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17.宝玉


 静かな夜だった。ことりとも音が聞こえない。奏園そのものが眠りに落ちでもしたような、未明の湖のような重さを感じた。燭台の炎も、水面のように揺れている。それでいて肌に感じられる風はない。静かだ。


「千璃。決めたんだね」

「はい」


 久蒔の顔に笑みはなかった。いつもと変わらぬ厳しい声音。千璃は畳に両手をつく。教えられた、正しい作法に則って。


「今まで、長いあいだ……」


 言葉に詰まった。涙が落ちた。

 ぐっと、それを堪えた。


「お世話になりました……」


 目を閉じ、深く頭を下げた。けれどにじんで見えた自分の手に、自らの成長を知る。久蒔に抱かれて、この奏園に来た。大きくなったのだ。大きくなってしまった、と思う。


 もう声にはならない。戻れるものなら、と思わないわけではない。出て行くことを決めたのは自分の意思であっても、哀しみがそれで消えるわけではない。


 しばらくは戦わなくてはならないだろう。どうにもならない寂しさや、やはり選択を迷う気持ちと。後悔もするだろうと思う。覚悟はしたつもりでいても、すべてを拭えるとは思えない。


 覚悟が足りないということかもしれない。けれど千璃はむしろその気持ちを大切にしたいとも思った。この園を愛しく思う、その証のように、懐かしさに震えたいと。


 千璃はもう一度、胸で唱えた。


 お世話になりました。おかあさん。



 華美ではないが花やかだ。淡紅と白端の袿衣には花刺繍、散らされた小花が可愛らしく、千璃の雰囲気によく合っていた。


 滑やかに軽く、手触りが知らぬほどに良い。恐れ多い借り着をしているようで、汚しては大事と触れられない。千璃の手が袖から出てこないのはその為だ。車に乗ってからまだ一度も、指一本も出していない。


 目は衣装にも眩むが、髪のせいでもあった。奏園の暮らしでは、小さな子どもも自分の手で髪を結う。髪には霊力が宿るとされるため短く切ることは許されず、結い方も作法の内である。


 他人の手に引っ張られ、さらに慣れない形に結い上げられた頭が重い。すぐに馴染みますと言われていたが、奇妙な感覚は強かった。

 気持ちの問題でもあるが、簪の数や大きさも未知なのだから当然、意識していないと均衡を崩して前や後ろに倒れてしまいそうだ。


 知らなくて幸い、白群細石を用いた細工櫛は国の宝品だ。知れば千璃は確実に、その重みに倒れたことだろう。


 前に座った遼灯も、これまでとは異なる装いである。礼装だ。深藍の衣は色味に曇りの一点もなく、細やかに作られたものだと知れる。


 藍は濃ければ濃いほどに貴い色。王配下に列なる者とそれで知れる。知らずに見れば、凛とした有り難い空師さまだ。


 しかし態度はなんら変わらず、今向かいに座る姿勢もだらしない。それでも馬車に乗るまでは真面目な顔で型通りの言動をしていた。奏園の娘たちは憧れの眼差しを向けたに違いない。


 けれど同行した女官たちの中には可笑しそうに口元を隠す者もいた。城での有様が覗える。つまりはあんななのだろう。


 その空師さまが衿を開きながら呟く。


「俺、叱られたよ」

「叱られたって……昂鷲さまに?」


 久しぶりに出す声だったので擦れていた。千璃は小さく咳をする。早暁から起きて動いていたのに、昼になろうとする今までろくに口をきいていない。


 今日、奏園では異例なことに、暁刻の鐘と同時に大門が開かれた。王城から遣わされた女官たちを迎え入れるためだ。

 それに夏庭をはじめとする奏園の女人たちが加わり、共に千璃を飾り立てた。女官の携えてきた衣装と飾からより似合うものを選び出すことに、それに化粧と髪型にも、侃侃諤諤。


 賑々しい大騒動だった。


 遼灯はゆるゆると仕度半ばの頃に登場した。間に入ってこようとしたところを女官に追い立てられた後、別間で眠っていたらしい。


 出発が整い、再び登場したとき、着衣はそうとしか思えない乱れ方をしていた。これまた女官にせき立てられ、寄って集って直される。いかにも、と嫌そうな顔を見せ、それに千璃は今日初めて笑った。耳に瑚珠を揺らして。


「俺ばっか千璃に会っていたからさ。まったく子供かよっての」

「でも、今日だって……」


 王の命で迎えの一行に加わっているのではないのか、との問いは、口に出す前に答えが返った。遼灯は歯を見せて笑い、


「俺が居たほうが千璃が安心だろう? と思えば出さずにいられるかい。嫉妬は奥歯で噛み締めつつも」


 嫉妬? 聞いて、千璃は俯いた。遼灯は当たり前のように口にするが、それは捉え切れない言葉だ。


 今初めて、あの書をしたためたときの昂鷲の感情を思っていた。なにを思い、筆をとったのか。書状はわずかな荷物と一緒に行李の中にある。今ここで広げて確かめたいような、放り投げて逃げ出したいような気持ちになった。遠くへ遠くへ。


 なにを、と問われたら困る。

 なにか、わからないものが怖いのだ。


「遼灯は」

「うん?」


「遼灯は、お会いするときにも一緒にいてくれるんでしょう?」

「んな可愛いこと言われたと知られたら、俺、城を追放かもー」


「遼灯」


「居てやる。あいつの顔も見たいんだ。はてさてどんな――あぁ、そうだ。誤解のないよう念押しだけど、助けた恩を返せとかって意味で千璃を呼んでるんじゃないよ。昂鷲はそんな奴じゃない」


 千璃は首を傾げて考えて、


「そんなこともある、のね? でも違うのね?」


「全然考えてなかったんだな。千璃は面白い。本当に面白いや。まぁ頑張れ。怯むなよ。そんな必要はこれっぱかしもないんだからな。王だからって偉いもんでもない。迷惑千万くらい言ってやれ」


 王だから偉い、と思っていたのだが違うらしい。遼灯がひっくり返すものは、これまで千璃が常識としていたものだ。思い込み信じていたものは、ほかにも違ってくるかもしれない。


 鷹揚な方。琉衣の言葉。


 官位のない年若の空師にまで、その御名を呼ばせて厭わない。どころか勝手を言わせて構わない。


 それは自分がかつて知っていた昂鷲の姿と同じものだと――拾った子どもと気安くたわむれるそれと――思い、千璃は小さく息をついた。蝋燭に火を点したように、ぽうと胸があたたかくなる。少し、安心した。


「城はもうすぐ先だ」


 座っていても傾斜を感じる。馬車は坂道を進んでいた。


「ま、きれーなとこだな。見ておく価値はある」


 遼灯は上機嫌で、ずいぶんと軽くそう言った。 

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