13話シベリアン・アイアン
激しい摩擦熱と船体の軋みに耐え抜き、ボリス艦長の巡洋艦はヒノモトの追跡を振り切って大気圏を突破した。
向かった先は、分厚い氷壁と激しい吹雪に閉ざされたソ連軍の要塞と街が併設された場所だった。外界から隔離されたその格納庫に滑り込んだ瞬間、ようやく張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
艦が完全に停止すると同時に、待機していたイワンをはじめとする整備兵たちが一斉に飛び出していく。
「よし野郎ども! 月面でやり残した点検を終わらせる! それと、上層部から支給された新型兵器のフィッティングデータも持ってこい!」
イワンの怒号が響く中、俺とニコライはそれぞれの愛機の前にいた。
見上げる先には、数々の銃撃を受けながらも、その中央に厳然と鎮座するアルテミス・レイの巨大な実体剣。
隣の足場で、愛用のナイフを軽く回しながらそれを見上げていたニコライが、ふとこちらに視線を向けずに口を開いた。
「おい、死神殿。前から気になっていたんだが……そのレイの大剣には名前はないのか?(ワクワク)」
「名前?」
予期せぬ質問に、俺は動きを止めてニコライを見た。
「いや、ただの『大剣』だ。軍の支給品だし、そんなものを気にしたことはないな」
「フン、味気ない男だ。戦場で命を預ける相棒に名も与えんとはな。……なら、俺がつけてやろう」
ニコライは冷たい目を微かに細め、その白い刃を見つめる。
「狂気、あるいは月の女神の気まぐれ……『ルナティクス』というのはどうだ? 死に怯えながら戦場を狂ったように駆けるお前には、お似合いの不吉な名だろう」
「厨二臭いな……だがルナティクスか……」
その言葉が耳に残る。不快な駆動音を響かせるアルテミシウムの炉、そして死への恐怖。そのすべてを内包したかのような名だった。
「悪くないな……。これからはそう呼ばせてもらう」
俺たちがそんな会話を交わしている足元へ、艦内からアイがトコトコと駆け寄ってきた。
「リーカスおじさん! 」
駆け寄ってきたアイの顔を見て、俺は小さく息を吐いた。大気圏突入の凄まじいGにどうなることかと思ったが、小柄な身体でよく耐えてくれた。目元に少し疲れは見えたが、その表情には無事に戻れた安心感が浮かんでいる。
俺はコートのポケットに手を突っ込み、隣で気怠げにナイフを収めたニコライに声をかけた。
「おい、ニコライ。この基地の併設街に、まともな飯が食える場所はあるか? 月面を出てからまともな固形物を口にしてない。こいつにも何か温かいものを食わせてやりたいんだが」
ニコライは一瞬、心底面倒くさそうな目を俺に向け、それからアイに視線を落とした。
「……死神殿の味覚に合うかは知らんが、ボルシチと黒パンなら、まともな店が一つある。地下区画の三番街だ」
「案内してくれ。それと奢ってくれると助かる…」
「フン、誰がお前に奢るか。行くぞ、ガキ」
ニコライはそう吐き捨てると、長い足でさっさと歩き出した。不器用な男だが、こういう時に突き放さないあたりが彼なりの流儀なのだろう。俺はアイの手を引き、彼の背中を追った。
ソ連軍の要塞に隣接する地下街は、分厚い氷壁の底にあるとは思えないほど、人々の熱気と生活臭に満ちていた。薄暗いナトリウム灯の光の中、防寒着を着込んだ住民たちが行き交う。
ニコライが連れてきてくれたのは、古びた木製のカウンターがある小さな大衆食堂だった。
「お待たせ、特製のボルシチだよ」
給仕の愛想のいいおばちゃんが、湯気の立ち上る真っ赤なスープと、ずっしりとした黒パンをテーブルに置く。
「わあ……! すごくいい匂い!」
アイの目が、月面都市の路地裏にいた時とは比べものにならないほど輝いた。スプーンですくってフーフーと息を吹きかけ、恐る恐る口に運ぶ。
「美味しい……! おじさん、これ、すっごく温かいよ!」
「そうか。喉を詰まらせないようにゆっくり食えよ」
スープを口に含むと、濃厚な肉の旨味と野菜の甘みが、戦場で凍りついていた腹の底にじわりと染み渡っていく。隣で無言でスープを運ぶニコライも、気のせいか少しだけ目元が緩んでいるように見えた。激しい戦いの中で、この静かな時間だけが、俺たちがまだ人間であることを思い出させてくれた。
「ごちそうさまでした!」
お腹を満たした後、ニコライが支払いをさりげなくすませた。
少し顔色の良くなったアイの手を引きながら、俺たちは要塞へと続く薄暗い連絡通路を歩いていた。街の賑やかさから離れ、周囲には人工の冷たいコンクリート壁が広がる。
その時だった。歩いていたニコライが、唐突に足を止めた。
その鋭い眼光が、前方の暗がりに向けられる。
「……死神殿。どうやら、スープの消化を促す運動が必要なようだぞ」
ニコライの低い声と同時に、通路の奥、そして俺たちの背後の曲がり角から、複数の足音が響いた。現れたのは、顔を黒い布で覆った男たち。一目で正規の兵士ではないとわかる、殺気を放つ武装集団だった。数にして十人。その手には、お世辞にも手入れが行き届いているとは言えない自動小銃が握られている。
(ヒノモトの急襲部隊……いや、違うな。どこから紛れ込んだ!?)
俺の脳裏に、この要塞の強固な防衛網を抜けてきた男たちの不自然さがよぎる。だが、考えている暇はなかった。男たちが一斉に銃口をこちらに向けたのだ。
「アイ、俺の後ろに隠れろ!」
俺はアイを自分の背後に引き込み、コートの内に手を伸ばした。護身用の拳銃のグリップに指がかかる。
「おいおい、どこのどいつか知らんが、挨拶もなしに銃を向けるとはいい度胸だ」
ニコライが冷酷な笑みを浮かべた瞬間、通路に銃声が炸裂した。
激しい銃撃がコンクリートの床を弾く。俺はアイを庇いながら、壁の死角へと滑り込んだ。すかさず懐から拳銃を引き抜き、迫るテロリストの先頭に向けて引き金を引く。
正確に胸を撃ち抜かれた二人が崩れ落ちる。だが、敵の数は多い。通路の狭さが災いして、激しい弾幕に釘付けにされた。
『遅い』
その銃撃の嵐の中を、黒い影が文字通り「亡霊」のように駆け抜けた。ニコライだ。彼は驚異的な身体能力で弾丸の軌道をかいくぐり、一瞬で敵の懐へと潜り込む。手元で閃いたのは、エイドロンの《サイレンス》を彷彿とさせる、軍用のナイフ。
「ガハッ……!?」
肉を切り裂く鈍い音と、短い悲鳴が狭い通路に反響する。ニコライの容赦のないナイフさばきと、俺の死角からの銃撃により、テロリストたちの連携は一瞬で崩壊していった。彼らは素人ではないが、前線で修羅場を潜り抜けてきた俺たちの敵ではなかった。
「チッ、引き上げるぞ! 案外手強い!」
仲間を半分以上失ったテロリストのリーダーらしき男が、忌々しげに叫び、スモークグレネードを床に投げつけた。爆発的な白煙が通路を覆い尽くす。
「どうする、ニコライ!」
「いや、ガキが連れだ。深追いしてトラップに引っかかるのは御免被る。要塞のゲートまで走るぞ!」
煙の向こうへ銃弾を数発叩き込みながら、俺はアイをしっかりと横抱きに抱え上げた。
「しっかりつかまってろ!」
「うん……っ!」
激しい息の音を響かせながら、俺たちは煙を突き抜け、要塞の重厚な防壁ゲートへと向かって全力で疾走した。背後から数発の追射音が響いたが、それはすでに遠かった。
ゲートの認識センサーが俺たちの軍籍を感知し、重々しい金属音を立てて隔壁が開く。滑り込むようにして要塞の内部へ駆け込むと、背後で強固なハッチが完全に閉ざされた。
「ハァ……。何だったんだ、あいつらは」
俺はアイをそっと地面に降ろし、激しく上下する呼吸を整えながら呟いた。
その頃、リーカス達を襲ったテロリスト集団『凍鉄』のアジトで
「はあああああ!?失敗しただとコラ!?」
そう電話口で怒鳴っていたのは、シベリアン・アイアンの頭目、ザンギエフだった。
暖房の効きが悪い部屋で、彼は熊のような巨体を震わせ、不揃いな犬歯を剥き出しにして息を荒くする。
「訓練を積んだ精鋭を十数人送り込んで、たかがパイロット二人とガキ一人仕留められねえだと? ふざけるな! 出て行った半分が冷たくなって帰ってきただとぉ!?」
通信相手の怯えるような報告を聞きながら、ザンギエフは怒りの奥にある、胸を締め付けるような悲痛さに顔を歪めた。
戻らなかった部下たちの顔が脳裏をよぎる。彼らは軍の精鋭などではない。国家の理不尽な搾取や戦争によって家を焼かれ、親を殺され、行き場をなくしてザンギエフのもとに集まってきた、ただの飢えた素人の若者や難民たちだった。
ザンギエフ自身、かつてはソ連軍の誇り高き将校だった。しかし数年前、上層部の保身と無能な作戦によって、彼の愛する家族が住む故郷の街ごと防衛線として見捨てられ、焦土と化した。瓦礫の下から見つけ出した妻の冷たくなった手、泣き叫ぶ暇もなく息絶えた幼い娘。国家のために命を捧げてきた代償が、最愛の家族の死だった。
絶望のどん底で軍を脱走した彼は、自分と同じように国家にすべてを奪われ、凍えるシベリアの地で行き倒れかけていた素人たちを拾い集めた。生きるために戦う術を教え、いつしか彼らは『シベリアン・アイアン』と呼ばれるゲリラ組織になっていた。ザンギエフにとって彼らは、失った家族の代わりであり、何としてでも食わせていかねばならない「子供たち」だったのだ。
銃の握り方すらおぼつかない素人を、ユウマから提示された甘い蜜。
「軍のデータと莫大な資金」に目が眩み、危険な要塞へ送り込んでしまった。その結果がこれだ。また、自分のせいで家族(部下)を死なせてしまった。
「……ずいぶんと荒れているね、ザンギエフ。私の『投資』に見合う成果は期待できそうにないのかな?」
通信端末のスピーカーから、ノイズ混じりでありながらも、氷のように冷徹で洗練された声が響いた。
月面軌道上のアメノトリフネから、暗号回線を通じて冷然と見下ろす男――ユウマ・トードだ。
ザンギエフは血走った目で端末を睨みつけ、怒りと悲しみが混ざった声を絞り出した。
「黙れ、連邦の坊主が……! 標的の『死神』の横に、とんでもねえ化け物がつきまとっていやがった。あれはソ連の亡霊――エイドロンのパイロットだ。素人の子供たちにあんな奴らの相手をさせたのは、どこのどいつだ!」
「言い訳は生存者の特権だ。だが、私は前払いとして君たちに最新の電子工作機材と、ソ連軍の動向データを渡している。彼らを確実に仕留めれば、君たちの組織全員が一生遊んで暮らせるだけの追加報酬を約束したはずだ。違うかい?」
ユウマの声には、微塵の動揺も同情もなかった。
ザンギエフたちの悲壮な過去も、命の重さも、ユウマにとってはリーカスを追い詰めるための使い捨ての猟犬、あるいはソ連軍の防衛能力を測るための「観測用のモルモット」のデータに過ぎない。
ザンギエフは悔しさに奥歯を軋らせた。これ以上、子供たちの血を流したくはない。だが、この極寒の地で組織が生き残るためには、ユウマが提供する物資と資金に縋るしかなかった。




