Episode 6 I DON’T WANT TO DIE EITHER
彼女は一人だった。ジェイクとイーサンから離れ、私を捜していたのだろう。
頬には、乾ききっていない涙の跡が残っている。けれど、もう怯えてはいなかった。
その目にあるのは、強い憎しみだけだった。
私はゆっくりと両手を上げた。恐怖で自分の手が震えているのが分かる。
車のキーは、すでに工具台の上へ置いてある。
バッテリーも取りつけた。ガソリンはすでに彼らが手に入れている。
車は動かせるはずだ。私はもう近づかない。それを伝えたかった。
(車を使って、ここから逃げて)
「ゴォ……」
(私は、あなたたちを襲わない)
「グォォ……」
クロエの視線が、私の空いた両手から、工具台の上に置かれた車のキーへ移る。
一瞬だけ、クロスボウの先が下がった。
伝わったのかもしれない。そう思った。
「それで、命乞いのつもり?」
クロエの声は、ひどく冷たかった。
私は首を振った。
(違う)
「タイラーを殺して、メーガンを殺して」
クロスボウが、再び私の胸へ向けられる。
「今度は私たちを騙すつもり?」
(違う。私は――)
弦が弾けた。短い音とともに、矢が飛ぶ。
避ける間もなかった。矢は私の左肩へ突き刺さり、黒いコートと肉を貫いた。背中側から矢尻が突き出す。
「グァァッ!」
激痛が腕を走る。肩から溢れた血が、黒いコートをさらに濡らしていく。
怪物の身体でも、矢に貫かれれば痛い。左腕から急速に力が抜け、膝が崩れかけた。
クロエはすぐに二本目の矢を取り出し、クロスボウへ装填し始める。私は車庫の奥へ逃げた。
怖い。事故だったのに、なぜこんなに怖くて痛い思いをしなければいけないのだろう。
クロエはあんなに可愛い女の子だったのに、今やアマゾネスみたいだ。
「逃がさない!」
クロエが車庫の中へ踏み込んでくる。
胸元の鍵が激しくぶつかり合う。肩に刺さった矢が、走るたびに肉を抉った。
ワゴン車の横を通り抜け、私は奥の壁際へ向かう。
そこには、部品を運ぶ際に邪魔にならないよう立てかけておいた斧があった。少しだけ、手に取るかどうか躊躇する。
背後で、二度目の弦が鳴る。咄嗟に振り返った瞬間、矢が鉄仮面の左側へ直撃した。
甲高い金属音が、車庫の中に響き渡る。
凄まじい衝撃が頭を揺らし、仮面へ蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
左目を覆っていた鉄片が割れ、大小の破片となって床へ落ちる。
冷たい空気が、剥き出しになった目元へ触れた。
視界が白く弾ける。足がもつれ、私はワゴン車の脇へ倒れ込んだ。
頭の中で激しい耳鳴りが続いている。起き上がろうとしても、左腕には力が入らない。
クロエの足音が近づいてくる。
逃げなければ。そう思っているのに、身体が動かなかった。
クロエは私の傍へ来ると、矢のなくなったクロスボウを床へ捨てた。
腰から大きなナイフを抜くと、クロエは私の身体に馬乗りになった。
両手でナイフを握り、躊躇なく振り下ろす。刃先が、割れた仮面から露出した左目へ向けられる。
「メーガンとタイラーの分よ」
私は反射的に右手を伸ばし、クロエの手首を掴んだ。
刃先が、目の前で止まる。
力では、私のほうが強いはずだった。けれど、肩を貫かれ、頭部に強い衝撃を受けた身体には、思うように力が入らない。
クロエは両手でナイフを押し込んでくる。
刃先がゆっくりと近づく。冷たい金属が睫毛へ触れた。
(死ぬ)
このまま目を貫かれれば、その奥には脳がある。この身体がどれほど頑丈でも、助かるとは思えなかった。
私は殺したくなかった。
タイラーも。
メーガンも。
クロエも。
(死にたくない)
それでも、その感情だけが、他のすべてを上回った。
視界の端に、壁際へ立てかけた斧が見える。
右手は、クロエの手首を掴んでいる。私は思うように動かない左腕を、無理やり斧へ伸ばした。
肩の傷口が裂ける。
「グァァ……ッ!」
血が流れる。指先が震える。それでも、斧の柄へ手をかけた。
クロエのナイフが、さらに近づく。刃先が下瞼の皮膚へ食い込み、細い痛みが走った。
私は斧を引き寄せると、左手で柄を掴んだ。
私はクロエの手首を横へ払い、その胸を右手で一気に押し返した。体勢を崩したクロエが、私の上から転げ落ちる。
私は身体を起こし、斧を右手に持ち替えた。
これを振れば、もう事故では済まされない。
助けようとしたのだと言い訳することもできない。
クロエが目を見開く。
振り下ろした。
刃が、クロエの肩口へ食い込んだ。骨を断つ、重い感触。
クロエの身体が大きく震える。ナイフを握っていた手から力が抜け、ナイフが床へ落ちた。
斧の刃は鎖骨を砕き、胸の奥まで深く沈んでいる。鮮血が刃を伝い、私の手袋へ流れてきた。
クロエの口が開いた。けれど、声は出なかった。
私は斧を引き抜いた。
傷口から血が噴き出し、白い服を一瞬で赤く染める。
彼女の身体が横へ倒れ、石床へぶつかった。
クロエは一度だけ小さく痙攣し、それきり動かなくなった。
静かだ。
逃げる足音も、泣き叫ぶ声もない。
私の荒い呼吸と、首元の鍵が触れ合う音だけが、車庫の中に残っている。
視界の中央に、白い文字が浮かび上がった。
CHLOE CARTER:DEAD
SURVIVORS:2
今度は事故ではない。
罠から助けようとして、力加減を間違えたわけでもない。
私は、自分が生き残るためにクロエを殺した。
私は斧を床へ落とした。重い音が車庫に響く。
その場に座り込み、動かなくなったクロエを見つめた。
(ごめんなさい……)
「ゴ……ォ……」
仮面の内側で、涙が頬を伝った。
クロエを殺したくなかった。
彼女がメーガンのために怒ることも、私を殺そうとすることも、間違っていなかった。
それでも、心のどこかで安堵していた。
私はまだ生きている。
その事実に、確かにほっとしていた。
殺したくない。それは今も変わらない。でも、私だって死にたくない。
全員を助ける。そんなことは、もうできない。
残っているのは、ジェイクとイーサン。二人も、私を殺そうとするだろう。
そのとき、私はもう武器を捨てない。何もせず、殺されるつもりもない。
生き残るために必要なら、二人も殺す。
私は血に濡れた斧を拾い上げた。




