第八十二話 遥か彼方の歯車猫
ミーシャがいなくなってから、季節が静かに巡った。
この職人の街では日々が滑らかに、途切れることなく繋がっていて……気づけば足元に数年という歳月が降り積もっているのだ。
秋。
広場の噴水前には、ナナの屋台が立っている。看板には『ミーシャの焼き栗』と書かれたままだ。
ナナの几帳面な字で新しく書き直された真新しい木板だが、店の名前は変わっていない。あの日の約束通りに。
ナナの呼び込みの声は、月日が経っても相変わらず小さいままだった。ミーシャの広場中に響き渡るような甲高い声には程遠い。
だが、常連の客たちは誰もそれを気にしなかった。静かな声で「焼きたてです」とはにかむように言うナナの前に列を作り、温かい栗を買っていく。
焼き加減は完璧だった。師匠から受け継いだ聞き方が、厚い殻の軋む微細な音を正確に拾い上げているのだ。
栗の雫も健在だった。
ミーシャの作った手作り感のある粗めのペーストとは少しだけ舌触りが違う。ナナの手は猫族らしく正確で、裏ごしされた粒の大きさが完全に均一になっていた。
ミーシャの素朴な味とは微妙に違うけれど、とびきり美味い。
もし僕が昔の僕のままなら、「師匠の味をほんの少しだけ超えている」と、冷徹な数字で評価を下していたかもしれない。
でも、僕は決して点数を口にしなかった。師匠には内緒だ。
もう、彼女に伝えることはできないけれど。
♢ ♢ ♢
歯車猫亭の日常も、変わらずに続いている。
朝、冷たい空気の中で暖炉に火を起こす。壁とカウンターの時計たちのネジを順番に巻く。
静かに仕込みを済ませ、店を開ける。
やって来る客たちのために、その人に合った完璧な紅茶を淹れる。
夕暮れに客を見送り、重い扉に鍵をかける。
そして翌朝、また同じことを繰り返す。
ただ、そんな静かな反復の中で……明確に変わったことが一つだけあった。
ヒルダの足が重くなった。
夏の終わり頃から、彼女の杖の突き方が明らかに変わった。
以前はただの歩行の補助として軽く突いていた杖に、今は全体重の半分以上が重くかかっている。
歩幅が極端に狭くなり、店の前にある僅かな段差さえ、一人では上るのが難しくなっていた。
以前と同じ距離を歩いて歯車猫亭に来るのに、倍以上の時間がかかるようになってしまったのだ。
それでも彼女は毎日来る。
途方もない年月を生きたドワーフの老婆は、毎日欠かさずやって来る。
冷たい雨の日も、雪が舞う日も。
太い杖を突いて、石畳を一歩、また一歩と確かめるように進んで、カランと真鍮のベルを鳴らして入ってくる。
「よう、坊や」
「おはようございます、ヒルダさん」
「今日は、紅茶にしようかねえ」
「歯車猫ですね」
「あんたに先に決められるのはひどく癪だけど……まあ、いいよ」
このやり取りを、これまでに何度繰り返しただろう。
数えてはいないが、気が遠くなるほどの回数だ。
ヒルダがこの歯車猫亭に通い始めたのは、はるか昔、コンラートがこの店を開いたばかりの頃かららしい。
「坊や」
「ん」
「グレゴールがね、鍛冶組合に正式に入れてもらったんだよ」
「聞きました。腕がいいって、街でも評判ですね」
「当たり前さ。うちの血筋だからねえ。死んだ旦那も息子も、みーんな腕のいい鍛冶師だったんだ。孫が立派に跡を継いで、当然のことだよ」
ヒルダの声は心底誇らしげだった。
グレゴールがリンデンブルクに帰ってきてから、ヒルダは本当に変わった。
歩き方こそ衰えたが、声には若々しい張りが戻った。
孫の確かな仕事ぶり。ひ孫たちの健やかな成長。嫁のドルテが作る美味しい煮込み料理。冷たい家に帰れば、必ず誰かの温かい足音があるという生活。
「小マーレンがね、来年からさっそく組合の工房に見習いに入るんだってさ。まだあんなに幼いのに見習いだなんて早すぎるって言ったら、あの子、『おばあちゃんだって、もっと小さい頃から金槌持ったって言ってたじゃない!』って言い返しやがって。本当に、生意気な子だよ、まったく」
「立派な血筋ですね」
「あんた、それ本気で褒めてるのかい」
「もちろん、褒めてますよ」
ヒルダは鼻を鳴らした。
コンラートと全く同じ癖。もう、その癖が移った先の不器用な老人はこの世にいないのに、彼が残した癖だけが彼女の中に当たり前のように残っている。
♢ ♢ ♢
ある冬の夕方。客が引き、閉店の時間が近づいた頃に、ヒルダがぽつりと言った。
「坊や。一つ、頼みがあるんだけどね」
「何ですか」
「明日……あたしに、ただのお湯を出してくれないかい」
「お湯? 紅茶じゃなくて?」
「そう、お湯。ただの白湯さ。前みたいにね」
前みたいに。
コンラートが生きてカウンターの奥に座っていた頃、ヒルダは毎日毎日、お湯しか頼まなかった。
わずかな硬貨で買う温かいお湯。この店の椅子に座り、誰かのそばにいる権利のための値段。
「いいですよ。でも、どうして急に」
「たまにはね……戻りたくなるんだよ。あの頃の景色に」
ヒルダの目が、すっと遠くを見た。
何十年も前の、はるか昔の風景を見ている目だ。
コンラートが不機嫌な顔で乱暴にお湯のカップを出し、ヴィルヘルムが向かいの席でアッサムを美味しそうに二杯飲み、自分はその横で熱いお湯をすすっていた頃。
「分かりました。明日、最高のお湯を出します」
「ありがとよ」
「お代は要りませんよ。ただのお湯からお金を取ったのは、コンラートさんの悪癖ですから」
「あはは。あの偏屈爺さんが生きてたら、今の台詞を聞かせてやりたかったねえ」
翌日の午後、ヒルダがやって来た。
いつもの席にドスンと座った。
僕は約束通り、お湯を出した。
白い陶器のマグカップに、透明な熱い湯が注がれている。
何の味もしない。紅茶のような香りもない。ただじんわりと温かいだけの、純粋な液体。
ヒルダはそれを両手で大切に包み込んで、一口すすった。
そして、静かに目を閉じた。
「……」
長い、沈黙だった。
店内の壁に掛けられた時計たちが不揃いな音を刻んでいる。
いくつものリズム。その中に、ヴィルヘルムが残した置き時計の、角のない丸い音が微かに混じっている。
カウンターの端にはコンラートの空席があり、表にはミーシャの窪みが残るテラスの椅子がある。
「……おいしいねえ」
「お湯ですよ」
「お湯だから、おいしいんだよ」
分かるような気がした。
味がないからこそ、彼女の途方もない記憶のすべてが、そのまま味になるのだ。
立ち上る湯気の向こう側に、何十年分ものこの店での午後が透けて見えているのだろう。
『おい、偏屈爺さん。今日のお湯は少しぬるいんじゃないのかい』
『文句があるなら飲むな、クソババア』
『まあまあ二人とも。この時計の音色に免じて、平和にやろうじゃないか』
『あははっ! ヴィルヘルムさん、それって全然関係ないよ!』
もう絶対に聞こえるはずのない会話。
カウンターの奥でしかめっ面でグラスを磨くコンラート。窓際で自慢げに時計の仕組みを語るヴィルヘルム。そして、テラス席で大きな灰色の尻尾を揺らして笑うミーシャ。
ヒルダの閉じた目には今、彼らがそこにいた頃の景色が……確かな温度を伴ってはっきりと映っているのだ。
「坊や」
「はい」
「あたしは……もうそろそろだと、思うよ」
僕の心臓が大きく跳ねた。
跳ねたけれど、絶対に顔には出さなかった。出してはいけないと分かっていた。
ヒルダがこういう静かなトーンで語る時は受け止める側の安易な動揺や同情を一切許さない、誇り高い顔をしているからだ。
「……長い人生でしたか?」
「短かったよ。本当に、あっという間だ。旦那と出会って、子供を懸命に育てて、孫の背中を見送って、そしてひ孫の顔を見て。……気づいたら、もうここだ」
「まだ、早いんじゃ――」
「早いも遅いもないさ。ドワーフの身体ってのはね、自分自身で一番よく分かるんだ。硬い石みたいなもんでね。長年持ちこたえても、一度深いひびが入り始めると……そこから一気に崩れ落ちるのは本当に早いんだよ」
石。
いかにもドワーフらしい、潔い比喩だった。
生まれてからずっと岩と鉄と共に生きてきた種族だからこそ、自分の命の終わりすらも自然の鉱物に喩えるのだ。
「グレゴールが、最後にこの街へ帰ってきてくれて、本当に良かった。あたしが死んだ後も、あの子がこの街に確かにいる。ドルテも、マーレンも、そして坊やも。あたしの空いた椅子に、ちゃんと座ってくれる人たちがいる」
椅子。
また、椅子だ。
ヴィルヘルムも自分の特等席を残した。コンラートも椅子を残し、ミーシャも残した。そして今、ヒルダも自分の席を残そうとしている。
この街で出会った人たちは、なぜかみんな去り際に必ず自分が座っていた椅子を残す。
ヒルダは、マグカップのお湯を最後の一滴まで飲み干した。
空になったカップを置く音が、静かな店内に小さく響いた。
「坊や。もう一杯、もらえるかい」
「お湯ですか? それとも、紅茶ですか?」
ヒルダは少しだけ考える素振りを見せて、それから声を出して笑った。
皺だらけの顔のパーツが、全部上に向かって持ち上がるような最高に晴れやかな笑い方。
目尻も、口元も、額の深い皺も。彼女の全部が笑っていた。
「お湯を一杯と……紅茶を一杯。二杯同時に頼むのは、いくらなんでも贅沢かねえ」
「ヴィルヘルムさんは、二杯飲んでいましたよ。一杯目は喉の渇きを潤すため、二杯目は舌で味わうためだって」
「あのうんちく爺さんの真似をするのは本気で癪だけど……まあ、今日だけは特別に許してやるよ」
僕は、お湯を一杯。そして、コンラートが愛した完璧な歯車猫を一杯。
二つのカップを並べて出した。
ヒルダはまず、透明なお湯をゆっくりと飲んだ。
それから、琥珀色の紅茶を飲んだ。
「ヴィルヘルムの言う通りだ。二杯目の方が、ずっとうまい」
「でしょう?」
「悔しいけどねえ」
ヒルダは懐から硬貨を取り出し、カウンターの上に二枚、並べて置いた。
お湯一杯分の代金と、紅茶一杯分の代金。
コンラートが決めていた値段と、僕が決めた値段。
「お釣りは要らないよ」
「お湯は無料だと言ったじゃないですか」
「これは、コンラートの分だよ。あの偏屈爺さんに、長年払いそびれていたお湯代の最後の一枚さ」
ヒルダはゆっくりと立ち上がった。
太い杖を突いて、一歩一歩確かめるように、重い木の扉に向かって歩いていく。
カラン、と真鍮のベルが鳴った。
彼女は振り返らなかった。
いつもなら、必ず最後に振り返って「じゃあね、坊や」と笑ってくれるのに。
今日だけは、絶対に振り返らなかった。
誇り高いドワーフの、小さく丸まった真っ直ぐな背中だけが見えて……やがて、灰色の石畳の通りへと静かに消えていった。
僕はカウンターに残された二枚の硬貨を、しばらくの間じっと見つめていた。
そっと指で触れてみる。
一つは温かくて、もう一つは冷たかった。
僕は、二枚の硬貨をカウンターの端、ヴィルヘルムが残した小さな置き時計のすぐ横に、二枚並べてそっと置いた。
店中にあるいくつもの時計が、それぞれの時を刻んで鳴っている。
いつか、次の時計の音が止まる。
さらに次の時計も。
やがて全部の時計が止まっても、永遠を生きる僕だけが人でこのネジを巻き続けるのだ。
でも、今は違う。
今日はまだ、店にあるすべての時計が、確かに動いている。
温かい硬貨と冷たい硬貨が、時計の横で夕暮れの光を反射して静かに光っていた。




