第1話:残響のエルディオン
――メリトクラシア暦八年 五月七日
雨が降っている。冷たい雨のさざ波に囚われ 雲は低く垂れ込めている。
とっくに春なんて過ぎ去っているのに、
どうして今日はこんなに寒いのだろう?
足元の泥にふらついた。
その向こうに倒れている人影をみる――
オレはゆっくり近づいた。
呼吸は浅い。冷たい雨がオレに”生きろ”とだけ囁く。
鮮血の徒花は雨に流され、 背中からみえる”黒い影”はなんだ?翼か?
ぼろぼろに裂けている。
ーー地面に広がった羽が、雨に濡れて重く沈んでいた。
オレと目が合う。 掠れた声で「……ここに来るな」と呟く。
これは 夢か? 幻か?
オレはその得体の知れない何かに、怖いという感情を置き去りにして、
助けたいと願った。
「まだ助かる」
自然と口から言葉が出た。
理由は分からない。
手を伸ばしてみたけれど、拒絶される。
「…..やめろ」 低い声に焦りが混じる。
「今すぐここからーー」
その言葉の続きは紡がれなかった。
雷鳴が轟く。 次の瞬間、空が裂け、白い翼を生やした男が舞い降りた。
「見つけた!」
男が地面を蹴り、一直線に間合いを詰めてくる。
「照合完了――逸脱を確認。顕現せよ、《裁定》」
短い詠唱と共に、何もない空間から黄金の剣が現れた。
「我が愛剣にて、その御身、朽ち果てるが良い!」
――死ぬ。 咄嗟に、身体が動いた。
「観測開始――干渉を拒絶する」
口が勝手に呪文を紡ぎ、盾を出現させていた。
「貴様! なぜそいつを庇う!」
「裁きは然るべき場所で下すべきだ。身の程を弁えろ」
「裁きなど待っていられるか! 邪魔をするなら――」
白い翼の男が、こちらに向けて掌をかざした。
――殺される。
そう思った瞬間、オレの喉が勝手に震え出した。
自分の意思を無視して、おぞましいほど滑らかに言葉が溢れ出す。
「天は高き光るもの。神々のその行い、その災いを記録せし者」
「なっ、貴様……何を――」
驚愕に目を見開く男を余所に、オレの背後で巨大な魔法陣が展開された。
熱い。体が内側から焼き切れるような熱量。
「観測者達よ、集え。我が呼び声に応え、哀れな影を滅光せよ!」
「Schöpfung――Offenbare dich, Klinge der Abweichung!」
(創造――顕現せよ、異端の刃!)
詠唱と共に、何もない空間に白銀の刃が生まれた。
長剣より厚く、大剣より短い。 片手では重く、両手なら軽すぎる。
そんな歪な半手剣だった。 すぐさま、斬りかかる。
「――くっ!」
火花が散った。 剣が弾かれる。
短い応酬が続く。
「何の真似だ! そいつは敵だぞ!」
「敵か味方かなど関係ない。立場を弁えろ、エルディオン」
言ってから、息が止まった。
どうして、その名を知っている。
これは夢か、それとも――。
「……貴様、何者だ。その名、どこで……!」
白い翼の男が、憎悪を剥き出しにしてこちらを睨む。
その翼が激しく羽ばたき、衝撃波が世界を揺らした。
「答えろ!さもなくば、塵も残さず消し去ってくれるわ!」
白い翼が、空を裂いた。
「下界に降りろ!」
「……っ!」
そこで、世界が割れた。
「…..ハッ!」
オレは思わず飛び起きた。
――今のはなんだ? 悪い夢か?
手足が震える。
動悸が止まらない。
寝汗でベッドがべたつく。
目を閉じると、断片的には思い出せる。
でも、すぐさま記憶に靄がかかっていく。
(……エルディオン)
なぜか、その名前だけが、耳の奥にこびりついて離れなかった。
「ジェイドー!いつまで寝てるの!」
階段から姉ちゃんの足音が聞こえる。
オレは小さく息を吐いた。
勢いよく扉が開かれた。
差し込んだ朝の光に、髪が揺れる。
橙に近いその色は、父さんと同じだ。
寝癖を気にする様子もなく、 姉ちゃんは腕を組んでこちらを睨んでいた。
カーネル・レオンハルト。オレの姉だ。
「まだ寝てたの?」 呆れたような顔でそう言った。
オレはベッドの端に座ったまま肩を落とした。
「起きてる」
「いや、眠そうな顔で言われても説得力ないっての、バカジェイド」
「バカはないだろ!バカは!」
「はいはい、ねぼすけジェイドはまた悪い夢みてたんでちゅか〜?」
からかい混じりにそう言いながらカーテンを勢いよく開けた。
朝の陽光が、一気に部屋の中に流れ込む。
オレの気持ちとは裏腹に快晴模様だ。
眩しい。
思わず顔をしかめる。
「ほら、朝だよ、そんな浮かない顔しないの!
それで?今日はどんな夢だったの?」
姉ちゃんは玩具を見つけたと言わんばかりに、 面白そうに聞いてくる。
「覚えてない」
「覚えてないなんてことはないでしょうが。……あ、もしかして
エッチな夢でもみてた?」
「はあ!?ちげぇし!何わけわかんないこと言ってんだよ!」
「いやだってほら、寝汗凄いし、ベッドは汗でべちゃついてるしー
ジェイドも年頃か」
「だからちげぇって!憶測で物を語るなよ!」
「あんたそれどこで覚えてきたのよ?8歳の癖にぃ。いいからさっさと
着替えなよ。もう朝ごはん出来てるんだしさ」
姉ちゃんはそう言ってオレの頭をぽんと叩く。
足早に階段を駆け下りようとした。
「あっそうだ、あと5分で来なかったらーー」
意地悪そうな、にやけ顔で
「全部食べるからね」 ドタドタと階段を降りていく。
ひどい姉だ。朝からなんであんな元気なんだ?
「早く来なさいよ。まだー?」
1階から姉ちゃんの声が聞こえる。
「いまからいくよ」
騒がしい朝。
今日も忙しい一日が始まる。
足早に階段を駆け下りていく。
姉ちゃんに全部食われては敵わない。
焼きたての丸パンの香りが漂ってくる。
表面は軽く割れていて、まだ熱を残していた。
母さんが用意したのは、 軽く焼かれたベーコンと、半熟の目玉焼き。
それに、湯気の立つ薄いスープと、 切り分けられたチーズが並んでいた。
姉ちゃんは既に丸パンに齧りついていた。
「カーネル、もう食べてるの?」
台所の奥から、落ち着いた声がした。
ミレイユ・レオンハルト。
このパン屋『レオン』の店主で、オレたちの優しい母さんだ。
母さんは、エプロン姿のまま食卓にやってきた。
玉ねぎと芋の甘い香りが、ふわりと広がった。
「ジェイドも起きたのね」
オレを見るなり、柔らかく笑った。
「早く席に着きなさい。冷めないうちにね。 でも今日は早く起きれたのね」
母さんはテーブルに鍋を置いた。
オレは姉の隣の席に座って食べ始めた。
パンをちぎって口に運ぶ。
外は少し固くて、中は温かい。 噛むと、ほんのり甘い。
いつもの味だ。
今朝見た悪い夢は、この美味しい野菜のスープと一緒に飲み込んで しまおう。
「ジェイドが変な夢みたって」
「っ、けほっ……!」
むせて、慌てて水に手を伸ばす。
「夢?」
母さんは不思議そうな顔でそう聞いた。
「正直あんまり覚えてない」
「そう言う割には寝汗すごかったじゃん。やっぱりエッーー」
「うるさい!」
それ以上は言わせないとばかりに姉の言葉を遮る。
「ふふふ、夢ってね」
「心が疲れているとみるものよ」
母が優しい眼差しで、穏やかな声で
そっと近づき、抱きしめる。
「無理しちゃダメよ?」
「してない」
恥ずかしそうにそっぽ向く。
さっきまでの悪い夢は、
母の温もりと共に消え去っていく。
――それでも、あの名前だけが、喉の奥にひっかかったままだった。




