第五話 過去の記事
翌朝。
玲は、いつもより少し早く新聞社に着いた。
昨日の夜に読んだ記事のことが、まだ頭に残っていた。
古い殺人事件の記事。
現場の様子が妙に細かく書かれていた。
文章だけなのに、その場に立っているような感覚があった。
どうして、あんな記事が書けたのか。
それが、気になっていた。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
「玲くん、昨日の原稿もう出した?」
「はい。朝一で提出しました」
「ならいいや。今日も頑張ってね」
朝の新聞社は、昨日と変わらない。
電話の音。
キーボードを叩く音。
誰かが資料を探す音。
記者たちは、それぞれの仕事に追われている。
玲も自分の席に座ったものの、しばらくパソコンを開かなかった。
視線だけが、昨日読んだ記事の文章を追っている。
――あの記事を書いたのは、誰だったんだろう。
玲は立ち上がった。
少し離れた席で、黒田が資料を整理している。
「黒田さん」
「ん?」
「ちょっといいですか?」
玲は昨日読んだ記事を持ってきた。
「昨日読んでた昔の記事なんですけど……」
黒田が紙面を見る。
「ああ、これ?」
「はい。この記事を書いた人って誰ですか?」
黒田は記事の隅にある署名を確認して、それから玲を見る。
「ああ、ミナだよ」
「……ミナ先輩が?」
玲の声が少しだけ大きくなった。
黒田は不思議そうに眉を上げる。
「なんだ、知らなかったのか?」
「はい。昨日初めて読んだので」
「まあ、結構昔の記事だからな」
黒田は紙面を玲に返した。
「ミナが新人の頃に書いた記事だよ。あの記事で一気に名前が知られるようになったんじゃなかったかな」
「そうだったんですか……」
玲はもう一度、記事を見る。
昨日とは違う意味で興味が湧いてきた。
「ありがとうございます」
「おう」
玲は紙面を持ったまま、ミナの席へ向かった。
◇
「先輩」
「ん?」
ミナはパソコンから顔を上げた。
「昨日、先輩が書いた昔の記事を読んだんです」
「……ああ」
ミナの表情が、一瞬だけ止まった。
「あの記事を読んだの?」
「はい。すごく詳しく書かれてました」
「そう」
「現場のことまで、かなり細かく」
玲がそう言うと、ミナは少しだけ考えるように視線を落とした。
「……記事のこと知りたい?」
「はい」
「そう」
ミナは椅子の背もたれに体を預けた。
「殺されたのは佐伯恒一、私が新人だった頃に教育係をしてくれてた先輩よ」
玲は少しだけ驚いた。
「どんな人だったんですか?」
「厳しい人だったわ」
ミナは少し笑った。
「でも、教え方は上手かった。新人だった私にも、いろんなことを教えてくれた」
「いろんなこと……」
「取材の仕方とか、記事の書き方とか。何を見ればいいのか、とかね」
ミナは机の上に置かれていた資料を眺めた。
「その中で、よく言ってたのが――」
少しだけ間を置いて、
「『人の集まるところにはネタがある』」
その言葉は、今もミナの中に残っている。
「ある日ね」
ミナが話を続けた。
「会社へ向かって歩いてたの」
◇
その頃のミナは、まだ新人だった。
仕事にも慣れていない。
毎朝、先輩の後ろをついて回って、取材の仕方を覚えていた。
その日も、いつも通り会社へ向かっていた。
途中。
少し先に、人が集まっているのが見えた。
「……何かしら」
足を止める。
人だかり。
その光景を見た瞬間、先輩の声が頭に浮かんだ。
――人の集まるところにはネタがある。
新人だったミナは、その言葉を思い出して、人の集まる方へ歩いていった。
一人。
また一人。
人の隙間を抜けていく。
そして――
そこに、先輩が倒れていた。
動かなかった。
周囲には、人の声がいくつも重なっていた。
誰かが警察を呼んでいる。
誰かが立ち尽くしている。
誰かが小さな声で「殺人だ」と呟いていた。
ミナは、ただ先輩を見ていた。
◇
「……それが、先輩が殺された日のこと」
ミナの声で、玲は現実に戻った。
「その翌日、会社では当然その話で持ちきりだったわ」
「当然ですよね」
「ええ」
ミナは少しだけ笑った。
「私にとっては、昨日まで一緒に仕事をしていた人だったから」
その言葉に、玲は何も返さなかった。
ミナは、そのまま話を続ける。
「その日の朝、編集長が言ったの」
『……あの事件、誰か記事を書けるか?』
「それで……」
ミナは少しだけ間を置いた。
「『私が書きます』って」
玲は少し驚いた。
「すぐに?」
「ええ」
ミナは頷く。
「『先輩の死を、無駄にしたくありません』って言った」
そして、ミナは記事を書いた。
現場の状況。
発見された時の様子。
周囲にいた人々。
事件直後の空気。
玲が昨日読んだ記事は、その時に書かれたものだった。
「その先輩って、どうしてビリオン都市に来たんですか?」
玲が聞くと、ミナは少しだけ遠くを見るような目をした。
「大きなことをしたかったからよ」
「大きなこと?」
「ええ。ここに来る前から記者をやってた人だったけど……」
ミナは、昔の記憶を辿るように言った。
「『俺は自分の名前を残したくて、この都市に来たんだ』って、よく言ってた」
玲は黙って聞いていた。
「本当に、そういう人だったわ」
ミナは小さく笑う。
「自分が書いた記事を、誰かに読んでもらうこと。自分の名前を覚えてもらうこと。そういうのを大事にしてた」
「なるほど……」
玲は、記事に視線を落とした。
その記事には、事件の詳細と一緒に、先輩の名前も残っている。
「でも、あの記事を書いてから、私の名前も覚えてもらえるようになった」
ミナはそう言って、少しだけ笑った。
「それまで私は、ただの新人だったから」
玲は改めて記事を見た。
昨日読んだ時とは違う。
この記事を書いた人間が、目の前にいる。
そして、その人間は事件の現場を見ていた。
「……犯人は?」
玲が聞いた。
ミナは少しだけ黙った。
「捕まってないわ」
「今も?」
「ええ」
「じゃあ、今も犯人は分からないんですか?」
「そうね」
ミナは淡々と答えた。
「未解決事件よ」
玲は記事を見る。
その事件を起こした犯人は、今もどこかにいる。
少なくとも、そういうことになっている。
「そうですか……」
玲は、それ以上聞かなかった。
ただ、別のことが気になった。
「でも……」
「ん?」
「どうして、あんなに現場のことを詳しく書けたんですか?」
ミナが玲を見る。
ほんの少しだけ、間があった。
「私も、現場を見たから」
「……そうですか」
それだけだった。
◇
その日の仕事が終わった。
玲は家に帰ってからも、なかなか眠れなかった。
机の上には、昨日から読み続けている古い記事。
玲は、もう一度それを開いた。
昨日とは違う。
今日は知っている。
この記事を書いたのが、ミナだということ。
そして、ミナが現場を見たということ。
玲は最初の一文から、ゆっくり読み始めた。
現場の描写。
死体の状態。
周囲の様子。
事件が起きた直後の空気。
昨日は、ただ「詳しい」と思っていた。
けれど今は違う。
ミナは、実際にそこにいた。
「……だから、こんなに詳しいのか」
玲は小さく呟いた。
記事を読み進める。
すると、ふと手が止まった。
玲は記事を閉じた。
そして、もう一度最初から読み直す。
事件当日の記事。
翌日の記事。
さらに、別の新聞の記事。
玲は資料をいくつか並べた。
「……」
一つずつ、内容を確認していく。
ミナの記事に書かれていること。
警察発表に出ていること。
他社の記事に書かれていること。
大きな違いはない。
どれも同じ事件を扱っている。
ただ。
細かい部分になると、少しずつ違っていた。
玲は一つの記事に目を止めた。
現場について書かれた部分。
次に、ミナの記事を見る。
そして、もう一度別の記事を見る。
「……」
玲は紙面を机の上に並べ直した。
ミナの記事には、他の記事にはない細かな描写がいくつかある。
だが、それだけなら不思議ではない。
ミナ自身が警察より先に現場を見ていたのだから。
――問題は、そこじゃない。
玲はそう思った。
記事に書かれている情報を、順番に整理していく。
人だかりができた。
ミナがそこへ向かった。
そこに佐伯が倒れていた。
その後、事件の記事が書かれた。
どれも、おかしくない。
一つ一つを見れば、何も問題はない。
玲は椅子の背にもたれた。
「……」
それでも、何かが引っかかる。
ほんの小さな違和感。
ミナの記事にあって、他の記事にないモノがある
それが何なのか、まだうまく言葉にできない。
玲は、資料をもう一度見直した。
今度は事件そのものではなく、記事が書かれるまでの流れを追っていく。
誰が。
いつ。
どこで。
何を知ったのか。
記者なら、そういうところが気になる。
玲の指が、一つの記事の端で止まった。
「……あれ?」
小さく呟く。
もう一度、別の記事を見る。
それからミナの記事へ戻る。
しばらく考えてから、玲はペンを置いた。
「……なるほど」
いくつかの出来事を順番に並べてみると、最初に聞いた話とは少し違って見える。
玲は、しばらく黙っていた。
そして、ミナの記事を手に取る。
最初から最後まで、もう一度読む。
文章は同じ。
書かれていることも同じ。
なのに。
さっきまでとは、少しだけ違って見えた。
玲は最後まで読み終える。
そして、記事を机の上に置いた。
「……この記事、やっぱり面白いな」




