20話鉄の熊と小さなひまわり
タチアナの冷徹な一喝によって、しんと静まり返った格納庫。
誰もが次の航路への準備へと動き出す中、その様子を物陰からじっと見つめていた少女。アイが、トコトコと小さな足音を響かせてザンギエフの前に歩み寄った。
電磁拘束具を嵌められたまま、大きな体を丸めて体育座りをしているザンギエフは、自分の膝のあたりまでしか背丈のない少女を見上げ、戸惑ったように太い眉をひそめる。
「なんだ、お嬢ちゃん。……俺の顔に何かついているか?」
アイは何も言わず、ただその大きな手をじっと見つめ、それからザンギエフの顔を覗き込んで、にこりと微笑んだ。そして、彼の大きな人差し指をきゅっと握りしめる。
「……お腹、ペコペコなんだよね? いっしょに、美味しいもの食べにいこ!」
「おい、アイ!?」
俺が咄嗟に声をかけるが、アイは気にする風でもなく、「大丈夫だよ、リーカス!」と振り返って無邪気に笑った。その屈託のない笑顔には、どんな屈強な兵士も調子を狂わされてしまう。
ザンギエフは目を丸くし、それから観念したように大きなため息を吐きながら、のそりと立ち上がった。
「フン、敵の子供に同情されるとは、俺も焼きが回ったものだな。……だが、背に腹は変えられん。案内してもらうか、小さなお嬢ちゃん」
拘束具から伸びるコードをイワンから預かり、アイがまるで大きな熊を散歩させるかのように、バヤールの狭い通路を先導していく。俺と、念のために銃を手にしたニコライがその後ろをそっと見守るように尾行した。
バヤールの簡易食堂。
普段は無機質な鉄板に囲まれたその場所に、なんとも奇妙な光景が広がっていた。
「はい、お待たせ! 特製、バヤール風ボルシチだよ!」
アイが小さな両手で一生懸命に運んできたのは、湯気が立ち上る大きな深皿。中に入っているのは、艦内の限られた保存食で作られた、ビーツの代わりに合成トマトを使った赤いスープだった。それと、少し固めの
黒パンが山盛りにされている。
「ほう……」
ザンギエフは手錠がガチャリと音を立てるのも構わず、大きなスプーンを器用に指で挟み、スープを一口、口に運んだ。
一瞬、その無骨な顔が険しくなる。俺とニコライが緊張のあまり銃に手をかけそうになった、その時。
「……美味い。本物のビーツではないが、この酸味と塩気、間違いなく故郷の味だ」
ザンギエフの顔が、見たこともないほど優しく綻んだ。彼はガツガツと猛烈な勢いでスープを啜り、大きな口で黒パンを放り込んでいく。その食べっぷりは見ていて気持ちが良いほどだった。
「えへへ、よかった! イワンがね、隠し持ってたウォッカをちょっとだけスープの隠し味に入れたんだよ」
アイが嬉しそうに胸を張ると、ザンギエフは「なるほど、道理で体が温まるわけだ」と豪快に笑った。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「アイだよ!」
「そうか、アイ。お前はいい戦士になる。……いや、こんな硝煙臭い場
所ではなく、ひまわりが咲くような温かい場所が似合う優しい娘だな」
ザンギエフは大きな手をアイの頭に乗せ、まるでおもちゃを扱うかのように優しく、そっと撫でた。あんなに戦場で猛威を振るった鉄の拳が、今は小さな少女を慈しむように動いている。
「ねえ、ザンギエフ。お腹がいっぱいになったら、今度はアイのお部屋で絵本を読んで?」
「絵本、か。しばらく文字なんて読んでいないが……お前が言うなら、俺の自慢のバリトンボイスで読み聞かせてやろう」
そんな二人のやり取りを食堂の入り口から眺めながら、ニコライは呆れたように銃をホルダーに戻した。
「……死神殿、どうやらあの熊親父は、完全にアイの捕虜になったようだな」
「ああ、世界最強のゲリラも、アイの笑顔には敵わなかったみたいだ」
俺は張り詰めていた肩の力を抜き、ふっと笑みをこぼした。
窓の向こうには、刻一刻と迫る太陽の、激しくも美しい極光が揺らめいている。これからの航路がどんなに過酷なものであろうとも、この食堂の温かさがある限り、俺たちは戦い抜ける。そんな確信を抱かせてくれる、束の間の癒しの時間だった。
その頃、太陽圏への突入準備を進める《バヤール》を追跡すべく、月面軌道上の超大型強襲揚陸艦では、追撃に向けた機体の点検が急ピッチで進められていた。
……が、肝心の作戦指令室は、ヒノモトの精鋭たちが集まっているとは思えないほどの、妙にゆるい空気に包まれていた。
「――というわけだ。確率論から言えば、1ターン目でシン少佐が人狼として処刑された今、残る3人の中に確実に本物が潜んでいることになる」
中央のホログラムテーブルを囲み、大真面目な顔で端末を操作しているのはユウマ・トードだった。その傍らでは、ゲーム開始直後に無実のまま吊るされたシン・カザマ少佐が、完全に冷めた目で自分の端末を見つめている。
「ちょっとユウマ様、ひどーい! 私はただの無実な村人よ? シンを初手でハメたのは貴方でしょう。さては貴方が本物の人狼ね?」
マキ・ナガサワ大尉がわざとらしく頬を膨らませてユウマを指差す。
「はっはっは! ワシは最初から言っている通り、実直な村人だ! 嘘などつかん!」
豪快に笑いながら、自分のカードを堂々とオープンにしているのはゴウダ・ゲンジ大佐。
「……ゴウダ大佐、何度も言うがゲームのルールを理解してくれ。カードを見せたら人狼にならない。それに、誰も喋っていない夜のターンに足音を立てて歩き回るのはやめてほしいな。誰が人狼か一発でわかってしまう」
漆黒のコートの襟を緩め、心底気怠そうに頭を抱えるユウマ。
そう、彼らは追撃の準備が整うまでの間、暇を持て余した結果、なぜか「人狼ゲーム」を始めていた。しかもシンが即退場したため、場には3人しか残っていない。
そこへ、進捗報告のために通りかかったアメノトリフネの艦長が、自動ドアが開くと同時にその光景を目撃し、思わず回れ右をしそうになった。
「……あの、ユウマ殿。報告に参ったのですが……というか、ただでさえ人数の少ない4人から、さらに1人脱落して、たった3人で人狼ゲームを続けるのはシステム的に無理がありませんか?」
艦長の至極真っ当なツッコミが室内に響く。
「通常の人狼はもっと大人数でやるものですし、3人だと市民1、人狼1、占い師1とかですか? 初手で市民側が吊られたら、その時点で人狼の勝ちでゲーム終了でしょう。全然面白くないのでは……?」
「いや、艦長。物事はそう単純ではないよ」
ユウマは冷徹な目を艦長に向け、大真面目に語り出した。
「たった3人だからこそ、一言の重み、視線の動き、呼吸のズレが勝敗を分ける極限の心理戦になる。リーカスを追い詰めるための、完璧なメンタルトレーニングだ」
「はぁ……。で、今の状況は?」
「マキ大尉が人狼、ゴウダ大佐が狂人(※ルールを理解していないため)、僕が占い師だ。そしてゲームシステム上はすでに人狼の勝利で終わっているはずなのだが、ゴウダ大佐がカードを隠さないせいで、なぜかゲームが続行不可能のまま膠着している」
「ちょっとユウマ様!? 完全に私の勝ちじゃない!」
「確率論的に、ワシが狂人なのは納得がいかん!」
「僕は1ターン目で何の弁明の機会もなく吊るされたんですがね……」
一斉に文句を言い始めるエースたちを見て、艦長は深くため息を吐き、手元のタブレットをそっと閉じた。
「……仲が良いのは結構ですが、点検はあと30分で終わります。終わったら、すぐに『本物の狩り』を始めていただきますからね」
冷酷な天才ユウマと、一癖も二癖もあるエース3人組。バヤールが太陽の熱圏で必死の逃避行を続ける裏で、追う側の悪魔たちは、そんなお気楽かつ不気味な身内揉めを繰り広げながら、じわじわと牙を研いでいた。




