第2話:茹でダコの少年
ーー 翌朝 ーー
昨日見たような悪夢に悩まされることはなかった。
そういえばもうすぐ建国祭だっけ。
もう十分なくらいには寝たはずなのに、
布団から出るのが億劫で惰眠を貪っていた。
平和な日常はずっと続くと思っていた。
だけど、なんだか胸騒ぎがする。
どうしようもない”焦燥感”と”既知感”を覚えた。
余計な不安なんて抱かずこのままーー 布団に顔を埋めた――その瞬間
「起きろねぼすけ!」
「うわっ!」
「あ、今日はいつもの悪い夢みてないんだね」
「いつも……って毎日みてられっかよ」
姉ちゃんが窓を開ける。
冷たい朝の空気が流れ込んできて、思わず肩が震えた。
「今日は店番休みだからっていくらなんでも寝過ぎじゃない?」
「うるせぇな。まだ朝だろ……」
「朝だから起きるんだろ」
あー聞こえない。聞こえない。
正論という名の暴力なんて、
槍みたいに空から降ってこなきゃいい。
恨めしそうに睨む俺に、姉ちゃんは
「待ってました」とばかりに意地悪な矢を番える。
「クララさん来るかもしれないぞ?」
グサッ。
姉ちゃんの言葉が、オレの急所を的確に貫いた。
やめてくれ。
顔が火照るのを止められない。
「やめろ!!!」
「ハハハ!顔真っ赤じゃん」
「赤くねぇし!」
「赤いよ、茹でダコみたいに」
「いつからオレ8本足になったのさ?」
「じゃあアップルティーでも飲む?」
「いらねぇよ! 俺がそれ嫌いなの知ってて言ってんだろ」
言い合っていると、階段下から母さんの声が飛んできた。
「朝から騒がないの」
母さんの足音が近づいてくる。
火照った顔はまだ元に戻りそうにない。
「あら、茹でダコみたいに顔真っ赤」
「母さん!」
扉を開けて、息子の顔をみるなり開口一番にこれである。
「起きたのなら、早いところ顔洗いなさい。」
「はーい……」
母さんに促されて、1階にある洗面所に向かった。
顔を洗い終わって洗面所を出たところで、父さんを見かけた。
ガレス・レオンハルト。
どうやら早朝から仕事があるらしく、今から出かける準備をしている。
「おはようお父さん」
「ああ、おはよう」
「今日も朝から早いんだね」
「あ、お父さん!おはよう!もう出かけるの?」
姉ちゃんと母さんが階段から降りてきた。
さっきまで二人は何を話していたんだろ?
「今日は荷受けが早い。中央市場に荷車が三台入る」
「そうなの?でも建国際って三ケ月くらい先だよね?」
「まぁ、そうなんだがもう動き始めてる。 ……今年は、妙に早ぇ」
姉ちゃんは何故か知らないけど、目を輝かせながら
「やったね!手伝い増えるじゃん!」
って調子の良いこと言ってやがる。
「お前が張り切ると大体大変になる」
「えーひどい!ま、なんとかなる!」
「カーネル、あまり無茶しちゃだめよ?」
「じゃあ行ってくる」
そんな他愛もない会話を繰り広げながら、父さんは 市場に出かけた。
父さんを見送った後に朝食を済ませて、
パン屋レオンの開店準備を進めていた。
レオンハルト家の一階は、そのままパン屋になっている。
朝の店内には、焼きたてのパンの匂いが満ちていた。
木の棚には丸パンや黒パンが並び、まだ湯気を立てている。
外では市場へ向かう人たちの足音が聞こえ、
扉が開くたびに冷たい朝の空気が入り込んできた。
やがて、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませー!」
一番最初に声を張ったのは、姉ちゃんだった。
開店と同時に、何人かの客が流れ込んでくる。
市場に向かう途中の商人や、近所の常連だ。
「丸パン三つね」
「はいよー!」
姉ちゃんが手際よくパンを袋に詰める。
オレは棚から補充用のパンを持ってきて、空いた場所に並べていく。
焼き上がったばかりのパンを、奥から何度も往復して運ぶ。
「ジェイド、黒パン減ってる!」
「今持ってく!」
店の中は、あっという間に人の声と足音で埋まった。
――忙しいけど、嫌いじゃない。
「ジェイド、その籠こっち」
「はい」
母さん――ミレイユは、手際よくパンを棚に並べながら言った。
「ジェイド、粉が少なくなってきたの。クララさんのところまで行ってきてくれる?」
店の奥では、次の生地がもう焼き上がろうとしている。
今なら、客足も少し落ち着いていた。
「わかった。取りに行ってくる」
「お願い。ついでに、市場の様子も見てきて。建国祭の準備で、少し騒がしくなってるみたいだから」
その言葉に、横から姉ちゃんが顔を出した。
「私も行く!」
「いや、なんでだよ。姉ちゃんは店番してろよ」
「えー? なになに? 私がついていくと、まずいことでもあるの?」
「そんなんじゃない!」
姉ちゃんはにやにや笑っている。 完全に面白がっていた。
母さんは呆れたように息をつくと、紙袋を二つ差し出した。
「それなら、これもお願い。市場の常連さんに届けてきて」
「ほら、配達もあるってさ」
姉ちゃんは勝ち誇ったように笑った。
「……なんで嬉しそうなんだよ」
「ま、なんとかなる!」
結局、オレは姉ちゃんと一緒に市場へ向かうことになった。
外に出ると、朝の光が石畳に反射していた。
隣を歩く姉ちゃんの赤橙色の髪が、その光を受けて揺れている。
朝の市場は、とにかく騒がしい。
焼いた肉の香ばしい煙。
荷車の車輪が石畳をきしませる音。
「新鮮な野菜だよ!」
「今朝入ったばかりの肉だ!」
「そこの兄ちゃん、寄っていけ!」
あちこちから商人の呼び声が飛び交い、人の流れが絶えない。
その中を、オレと姉ちゃんは歩いていく。
するとすぐに声が飛んできた。
「カーネル!」
振り向くと、果物屋のおじさんが大きな箱を抱えて困った顔をしていた。
「悪い、これ運ぶの手伝ってくれ!」
「いいよ!」
姉ちゃんは軽々と持ち上げた。
「お前ほんと力あるな」
「パン屋だぞ? 毎日重い粉袋を運んでるからね!」
胸を張る姉ちゃんに、果物屋のおじさんは思わず笑い声を上げた。
「ははは! 頼もしいねぇ。ジェイドも姉ちゃんに負けんじゃねぇぞ!」
そう言ってオレの肩を叩くおじさんの手は、商売人らしい分厚い熱を持っていた。
姉ちゃんはひょいと箱を担ぎ直すと、目的の場所まで軽快な足取りで運んでいく。
「助かったよカーネル。また頼むぞ! ジェイドも元気でな!」
「おじさんもお仕事頑張って!」
姉ちゃんがそう返すと、周りの商人たちからも次々と声が掛かった。
「相変わらずだなぁ、カーネル!」
「おい、今度うちの荷卸しも手伝ってくれよ!」
「順番待ちだよ、おじさん!」
姉ちゃんが軽口で応じるたびに、市場にドッと笑いが広がる。
「あ、カーネル! ちょうどいいところに」
今度は向かいの乾物屋の店主が顔を出した。
「あそこの角の八百屋、また通路の真ん中に荷車を出しっぱなしにしてやがるんだ。お前からガツンと言ってやってくれよ」
「了解! あそこ、うちのパンも卸してるからね。どかさないなら納品を一番最後にしちゃうよって脅してくる!」
姉ちゃんがニカッと笑うと、店主は「頼んだぜ!」と親指を立てた。
市場の人たちは、みんな気軽に姉ちゃんへ声をかける。
姉ちゃんも、そのたびに手を振ったり、小気味いい返事を返したりしていた。
オレは少し後ろから、その橙色の背中を見ていた。
……やっぱり、姉ちゃんはすごい。
この市場では、誰もがレオンハルト家の長女を知っている。
パン屋の娘、力持ち、面倒見がいい、そして――ちょっとおせっかい。
力仕事だけじゃない。
姉ちゃんはこの市場の「顔」であり、みんなが自然と頼ってしまう、そんな明るい磁場のような存在なんだ。
ふと市場の入口に視線を向けると、
銀色の甲冑を纏った警備兵がいつもより多く立っているのが見えた。
……何かあったのか?
わずかな胸騒ぎを覚えたけれど、すぐにまた賑やかな商人の呼び声がそれを塗り潰していった。
「よし、次はクララさんのところだね」
姉ちゃんに促され、オレたちは中央市場の喧騒を背に、粉屋へと足を進めた。
粉屋は、中央市場から教会旧市街へ抜ける通りの先にある。
市場の中心から少し離れるだけで、さっきまでの喧騒は少しずつ遠くなっていった。
……けど。 人の数は、あまり減っていない気がする。
むしろ、普段より多いような――
「なんか今日、人多くないか?」
そう呟くと、隣を歩いていた姉ちゃんが肩をすくめた。
「建国祭前だからでしょ。もうお祭りムードなんだよ」
「ああ、そっか……」
「わっ!」
振り向くと、教会の孤児院で見かける小さな男の子が、石畳につまずいて転んでいた。
手に持っていた袋が地面に落ちる。
中から転がり出たのは、パンだった。
石畳に落ちたパンを見て、男の子の顔が曇る。
「……あ」
姉ちゃんがすぐにしゃがみ込んだ。
「おっと、大丈夫?」
男の子は小さくうなずく。
けれど、視線は落ちたパンから離れない。
姉ちゃんはパンを拾い上げた。
でも、石畳の砂と土がついている。
少しだけ考えてから、首を横に振る。
「これは食べられないな」
男の子の顔が、さらに沈んだ。
すると姉ちゃんは、自分の袋を開けた。
配達用に多めに持ってきていたパンが、まだ一つ残っている。
姉ちゃんはそれを取り出した。
「ほら」
男の子は目を丸くする。
「……いいの?」
姉ちゃんは笑って答えた。
「余ったやつだから。うちはパン屋だし」
男の子はパンを受け取ると、ぱっと顔を明るくした。
「ありがとうお姉ちゃん!」
その様子を見ていた肉屋のおじさん――大柄な獣人の男が声を上げる。
「カーネル! またパン配ってるのか!」
「まぁね!おじさん、今日は教会通りなんだ?」
「祭り前だからな。この時期でもな、礼拝帰りの連中に串焼きが売れるんだよ」
「カーネル!」
その声にオレは胸の高鳴りを抑えきれなかった。
どうしよう。
いつもより心臓の鼓動が早い。
振り向くと、そこにクララさんが立っていた。
淡い銀紫色の髪を後ろでまとめ、
粉のついたエプロン姿のまま、いつものように穏やかに笑っている。
「また手伝ってたの?」
「まぁね」
「ほんと、お人よしなんだから。ジェイド君元気にしてた?」
「……えっあ、うん」 どうしよう、クララさんの顔を今は直視できない。
姉ちゃんは横でニヤニヤ意地悪そう顔をしている。
オレたちはクララの粉屋へ向かった。
教会旧市街の通りにある粉屋に入ると、粉の匂いがふわっと広がった。
オレたちは今、クララさんのご厚意で、紅茶とスコーンをごちそうになっていた。
姉ちゃんとクララさんはガールズトークを繰り広げている。
男のオレも居るんだから下着の話とかそういうのはやめてほしい。
「こいつさ、クララさんのこと好きなんだよ」
「ち、違う!」
思わず声が裏返った。
クララさんはちょっと意地悪な、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
不意に甘い香りがしたかと思うと、正面から視界が塞がれた。
――柔らかい。しなやかで、それでいて焼きたての菓子のように甘やかな弾力が、抗う暇もなくオレの顔を包み込んだ。鼻先を掠める日向のような体温と、鼓動の響き。それらすべてが、未熟なオレの理性を一瞬で溶かしていく。
「私のこと好きじゃないの〜? 歳の離れたお姉さんはいや?」
「そういえばクララさん、二十八だったっけ」
「そうね、私じゃお母さんにしか見えないかしら」
「い、いや、その……クララ姉さんは……可愛い、よ」
「……っ!」
クララさんが声にならない溜息を漏らし、オレを抱きしめる力が強くなる。
言葉にならない。
というか、脳が真っ白になって思考が停止している。
「ねぇ、カーネル。この子、私が貰っちゃっていい?」
「ジェイド、あんたそういうこと軽々しく言うんじゃないよ。将来、恋人が二人くらい居そうで怖いわ」
「そうね、ジェイド君はモテそうだもの。じゃあ、それまでは私が面倒を見ちゃおうかな」
「あはは、ジェイド顔真っ赤!」
そんな風にじゃれ合いながら、クララ姉さんは思い出したように席を立ち、棚の奥から小さな袋を取り出した。
そして、オレの手にそっと渡してくる。
「はい」
差し出されたのは、一本の鉛筆だった。
木の軸が滑らかで、普通のものよりずっと立派に見える。
「……え?」
「あ、これ知ってる。中央市場の文房具屋で売ってる高級なやつだよね。いいの、クララさん?」
「ええ。ジェイド君は私にとって弟みたいなものだもの。お姉ちゃんらしいことをさせて」
「ジェイド、勉強頑張れよ? あと二年したらグローリアテスト(国家試験)を受けなきゃだし、落ちるなよ」
「そういう姉ちゃんはどうなんだよ」
「私は……その、他にやりたいことがあるから」
姉ちゃんは露骨に視線を逸らした。
勉強が大の苦手な姉ちゃんは、何度もテストを受けているが、
その点数は合格とは程遠い赤点続きなのだ。
「でも、ジェイド君は勉強ができるものね」
「そうそう。私が解けない問題も、ジェイドはすぐ解いちゃうの」
「姉ちゃんがバカなだけだろ。痛っ!」
「もう一回言ってみ?」
「……なんでもない。クララ姉さん、鉛筆ありがとう」
「うん、頑張ってね」
クララ姉さんが優しく微笑む。
オレは、姉ちゃんよりは少しだけ勉強ができる。
だから、この知識がいつか誰かの役に立てるなら、それでいい。
……今は、まだ。
もらったばかりの鉛筆を、ポケットの中でそっとなぞる。
その滑らかな感触に、なぜかふと、昨夜の悪夢が脳裏をよぎった。
――異端の刃。
聞いたこともない異国の言葉。
平和な日常の裏側で、何かが静かに、
けれど確実に動き出しているような――
そんな奇妙なざわつきを胸に抱えたまま、オレは姉ちゃんの後を追って粉屋を後にした。




