたのは静かな絶望だった。全員が命を張り、太陽近くまで行き、回収したヘリオスフィアをソ連へ持ち帰ろうとした途端にこれだ。戦闘の余波でバヤールの推進系にはダメージを負っており、アルテミス・レイを追いかけられる力など残ってはいなかったのだ。
ひび割れたモニターを見つめ、タチアナはただ拳を強く握りしめていた。計測器が示すのは、遠ざかっていくたアルテミス・レイの反応のみ。
「推進出力、さらに低下……。このままでは、地球への帰還軌道に乗ることすら困難です」
オペレーターの悲痛な報告が、冷え切ったブリッジに響く。
先ほどまでリーカスのために泣き叫んでいたアイは、今はザンギエフの分厚い胸に顔を埋めたまま、声もなく肩を震わせていた。ザンギエフは、かつてないほど沈痛な面持ちで、ただ静かにアイの頭を大きな手で撫で続けることしかできない。
「すまねえ、リーカス……俺に、もう少し力があれば……っ」
ニコライを失い、そして今また、艦の希望であったリーカスまでもが奪われた。太陽の過酷な熱波に耐え抜き、勝利を掴んだはずのバヤールだったが、その代償はあまりにも大きすぎた。
だが、このまま熱圏の藻屑となるわけにはいかない。
リーカスが命を賭して守り抜いたこのバヤールと、アイの未来を繋ぐために。
タチアナは深く息を吐き、血の気の引いた顔を上げて全員を見渡した。
「……全員、持ち場を離れないでください。まだ、すべてが終わったわけではありません。推進系の応急修理を最優先します。生きて地球へ戻り、必ずリーカスを……謎の人物に奪われたあの機体を取り戻すための足がかりを作り出すのです」
絶望の底にあっても、彼らの眼灯はまだ完全に消えてはいなかった。通信から聞こえてきた謎の人物に奪われた英雄を奪還するため、満身創痍のバヤールは、血を流しながらも再び動き出そうとしていた。
数時間後の地球のヒノモト領。午前
ヒノモトの軍都・桜坂の閑静な住宅街。
アイと同い年の十歳の少年、レン・カンザキは、その日もいつも通り軍属小学校の門をくぐっていた。
朝の整列、忠君愛国の誓い、戦史の授業、機体工学の基礎演習。
レンはどれも真面目に取り組み、休み時間には友達と最新の軍用機の模型を広げて盛り上がった。
「レンくんは将来、どんな人になりたい?」
休み時間。模型を組み立てながら、女子生徒が何気なく尋ねた。
レンは手を少し止め、少しだけ考えてから照れくさそうに笑う。
「うーん……俺はやっぱり、ユウマ・トードさんみたいになりたいかな」
その瞬間、教室がワッとざわついた。
「えー、やっぱり?」
「俺も! 英雄だもんな!」
「連邦のトップだし、ほとんど神様みたいな人じゃん!」
口々に盛り上がる生徒たち。だが、その熱気を冷徹な一言が切り裂いた。
「——誰が神だ?」
教室中が水を打ったように静まり返る。
いつの間にか、教壇の前には担任教師が立っていた。威厳のある軍服姿の教師は、ゆっくりと室内を見渡す。
「今、神と言った者は誰だ」
誰も答えられない。張り詰めた沈黙の中、教師は低い声で続けた。
「英雄を敬うことは構わん。だが、安易に人を神と呼ぶな」
教室の空気が一段と冷たく引き締まる。
「神など存在しない。どれほど世界を救おうと、どれほど強かろうと、人は人だ」
教師は振り返り、黒板に大きく文字を書き付けた。
『英雄は国家を守る。だが、神が国家を作るわけではない』
チョークを置いた教師が、再び子供たちを鋭い眼光で見据える。
「ヒノモトを築き、この繁栄を支えてきたのは、一人の英雄ではない。戦場に散った名もなき兵士、夜を徹した技術者、未来を追う研究者……そして、国民一人ひとりだ。ユウマ・トードも、その大きな歯車の一人に過ぎん」
教師は教壇に両手を突き、生徒たちに語りかける。
「英雄を偶像(神)にする者は、自ら思考することをやめる。それは、未来の軍人として最も恥ずべきことだ」
レンは言葉の重さに息を呑み、自然と背筋を伸ばした。
クラスの全員が圧倒される中、教師はふっと張り詰めた表情を緩める。
「……もっとも」
少しだけ声音を優しくして、教師は続けた。
「彼のような男になりたい、という志まで否定はしない。だがレン、目指すなら『神』ではなく、どこまでも気高い『人』を目指せ」
「はい!」
レンは真っ直ぐに教師を見つめ、力強く返事をした。
その日も友達との普通の、穏やかな一日だった。
夕暮れが近づく頃、レンはいつものように鞄を背負い、家路についた。
代々軍人に仕える家柄として生まれた彼にとって、この日常は当然のものだった。父は基地の整備中隊長、母は軍医、妹の小桜はまだ五歳で、今日も「お兄ちゃんおかえり!」と玄関で飛びついてくるはずだった。
しかし自宅のあった場所に、近づいた瞬間。
レンの足が止まった。
そこにあったはずの白い二階建ての家は、跡形もなく吹き飛んでいた。
瓦礫の山と、黒く焦げた地面。まだくすぶる炎と、立ち上る黒煙。
「……え?」
鞄が手から落ちた。
瓦礫の中に、見覚えのある母のエプロン。父が大事にしていた軍帽の欠片。そして、妹がいつも抱いていた兎のぬいぐるみが、半分炭化して転がっていた。
その中心に、巨大な足跡が深く刻まれていた。
「うそ……だよ……」
膝が崩れ落ちる。
父の焼けた腕が、瓦礫の下からわずかに覗いていた。母は上半身が消え、妹は……妹はどこにも見当たらなかった。
レンは声を上げることすらできず、ただ震える手で瓦礫に触れた。
その後、レンは知った。アルテミス・レイと呼ばれるソ連へ亡命した人型機体がレンの家一帯や軍施設を破壊したのだと言う。
その瞬間、少年の心の中で何かが音を立てて折れた。
「……殺す」
小さな拳が、血がにじむほど強く握りしめられる。
「……絶対に、殺す」
十歳の少年の瞳に、幼さはもうなかった。
代わりに、冷たく、暗く、底知れぬ憎悪の炎だけが灯っていた。
その日、レン・カンザキは復讐を誓った。
アルテミス・レイを。
そして、それに乗る者を。
10年後……




