10
「……今日子先生って?」
蒼佑は巧を見る。
「渡辺今日子。美術の先生。知らないのか?」
津山が吐き捨てるように告げる。
「俺の、ねーちゃん。蒼佑と津山さんが行ってた高校の美術教師」
「渡辺……。え? 古澤……だろ?」
蒼佑は巧から目が逸らせなかった。
「忘れたのか。うち、離婚してるから」
そう言った巧は、まっすぐに津山を見た。
「なるほどなー。黒幕は、お前か。今日子先生に、俺と同い年の弟がいるとは聞いてたけどな。まさか、こんなところで出てくるとはね」
ドサリ、と津山がソファーに座る。
「黒幕?」
蒼佑の言葉に、ハッ、と津山が笑う。
「黒幕だろ? 笠井と間島の婚約を解消させた、黒幕」
「え?」
蒼佑の視線が彷徨う。だが、蒼佑は首を横にふった。
「違う。麻子との婚約破棄を決めたのは、僕だ。巧は関係ない」
きっぱりと告げる蒼佑を、津山が胡乱な目で見る。
「そうかな? じゃあ、どうして、このタイミングで、こいつが俺の目の前に出てくるんだろうな?」
「それは、……渡辺先生の盗作の噂は嘘だって……証拠が見つかったから」
蒼佑の言葉に、津山が首を横にふる。
「今日子先生の盗作の噂が嘘だから、だから、どうしたんだ? 噂は噂だろ。それが真実か真実じゃないかは、聞く人が思うことだろ」
津山の呆れたような声に、巧の視線が鋭くなる。巧のそんな表情を見た記憶がなくて、蒼佑は息をのむ。
「噂で人が殺せるって、自分が良く知ってるだろ」
だが、津山はおかしそうに笑う。
「噂で人を殺したって、罪にでも問われるのかよ?」
「名誉棄損で訴えることはできる」
巧は津山をじっと見たまま目を逸らさない。
「おお、コワ!」
津山がふざけたように肩をすくめる。
「でもな、残念ながら、噂を流したって、証拠はないだろ? それに、盗作じゃないって証拠? どうやって証明するんだ?」
津山の言葉に、蒼佑は拳を握り込んだ。感情が高ぶる蒼佑とは反対に、巧の表情は淡々としているように見えた。
巧はリュックからパソコンを取り出す。
「北原さんの絵と、ねーちゃんの絵。どちらも展覧会で入賞した、尾道水道を描いた絵だ」
美和の絵と渡辺先生の絵が、並べられていた。確かにどちらも尾道水道を描いた構図だった。
「よく、似てるよなー。コレのどこが、盗作じゃないって?」
「どう見たって、絵のタッチが違うだろ」
巧の声が強まる。
「まー、それは描く人によって違うだろうしね。でも、北原さんの構図を盗んだんだったら、盗作で間違いないんじゃないかな」
「構図も、違う」
きっぱりと巧が告げる。
「どこがだよ」
「北原さんの構図は、共楽園から見た構図だ。ねーちゃんの構図は、千光寺公園から見た構図だ。それに、構図が似る絵があったとしても、風景画だ。盗作とは言えないだろ」
巧が2枚の写真を並べる。蒼佑は、あの時撮った写真を思い出した。
「なるほどねー。確かに、視点がちがうね。絵画だと、絵のタッチとか描線とかでわかりにくくなるよね。で、盗作じゃなかったから、何?」
津山が首を傾げる。その反応は、蒼佑が想像した通りだった。
「噂を流したこと、認めないのか?」
蒼佑は体を乗り出す。
「間島、おかしなこと言うなよ。今、証明されたのは今日子先生の絵が盗作じゃなかったってことだけだ。俺が噂を流した証拠なんて、どこにもないし、そもそも俺は、そんな噂流してない」
飄々と告げる津山は、真実を告げているかいないのか、蒼佑には全く分からなかった。
「……流したのは、麻子さんだもんな」
巧の言葉に、津山がピクリと揺れる。
「どこに証拠があるんだよ、って」
「ここに」
津山の声を遮って、巧がボイスレコーダーを出した。
「何だよ、これ」
津山が巧をギロリと睨む。
「麻子さんが、教えてくれたこと?」
咄嗟にボイスレコーダーを掴もうとした津山の手をかすめるように、巧がボイスレコーダーを掴む。
「麻子が、何を?」
蒼佑が巧を見る。
「懺悔、かな」
「だから、笠原……一体、何言って脅したんだよ」
津山が身を乗り出す。巧は首を振った。
「俺は何も言ってない。ただ、蒼佑とのことをとりなしてほしいって言うから、何があったのか聞いただけだよ。長年秘密を持ち続けるのもしんどいよね、って俺は言っただけだよ。お酒も入ってたからだろうね。ねーちゃんの噂の事だけじゃなくて、北原さんの噂のことも話してくれた。勿論、津山さんが美大の推薦貰うために、北原さんを引きずり下ろしたかったんだって話も、入ってるよ。麻子さんは、あんな大事になるとは思ってなかったって言ってたけど……まあ、正直それが本当かどうかはどうでもいいんだけどね」
「とりなす?! お前、とりなすつもなんて、ないだろ?!」
「いいや。さっきも蒼佑に聞いたよ? 本当に麻子さんと別れるのか。ね」
「……ああ」
蒼佑は巧に問いかけられて、頷く。確かに、そんな会話は存在していた。
「だって、お前は俺たちの事恨んでるんだろ!?」
津山の声に、巧が首を振る。
「恨んでるんなら、もっと他の方法を取るよ。俺はただ、真実が知りたかったんだ。ねーちゃんが、盗作してないって証拠をずっと集めてた。今回、ようやくそれが揃ったんだ。それと……津山さんと取引できる立場になりたかった」
津山が目を細める。
「脅しかよ」
「違うよ。お願いだ。対等な立場じゃないと、津山さんはお願いなんて聞いてくれもしないだろ?」
「脅しだろ、それ」
「違う。俺のお願いを聞いてもらいたいだけだ」
「知るかよ」
津山は顔を背ける。
「ねーちゃんの写真を、今後一切使わないでくれ」
巧の言葉に、津山が顔をしかめる。
「そんなん聞けるかよ。あれは、初期の代表作だ」
「だとしても。お願いだ」
「知るか。聞く義理はないだろ」
津山が立ち上がる。
「津山、お前、悪いと思わないのかよ」
蒼佑も立ち上がった。
津山が皮肉気に笑う。
「間島も、お人好しだな。お前、こいつに使われてたんだぞ。怒った方が良いんじゃないか?」
「津山にそんなこと言う資格はないだろ。僕は……巧に使われたわけじゃない」
蒼佑は目を伏せた。
「ま、せいぜい、お友達ごっこでもしとくんだな。……俺は、何も悪くない。訴えられるような証拠もない。……せいぜい、まことしやかに噂されてるだけだ。噂なんて、気にした方が負けだよ」
背を向けて歩き出す津山に、蒼佑はぎゅっと握りしめた拳を震わせた。
「蒼佑」
静かな巧の声に、蒼佑はソファーに座った。
「悪い。ずっと言わなくて」
巧が俯く。
「どうして、嘘ついてたんだ?」
蒼佑の言葉に、巧がハッと顔を上げる。
「俺がついた嘘は……ほとんどない」
「でも、渡辺先生の弟だってことも、何も、僕には教えてくれなかった」
蒼佑は唇を噛む。巧が首を横にふる。
「俺は、言わなかっただけだ。嘘は、ついてない……。俺が付いた一番の嘘は……蒼佑のバイト先を選んだのが、偶然じゃないってことだけだ」
「どういうこと?」
「北原さんの絵を、見たことがあるんだ」
巧が蒼佑を見る。蒼佑は話の繋がりが分からなくて、首を傾げる。
「北原の絵? ……展覧会とかで?」
蒼佑の問いかけに、巧は首を振った。
「ねーちゃんが、北原さんのデッサン練習をしているスケッチブックを持ち帰ってきたことがあって」
「……巧、その時、どこに住んでたんだ?」
「三原。ねーちゃんは、実家から尾道の高校に通ってたから」
一度も、巧から広島に住んでいたことがあると聞いたことがなかった。蒼佑の心が沈む。
「そうか……それで?」
「石膏像のデッサンをしてたらしいんだけど、後ろの方に、人のデッサンがあって、ねーちゃんがあれ、って言うから、覗きこんだら……蒼佑が描いてあったんだ」
蒼佑はハッとする。
「え?」
「間違いなく、蒼佑だった」
巧の真っ直ぐな視線が、蒼佑を射抜く。
「何枚も、何枚も、蒼佑が描かれてた。生き生きしてた。『この絵描いてる人すごいね』って俺口にしてた」
なぜか、巧が涙ぐむ。
「何で……泣くんだよ」
「ねーちゃんが言ったんだよ『でしょ、北原さん、私の自慢の生徒なの』って。『美大の推薦も間違いないし、立派に画家になってもらって、恩師ですって紹介してもらうんだー』って笑ってたのに」
鼻をすすった巧が、涙をぬぐうと息を吐く。
「そんなねーちゃんが、北原さんを貶めるような噂流すわけないって。ねーちゃんが盗作なんてするわけないって、ずっと思ってた。北原さんが自殺する前から、ねーちゃんどんどん追い込まれて行って……北原さんが自殺してからは、ご飯も食べられなくなって……」
蒼佑が首を横にふる。
「巧はどうして、リアルタイムに北原の噂とか耳にしたんだ? 三原と尾道じゃ……距離はあるだろ?」
「距離があるって言っても、普通に通える距離だ。それに、同級生の何人かが、同じ学校に通ってたんだよ」
蒼佑はギクリとする。
「……巧たち、三原に居られなくなったのか?」
巧がコクリと頷く。
「ねーちゃんが自殺した後……お袋が耐えられなくなって。両親が離婚することにもなったし……俺とお袋は、東京に」
「そうか……」
「それで、大学生になってから、たまたま……バイトしてる蒼佑を見かけた。あの絵のやつだって、すぐに分かった」
「よく……わかったな」
「北原さんが、それだけ生き生きと描いてたってことだろ。蒼佑を見付けたのは偶然だった。だけど、蒼佑の近くに居たら、ねーちゃんの無実が証明できる何かが見つけられるかもしれないって思ったのは事実だった。だから、蒼佑と同じところでバイトを始めた」
蒼佑は複雑な気分で俯く。
「でも、1回も北原のこと、聞いてきたことないよね?」
巧との付き合いはもう7年になる。だが、尾道に行く前日まで、巧から北原のことを聞かれた記憶は一度もなかった。
「自殺した相手のこと、聞きたいって言われたくはないだろ? ……もし、蒼佑が口にしたら、聞こうとは思ってたけど。……それに、まさか自殺したのを知らないとも、思ってなかったけど」
「だけど、7年だ」
責めるような蒼佑の言葉に、巧がさみしそうに首を横にふる。
「俺がついた最大の嘘は、バイト先を選んだのが偶然じゃないってことだけだ。……蒼佑と友達になったのは、嘘じゃない」
蒼佑は唇を噛んだ。巧はじっと蒼佑を見た。
「確かに、今回、俺は自分が知りたいことのために、本当の目的を言わずに、蒼佑を巻き込んだ。でも、それで麻子さんと蒼佑の関係がどうなるとか、そんなことを考えてるわけじゃなかった。俺は、噂の影の麻子さんの存在には、気付いてなかったから。……ただ、津山と取引する情報が欲しかっただけだった」
蒼佑は、巧の言葉に嘘があるようには思えなくて、頷く。
「ああ」
「俺は、あの写真を人目に触れさせたくないだけなんだ……」
巧が顔を覆った。
「確かに、教育者としてねーちゃんがしたことは間違ってる。でも……あんな風にずっと人目にさらされるほど、悪いことをしたわけじゃない」
「あれは……芸術だから……モデルのことを見てるわけじゃないよ」
蒼佑だって、それが慰めにはならないと分かっている。だが、何か声を掛けたかった。
巧が細かく首を振る。
「あの噂を知ってる人間たちは、あの写真を見るたびに噂を思い出すんだ」
蒼佑は、掛ける言葉が思いつかなかった。あの時の中山の言葉を思い出す。当事者ではない人間にとっては、噂は噂でしかない。そして、あの写真は、それを思い出すトリガーになる。
巧がただ、あの写真を二度と使わないで欲しいと願った気持ちが、ようやく蒼佑は理解できた。
蒼佑だって、北原のあの噂を知っている人間から、全て消し去ることが出来るなら、消し去ってしまいたい。あれが真実ではないと証明したところで、噂が完全に消えるわけではないこともよくわかっている。
それでも、あの噂をなかったことにしたい。
それが、身内だとしたら、尚更だろう。
巧がパソコンを片付ける。
蒼佑は、掛ける言葉を思いつかない。新たに知らされた新しい情報が、まだ消化できてはいなかった。
巧が立ち上がる。
「蒼佑、津山さんとの時間作ってくれて、ありがとう」
巧の表情は、思いの他穏やかだった。
「いや……僕だって……津山に言いたいことがあったから」
「ごめんな。色々、言えずにいて。ねーちゃんの無実を信じてるって言いながら、信じ切れてなかったのは、俺だったのかもしれない。だから、ずっと言えずにいたのかも」
「いや、そんな……」
蒼佑が口を開くと、巧が首を横にふった。
「蒼佑が何を信じるかは、蒼佑が決めることだから。……気が向いたら、連絡して」
蒼佑はすぐに返事が出来なかった。揺らぐ気持ちに、蒼佑自身が戸惑っていた。
「誰が何と言おうと、俺は、北原さんが蒼佑を好きだったっていうのは……本当なんだって思ってる。あの絵には、気持ちがこもってたから」
巧はニコリと笑うと手を挙げて、足早に去って行った。
呆然と巧を見送った蒼佑は、巧がホテルを出た瞬間我に返った。
だけど、追いかけることは、できなかった。
*
ロープウェイを降りると、蒼佑は目の前に現れた造形物に目を瞬かせる。
階段が螺旋のようにゆるりと一回りした上に、細長い通路のようなものが横たわっている。そこには、背を向けた人たちが並んでいた。
奥には、尾道水道が見えるはずだ。
どうやら、蒼佑の知っている展望台は建て替えられたらしい。
蒼佑の記憶にある千光寺公園とは結び付かない造形の展望台に、ロープウェイから吐き出された人々が吸い込まれていく。蒼佑もその中に紛れ込む。
「うわー」
周りから漏れ出る声は、蒼佑には響かなかった。
真夏の景色ではなく初夏である違いがあるとはいえ、去年見た尾道の町並みも尾道水道も変わらないはずなのに、蒼佑の心は平坦なままだ。
新しい展望台から見える景色は、蒼佑の知っている景色とは違うからかもしれない。
いや、あの事実を知ってしまったから、美和の命日だから、違うように見えるのかもしれなかった。
蒼佑は目を伏せる。梅雨の晴れ間の光は、今の蒼佑には眩しすぎた。
その足でたどり着いた共楽園から見える景色に、蒼佑は力なくベンチに座り込んだ。
目の前に広がる緑と尾道水道が滲んでいく。
涼しい風が頬を撫でた。
すん、と鼻をすすると、いつの間にか、汗ばむような日差しは和らぎ、空の青にオレンジが差し込んでいた。
大きく息を吸い込むと、緑と微かに潮の匂いがした。
尾道水道が、柔らかな色を混ぜて、穏やかに揺らいでいる。船が白い波を立てていく。
共楽園に流れる緩やかな空気は、昔、美和と並んでいた時のままだった。
じわりとまた潤む目元を、蒼佑は手の甲で拭う。
その前に、右側からハンカチが差し出される。
蒼佑は弾かれたように顔を上げた。その目が見開く。そこには、困ったような顔の巧が立っていた。
「どうして」
蒼佑の声が掠れる。あれ以降、巧には連絡できていなかった。
巧がハッと手を左右に振る。
「着いてきたわけじゃなくて! 今日ここに来てるかと思って……心配で」
蒼佑の真っ直ぐな視線に、巧の声が尻すぼみになる。
「悪い。一人になりたいよな」
巧が慌てたように踵を返す。蒼佑は、咄嗟にベンチから立ち上がった。
「巧」
巧の足が止まり、ぎこちなく蒼佑に向く。その顔は、緊張していた。
「酒、付き合ってくれるか?」
蒼佑の震える声が、遠い汽笛に重なった。
完
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
三谷作品には珍しいトーンの作品だったので、驚いた方もいたかもしれません。
何度も何度も手を入れた作品で、思い入れがある作品なので、楽しんでいただければ幸いです。




