Episode 2 I WON’T KILL ANYONE
(……無理)
喉からは唸り声しか出なかった。
(無理、無理無理無理。絶対に無理……!)
「ゴォ……ガァァ……ッ!」
怪物の声が廊下に響き、壁の肖像画が震える。私は鏡に両手をつき、俯いた。
ゲーム開始前なら、まだ方法はあったかもしれない。
けれど、もうタイラーは死んでいる。たとえ私が殺していなくても、ケアテイカーの身体が殺したことに変わりはない。残りの四人も、血まみれの私とタイラーの死体を見れば、友人を惨殺した怪物だと思うだろう。
それでも全員を殺すなんてできない。
知らない人間だから。ゲームの登場人物だから。そんな理由で命を奪えるわけがない。
何か方法があるはずだ。
ゲームの世界とはいえ、用意されたルート以外の行動も取れるかもしれない。話せば分かってもらえるのではないだろうか。声が通じなくても、文字なら使える。
私は顔を上げた。鏡の中のケアテイカーも、同じ動きをした。
怖い。ただ顔を上げただけなのに、とても怖い。
事情を知らない人が見たら、これから誰を殺そうか考えているようにしか見えない。
私、どうなっちゃうの? こんな体じゃ、いつか夢見ていた可愛い花嫁さんになんて、絶対になれない。
その背後で、微かな声が聞こえた。
「タイラー!」
女性の声が、遠くからこちらへ近づいてくる。
「どこにいるの!?」
私は振り返った。
途端に、頭の中へ館の構造が流れ込んできた。
廊下の先には大階段。右手の壁の向こうには細い通路。三枚目の肖像画の額縁を押せば、隠し扉が開く。
私自身は知らないはずなのに、この身体は館の構造を覚えていた。
肖像画を押すと、壁の一部が音もなく奥へ開いた。私は斧とタイラーの死体を通路の中へ入れ、自分も身を滑り込ませた。
隠すつもりはなかった。ただ、今この状態で発見されたら、言い訳の余地すらなくなる。
壁を閉じる直前、廊下の奥に人影が現れた。
金髪の女性だった。白いジャケットに短いスカート。雨に濡れた髪を肩へ張りつかせ、懐中電灯を握っている。
「タイラー?」
彼女の背後から、さらに三人が現れる。
先頭にいるのは、長身で体格のいい青年。大学名らしいロゴの入ったパーカーを着ている。その後ろに、ダークブラウンの髪をした女性。最後に、眼鏡をかけた細身の青年。
知っている。
私は彼らを知っている。
中村くんから聞いた名前が、ひとつずつ浮かぶ。
アメフト部のキャプテン、ジェイク・ミラー。
金髪のチアリーダーでジェイクの彼女、クロエ・カーター。
クロエの親友、メーガン・フォスター。
そして、機械や謎解きを担当するギーク、イーサン・ブルックス。
彼らは床に残された血の跡を見つけ、タイラーの名前を呼びながら、すぐ近くを通り過ぎていった。
隠し通路の小さな覗き穴から、私はその姿を見つめた。
彼らは英語を話していたが、不思議と母国語のように何を言っているか理解できた。これもおそらくこの身体のおかげなのだろう。
クロエは何度もタイラーの名前を呼び、そのたびに声が震えている。
メーガンは腕を抱き、苛立った口調で帰ろうと言っている。
ジェイクは不安を押し隠し、全員を落ち着かせようとしている。
イーサンは扉の鍵を調べながら、窓も扉も外側から封鎖されていると説明していた。
ゲームのキャラクターには見えなかった。
SURVIVORS:4
あの表示では、ただの数字だった。
けれど、壁一枚隔てた向こうには、それぞれ声も表情もある四人の人間がいる。殺せるわけがない。
私は通路の奥に置いた斧を見た。
これを持たずに姿を見せれば、敵意がないと伝わるかもしれない。
私は斧をその場へ残し、壁を開いた。
ジャラ、と鍵が鳴る。思っていたよりも大きな音だった。
四人が一斉に振り返った。
私の姿を認めると、彼らの顔から血の気が引いていった。自分の姿がどれほど恐ろしいものなのか、彼らの表情を見ただけで分かった。
両手を上げた二メートルの怪物が、壁の中から突然現れたのだ。
今さらながら、出てくる場所を間違えた気がした。せめて普通の扉から入ればよかった。
クロエが口元を押さえた。メーガンが息を呑む。
ジェイクは咄嗟に二人の前へ立ち、暖炉の横に置かれていた火かき棒を掴んだ。
イーサンだけが、私の両手を見ていた。
私はゆっくりと一歩前へ出た。鍵が重く耳障りな音を響かせる。四人が同時に後ずさる。
(お願い。待って)
できるだけ穏やかに言った。
(私は、あなたたちを殺したくない)
けれど、仮面の奥から響いたのは、
「ゴァァァ……ッ」
という低い咆哮だった。
ダメだ。これでは威嚇するヒグマにしか見えない。
それを聞いて、メーガンが悲鳴を上げた。
「こいつよ! タイラーを連れていったのは!」
「下がれ!」
ジェイクが火かき棒を構え、こちらへ走ってくる。
私は両手を振った。
(違う! 話を聞いて!)
「ガァッ、ゴォォ……!」
怪物が両手を振り回しながら吠えた。自分で見ても、話を聞いてほしい人間の動きには見えない。
ジェイクが火かき棒を振り下ろした。
咄嗟に腕で受ける。金属が革のコートへぶつかり、鈍い衝撃が肩まで響いた。
(痛っ!)
「グォッ!」
怪物の身体でも、普通に痛みはあるらしい。できれば、こういうことは身体の記憶と一緒に先に教えておいてほしかった。
ジェイクが二度目を振りかぶる。その目には恐怖と、強い殺意があった。
私は背を向け、隠し通路へ逃げ込んだ。
「待て! タイラーをどこにやった!」
閉まりかけた壁の向こうで、ジェイクが叫んだ。
(ごめんなさい! もう死んでます!)
暗闇の中で、私は荒い呼吸を繰り返した。首元の鍵が、小刻みに鳴っている。
分かっていた。あの姿で現れて、信じてもらえるわけがない。
友人が一人消え、床には血の跡が残されている。その直後に、血まみれの殺人鬼が壁の中から出てきたのだ。
私だって、逆の立場なら逃げる。
いや、逃げるだけでは済まない。先に殺さなければ、自分たちが殺されると思う。
それなら、文字だ。
言葉が声にならないなら、書けばいい。
私は足早に館の管理室へ向かった。場所は身体が知っていた。
古い机の引き出しを開け、黄ばんだ便箋と鉛筆を見つける。手袋をしたままでは持ちづらく、何度も鉛筆を落とした。
英語は得意ではない。それでも、短い文章なら書ける。
時間をかけて、一文字ずつ紙へ刻んだ。
I DON’T WANT TO KILL YOU.
I AM NOT YOUR ENEMY.
PLEASE DON’T ATTACK ME.
I WILL HELP YOU LEAVE.
私はあなたたちを殺したくありません。
あなたたちの敵ではありません。
私を攻撃しないでください。
私があなたたちを外へ出します。
書き終えた手紙を見つめる。
怪しい。我ながら、怪しすぎる。友人を連れ去ったと思われている怪物からこんな手紙を渡されて、信じる人間がいるだろうか。
それでも、何もしないよりはましだと思いたかった。
私は隠し通路を使って四人の先回りをし、エントランスホールの中央へ手紙を置いた。
柱の陰に身を潜め、彼らが戻ってくるのを待つ。
しばらくすると、彼らはエントランスホールに現れ、玄関扉を開けようと試行錯誤し始めた。
鍵をこじ開けようとしても、扉を壊そうとしてもびくともせず、焦りと苛立ちを露わにしている。
そんな中、最初に紙へ気づいたのはイーサンだった。
「何か落ちてる」
彼はしゃがみ込み、手紙を拾った。ジェイクたちも周囲へ集まる。
イーサンが内容を読み上げると、メーガンが声を荒らげた。
「ふざけないで! タイラーを連れ去ったくせに!」
「罠に決まってる」
ジェイクが手紙を奪う。
クロエは何も言わなかった。青ざめた顔で、紙に書かれた文字を見つめている。
イーサンが眼鏡を押し上げた。
「でも、僕たちを殺したいなら、わざわざこんな手紙を残す意味はないんじゃないか?」
「油断させるためだ」
「さっきも武器を持ってなかった」
「隠していただけかもしれない」
「だったら、どうして逃げた?」
ジェイクの眉間に深い皺が寄る。
イーサンは続けた。
「あの身体なら、僕たち全員を相手にしても勝てたはずだ。それなのに攻撃しなかった」
私は柱の陰で、小さく頷いた。
そう。その通りだ。分かってくれる人がいた。
「タイラーが消えてるんだぞ」
ジェイクの低い声が響いた。
その一言で、イーサンは口を閉ざした。
ジェイクは手紙を丸め、床へ投げ捨てる。
「血の跡は、あいつが出てきた壁まで続いていた。タイラーを連れ去ったのはあいつだ」
ジェイクは火かき棒を握り直し、三人を見回した。
「人間の言葉を理解してるなら、ただの化け物より危険だ。こっちを混乱させて、一人ずつ狙うつもりだ」
ジェイクの視線が、暗い廊下の奥へ向けられた。
「逃げるだけじゃ駄目だ……先に、あいつを殺す」
柱の陰で、私は身体を縮めた。大きすぎる身体は、どれだけ小さくなろうとしても隠しきれない。胸元で、鍵がかすかに触れ合う。
ジェイクたちは、私を殺そうとしている。
当然だ。彼らから見れば、それが正しい。
それでも私は、彼らを殺したくなかった。
行動で示せば、きっと分かってもらえる。脱出経路を作り、タイラーの遺体も彼らのもとへ返す。
今は無理でも、少しずつ信じてもらえばいい。
私は床に落ちた手紙を見つめながら、心の中で誓った。
絶対に、もう誰も殺さない。
その瞬間、視界に赤い文字が浮かび上がった。
OBJECTIVE:KILL THEM ALL
私は強く首を振った。
表示は消えなかった。けれど、ゲームから何を命じられようと関係ない。
私はケアテイカーではない。
私は田村里沙だ。
人を殺せるはずがない。




