第三話 影の軍団
夜は、静かすぎた。
虫の音すら、どこか遠い。
「……遅いな」
小さく呟いた男は、火の揺れる灯りを見つめていた。
徳川家康。
その顔に、焦りはない。
だが――
静かすぎる夜が、逆に異様だった。
「何かが起きておる」
ぽつりと、そう言った。
側に控える家臣が顔を上げる。
「いかがなされましたか」
「胸騒ぎよ」
家康は目を細めた。
理由はない。
だが、戦場を生き抜いてきた勘が告げている。
――平穏ではない、と。
その時だった。
風が、ふっと止む。
次の瞬間、気配が一つ。
「誰だ」
家臣が刀に手をかける。
だが――
「抜くな」
家康の一言で、その手は止まった。
闇の中から、一人の影が現れる。
音もなく。
気配もなく。
「……伊賀か」
家康が低く言った。
影は、膝をつく。
「ご無事にございますか」
その声に、家康はわずかに目を細めた。
「半蔵の者か」
「は」
短い返答。
そして――
「火が上がりました」
家康の瞳が、わずかに動く。
「どこだ」
「本能寺にて」
一瞬の沈黙。
空気が、凍りつく。
「……誰が」
低く、重い声。
影は、迷わず答えた。
「明智光秀」
その名が落ちた瞬間、
夜の静けさが、音を立てて崩れた。
家臣がざわめく。
だが――
家康は動かない。
ただ、ゆっくりと目を閉じた。
「……そうか」
それだけだった。
取り乱しも、怒りもない。
だが次の一言は、はっきりしていた。
「ならば、次は我らよ」
影が、わずかに顔を上げる。
「敵は動いておるか」
「不明」
「数は」
「不明」
「位置は」
「不明」
家臣の顔に、不安が走る。
何も分からない。
それは、最も危険な状況。
だが――
家康は、静かに言った。
「よい」
その一言で、場が締まる。
「ならば動かぬ」
家臣たちが息を呑む。
「軽々しく動けば、首を差し出すだけ」
ゆっくりと立ち上がる。
「まずは、生き延びる」
その目には、確かな光があった。
「半蔵に伝えよ」
「は」
「影を集めよ。すべてだ」
影は、深く頭を下げる。
そして、闇へと消えた。
家康は、ただ一人、夜空を見上げる。
見えぬ京の方角。
そこに、すでに火が上がっていることを知りながら。
「……信長公」
小さく呟く。
そして、目を閉じた。
この夜を越えねば、すべてが終わる。




