Episode 1 PROLOGUE COMPLETE
目を覚ましたとき、私は人間の死体を引きずっていた。
正確には、右手に巨大な斧を握り、左手で青年の足首を掴みながら、薄暗い廊下を歩いていた。
ずるり、ずるり。一歩進むたび、青年の後頭部が床板の継ぎ目にぶつかり、乾いた音を立てる。
古びた木材と湿気の臭い。その奥に、錆びた鉄のような、生温かい臭いが混じっている。足元には黒ずんだ赤い筋がどこまでも続き、私が歩いてきた道を示していた。
何をしているのか、分からなかった。
自分がどこにいるのかも分からない。
ただ、左手に握ったものが人間の足だということだけは、嫌になるほどはっきりと分かった。
(……え?)
声を出したつもりだった。
けれど、喉の奥から漏れたのは人の声ではなかった。
「ゴ……ォ……」
錆びついた扉を無理やり動かしたような、低く濁った音。
驚いて左手を離す。青年の脚が床へ落ち、それにつられて上半身が横へ転がった。
首が、不自然な方向へ傾いていた。
いや、傾いているのではない。首元が半ばまで裂け、皮膚と肉だけでどうにか胴体と繋がっていた。
口は薄く開き、青く濁った瞳が、何もない天井を見つめている。着ている紺色のスタジアムジャンパーには、大きな白い文字で名前が刺繍されていた。
“TYLER”
(ひっ……!)
悲鳴を上げた。少なくとも私は、そのつもりだった。
実際に廊下へ響いたのは、獣の咆哮じみた低音だった。
驚いた拍子に右手が緩み、斧が床へ落ちる。重い金属音が館中を震わせた。
落ちた斧を見下ろす。ただの薪割り用ではない。刃だけで私の頭ほどもあり、柄も異様に長い。黒く変色した刃先には、べったりと血が付着していた。
床に横たわる青年の首元から溢れたものと、同じ色だった。
私が殺したの?
脳裏に浮かんだ疑問を、すぐに否定しようとする。
そんなはずがない。私は人を殺したことなどない。斧を握ったことさえない。そもそも、こんな場所へ来た覚えもない。
私の名前は田村里沙。
都内の大学に通う、ごく普通の女子大生だ。
昨日は午後の講義を終えたあと、バイト先のホームセンターに顔を出し、そのまま彼氏である中村くんの部屋へ向かっていた。
青信号になったのを確認して、横断歩道へ足を踏み出した。
そこへ、横からまばゆい光が迫ってきた。
耳を劈くクラクション。誰かの悲鳴。身体が宙に浮き、地面へ叩きつけられるような衝撃。
そこで、私の記憶は途切れている。
(私、死んだの……?)
あれほどの勢いで車に撥ねられて、無事でいられたとは思えない。
だからといって、次に目を覚ました場所が血まみれの洋館だなんて、いくらなんでも意味が分からなかった。
だというのに、両手は黒い革の手袋に覆われ、その表面はぬるりと血で濡れていた。
手だけではない。裾の長い黒いコートにも、革のブーツにも、赤黒い飛沫がいくつも付着している。
呼吸をするたび、顔の前で金属が軋んだ。
視界の端には、仮面の内側らしい黒い縁が見えている。
私は自分の顔へ手を伸ばした。指先が触れたのは、冷たい鉄だった。
頬も、口元も、額も、すべて硬い金属に覆われている。縁へ指を差し込もうとしても、隙間ひとつない。頭蓋骨へ直接打ちつけられているかのように、仮面はびくともしなかった。
(なに、これ……)
「ゴァ……ッ」
また人ならざる声が漏れた。
心臓が激しく脈打っている。けれど、その鼓動さえ、胸の奥ではなく分厚い壁の向こうから聞こえてくるようだった。
私は死体から後ずさり、廊下を見回した。
天井は高く、壁には色褪せた肖像画が並んでいる。金色の額縁は錆び、描かれた人々の顔は湿気で滲み、目も口も黒い染みになっていた。
壁際に置かれた燭台には、なぜか火が灯っている。揺れる炎が、廊下の突き当たりにある大きな鏡を照らしていた。表面はひび割れ、薄く埃を被っている。
私は吸い寄せられるように、鏡へ近づいた。
歩くたび、首元からジャラジャラと音がする。金属同士がぶつかり合う、重く耳障りな音。
鏡の前へ立った瞬間、私は動けなくなった。
そこに映っていたのは、田村里沙ではなかった。
二メートル近い巨体。
肩幅は異常なほど広く、床まで届きそうな黒いコートが全身を覆っている。太い首には鉄製の輪が嵌められ、そこから何十本もの古びた鍵が吊り下がっていた。大きさも形もばらばらな鍵が、胸元を埋め尽くしている。
顔には、縦に長い鉄仮面。鼻も口もない。中央に、巨大な鍵穴を思わせる黒い裂け目が一本走っているだけだった。
(なに、これ……!)
鏡の中の怪物が、私と同じように震えていた。恐怖で震えているはずなのに、その姿はむしろ怒りで小刻みに揺れているようにしか見えない。
胸元には、錆びた金属製の名札が取りつけられている。
汚れを手袋で拭う。何か文字が刻まれているようだった。
THE CARETAKER。
(……ケアテイカー?)
その名前を口にしようとした途端、喉から濁った呻き声が漏れ、忘れていた会話が蘇った。
中村くん。付き合って一年の私の彼氏。
映画も音楽も漫画も、売れているものより、誰も知らない作品を好む人だった。特に海外のインディーゲームに詳しく、私が興味を示していなくても、延々と内容を語っていた。
その日も、中村くんの部屋で、ゲームをする彼の隣で、私はスマートフォンを触っていた。
『このゲーム、めちゃくちゃ面白いんだよ』
『またスプラッタ系の怖いやつ? 私、苦手』
『ただ殺人鬼から逃げるだけじゃない。返り討ちにするのが目的なんだ。しかも操作キャラを途中で変えられるんだよ。生き残ってるやつなら誰でも使える』
画面には、雨に打たれる巨大な洋館が映っていた。黒い森の中に建つ、窓の多い古びた館。今、私がいる場所とよく似ている。
『大学生五人が肝試しで廃墟に入るんだけどさ……あ、今ちょうど一人死んだ。タイラーっていう、いかにも最初に死にそうな陽キャ』
『ひどい言い方』
『でもこいつはプロローグで死ぬから。どうやっても助けられない』
中村くんは楽しそうに笑っていた。
『それで、残った四人が館から脱出しようとする。殺人鬼はこいつね。ケアテイカー。鍵をいっぱいぶら下げてるやつ』
そのとき、私は画面をほとんど見ていなかった。聞いていたのも半分くらいだ。
それでも、ゲーム名だけは覚えていた。
『何てゲーム?』
『NO ONE LEAVES』
誰も出られない。
そんな意味だったはずだ。
『エンディングが生存人数で変わるんだよ。一人だけ生き残るのもあるし、全員生存もある』
『全員助かるなら、それでいいじゃん』
『まぁそれがベストだけど、ケアテイカーが強いんだって。だから、ケアテイカーを絶対に殺さないと逃げられない』
『え? そうなの?』
『正統派は武器で返り討ちかな。あとは罠に嵌めたり、館ごと焼き殺すこともできる』
中村くんがコントローラーを弄りながら、何でもないことのように続ける。
『ケアテイカーが生き残れるのは、主人公側を全滅させたときだけ。まあプレイヤーからしたらいわゆる“ゲームオーバー”だけどね』
その言葉が、暗い廊下に蘇る。
私は鏡の中の怪物を見た。
鍵穴の仮面。
無数の鍵。
血に濡れた斧。
床に転がる、タイラーという名の青年。
違う。そんなはずがない。
けれど、否定する材料が何ひとつなかった。
もしかして、私は一度死んで、このゲームの殺人鬼『ケアテイカー』に生まれ変わったのだろうか。
名前の響きは優しそうだが、見た目はこの上なく物騒だ。そんな馬鹿な話、到底受け入れられない。
そのとき、視界の中央に白い文字が浮かび上がった。
鏡に映ったものではない。目を閉じても、顔を背けても消えない。ゲーム画面の表示のように、それは私の視界へ直接焼きついていた。
PROLOGUE COMPLETE
TYLER REED:DEAD
SURVIVORS:4
THE HUNT BEGINS
すぐにその表示は消え、代わりに赤い文字が明滅する。
OBJECTIVE:KILL THEM ALL
――全員、殺せ。




