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第六話 名前の先

朝の新聞社は、夜とは違う忙しさがある。


届いたばかりの新聞を広げる者。

電話をしながらメモを取る者。

昨日の取材先に確認の電話を入れる者。


そんな中で、玲は自分の席に座りながら、昨日のことを思い出していた。


佐伯恒一。


ミナが新人時代に世話になった記者。


そして、何年も前に殺された記者。


玲はふと、向かいの席に座っているミナへ声をかけた。


「先輩」


「ん?」


「佐伯さんが見つかったのって、飲み屋街のところでしたよね?」


ミナは手元の資料から顔を上げた。


「そうだね」


「朝だったんですよね?」


「そうだよ」


「飲み屋街って、朝だと結構静かそうですけど」


「場所によるかな」


ミナは少し考えるようにしてから続けた。


「朝まで飲んでる人もいるし、店を閉めた人たちもいる。昼間の街とは違って、妙に人が残ってることもあるんだよ」


「なるほど」


玲は頷いた。


「そのとき、人が集まってたんですよね?」


「そう。最初は何かあったのかなって思った」


「それで見に行った」


「うん」


ミナは少しだけ笑った。


「佐伯さんに教わったことを思い出したんだよ」


「人の集まるところにはネタがある、ですか?」


「そう、それ」


玲も笑った。


「記者としては、なかなか染みつく言葉ですね」


「本当にね」


ミナはそう言って、少し遠くを見るような目をした。


「佐伯さん、そういうことばっかり言ってたから」


「……いい先輩だったんですね」


「うん」


短い返事だった。


それ以上は聞かず、玲は自分の仕事へ戻った。


***


その日の午前中。


玲は別の取材のため、小さな電気屋へ向かっていた。


取材内容は、近々閉店する店についてだった。


その理由や、周辺の店への影響などを聞いて回るだけの、特別珍しくもない仕事だ。


「最近は客が減ったね」


「若い人も来なくなったからな」


店主たちの話を聞きながら、玲はメモを取っていく。


売上。

客層。

営業時間。

近隣店舗との関係。


一通り話を聞き終えたところで、最後に話をした店主が何気なく言った。


「まあ、この辺はまだマシだよ。あっちの連中なんか、もっと大変だから」


「あっち?」


「飲み屋街のほう」


玲が顔を上げる。


「何かあるんですか?」


「いや、最近ちょっと揉め事があったって聞いただけだよ」


「揉め事?」


「ああ。坂本って奴が――」


その名前を聞いた瞬間。


玲のペンが止まった。


「……坂本?」


「知り合いかい?」


「いえ」


玲はすぐに笑った。


「ただ、聞いたことがある名前だったので」


――坂本。


以前、店の客同士の喧嘩の取材をしていた際に聞いた名前。


新聞社に入ったばかりの頃、記事を書くために調べた人物の名前だった。


あのときは、それ以上の情報を追う必要がなかった。


けれど。


今は少し違う。


「その坂本っていう人、何をしてる人なんですか?」


「さあ。俺も詳しくは知らないよ」


「そうですか」


玲はそれ以上深く聞かなかった。


取材を終え、新聞社へ戻る。


自分の席に着くと、玲はパソコンを開いた。


検索欄に文字を打ち込む。


坂本。


いくつかの情報が出てくる。


だが、どれも断片的だった。


名前だけ。

噂だけ。

小さな事件の記事。

曖昧な証言。


それでも、玲は画面を閉じなかった。


情報が少ないということ自体が、情報だった。


「……黒田さん」


少し離れたところで仕事をしていた黒田に声をかける。


「ん?」


「坂本って人を調べてるんですけど、情報がないんです」


黒田は一瞬だけ考えた。


「それで?」


「詳しく知りたいんですけど」


「お前、また妙なところに食いつくな」


「気になったので」


黒田は玲の顔を見る。


それから、小さく息を吐いた。


「俺も詳しくは知らん」


「黒田さんでも?」


「だから言ってるだろ」


黒田は椅子から立ち上がった。


「ただな」


「はい」


「こういう奴の情報が表に出てこないってことは、裏の可能性はある」


「裏?」


「そうだ」


黒田は少し考えてから言った。


「……ちょっとついて来い」


「どこへ?」


「情報を持ってる奴に会わせる」


***


連れてこられたのは、新聞社から少し離れた古い建物だった。


その一室。


男が一人、机に座っている。


警察官のような服装ではない。


だが、机の上に置かれた警察手帳を見れば、何者なのかはすぐに分かった。


「榊原俊明」


黒田が紹介する。


「ビリオン都市警察署の警部補だ」


男は玲を見る。


年齢は四十代。


鋭い目をしている。


ただ、その目つきには荒々しさがない。


相手が何者なのかを測るような、冷静な目だった。


「記者か」


「はい。天城玲です」


「それで?」


榊原は短く言った。


「何を知りたい?」


玲は少しだけ間を置いた。


「坂本という男について」


榊原の眉がわずかに動いた。


「……坂本?」


「はい」


「情報が欲しいなら、金だ」


あまりにも即答だった。


玲は少し驚いたように瞬きをする。


黒田は慣れた様子で壁にもたれていた。


「こいつはこういう奴だ」


「いくらですか?」


「内容による」


榊原は指を一本立てた。


「名前だけなら安い」


二本目。


「所属までなら、それなり」


三本目。


「過去の事件や周辺人物まで含めるなら、もっと高い」


玲は少し考えた。


「全部ください」


「……全部?」


「知ってることを、全部」


榊原は玲をじっと見た。


そして、わずかに口元を上げる。


「記者ってのは欲張りだな」


「仕事なので」


「そうか」


榊原は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。


「坂本。三十代前半」


紙に視線を落としながら話す。


「三大ギャングの一つ、その傘下にあるチーム『黒鴉』の下っ端だ」


「下っ端……」


「そう。幹部でもなければ、名前が知られてるような奴でもない」


榊原は淡々と続ける。


「仕事はチームの雑用が中心。集金、見張り、揉め事の後始末。必要なら脅しもやる」


玲は黙って聞いていた。


「過去にも何度か問題を起こしてる。喧嘩、恐喝、傷害。大きな事件にはなってない」


「最近は?」


「少し前から姿を見せないことが増えてる」


玲のペンが止まった。


「……姿を見せない?」


「ああ」


「どのくらいですか?」


「正確には分からん。だが、以前よくいた場所には、しばらく来てない」


「どこですか?」


「飲み屋街の裏手。それと、古い倉庫街」


玲はその二つをメモした。


「決まった住居は?」


「あるにはある。ただ、最近そこにも戻ってないらしい」


「家族は?」


「いない」


榊原は紙をめくった。


「それから、坂本には一人、よくつるんでいた男がいる」


「名前は?」


「必要か?」


「お願いします」


「田辺」


玲はメモを取る。


「田辺も似たような小物だ」


「坂本との関係は?」


「昔からの知り合い。最近は少し揉めていたらしい」


「原因は?」


「金だ」


榊原は即答した。


「まあ、珍しくない話だ」


玲は書いた文字を見返す。


坂本。


三大ギャング傘下のチーム。


下っ端。


過去の小さな事件。


飲み屋街。


倉庫街。


田辺。


そして、姿を消した。


「……どうして姿を消したんですか?」


玲が聞く。


榊原は少し考えた。


「さあな」


「分からない?」


「そこまでは俺も知らん」


榊原はあっさり言った。


「行方が分からなくなったって話は聞いてる。だが、理由までは調べてない」


「そうですか」


「そこまで知りたいなら、自分で調べろ」


「なるほど」


玲は頷いた。


「田辺さんなら、何か知ってるかもしれませんね」


榊原が少しだけ玲を見る。


「かもしれんな」


「田辺さんが最近どこにいるかは?」


「それも情報料だ」


「……まだ取るんですか?」


「当然だろ」


黒田が横から口を挟む。


「だから言っただろ。こいつは金になるなら何でも売る」


榊原は否定しなかった。


「俺だって商売なんだ」


玲は少し笑った。


「じゃあ、田辺の居場所を」


「分かった」


榊原は新しい紙を取り出した。


その後も玲は、必要な情報を一つずつ買っていった。


聞くべきことを聞き。

必要のないことは聞かない。


榊原が話した内容は、その場で頭の中に整理されていく。


田辺が最近出入りしている場所。


坂本と最後に一緒にいた時期。


坂本がよく使っていた店。


倉庫街での目撃情報。


そして、最後に坂本を見た人物。


玲は一つ一つをメモしながら、同時に頭の中でつなげていった。


「ありがとうございました」


「また金を持って来い」


「分かりました」


「金がなければ、情報もない」


「覚えておきます」


玲は立ち上がった。


***


帰り道。


黒田と並んで歩きながら、玲はさっき聞いた話を頭の中で整理していた。


坂本。


三大ギャング傘下のチーム『黒鴉』。


下っ端。


過去の小さな事件。


田辺。


飲み屋街。


倉庫街。


そして、現在の行方。


「どうだった?」


黒田が聞く。


「かなり参考になりました」


「だろ?」


「榊原さんって、ああいう情報をよく売ってるんですか?」


「金になるならな」


「なるほど」


玲は前を向いた。


だが、頭の中には一つの疑問が残っていた。


坂本は、少し前まで飲み屋街に出入りしていた。


倉庫街にもいた。


田辺ともつるんでいた。


それなのに、ある時期から急に姿を消した。


住居にも戻らない。


決まった場所にも現れない。


それは、単純に逃げたということなのだろうか。


何かを恐れているのか。


誰かに追われているのか。


それとも――。


「……」


玲は足を止めなかった。


まだ、何も分からない。


だからこそ。


調べる価値がある。


新聞記者にとって、分からないことは邪魔ではない。


むしろ。


そこから先に、記事になるものがある。


玲はポケットの中のメモ帳を指でなぞった。


坂本。


その名前は、もう以前とは違って見えていた。


ただの名前ではない。


一人の人間としての輪郭が、少しずつ見えてきている。


そして、その輪郭の向こう側には。


まだ、何かが隠れている。


玲はそれを確かめるために、明日から少しずつ動くことにした。


――坂本は、なぜ消えたのか。


その答えを。


「黒田さん」


「なんだ?」


「この件、記事になりますかね」


黒田は少しだけ玲を見る。


「記事になると思ったなら、追えばいいだろ」


「……そうですね」


玲は少し笑った。

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