第八十三話 ドワーフは石に還る
ヒルダは過酷な冬を無事に越えた。
僕は胸をなでおろして、少しだけ安堵した。
ドワーフの身体は石みたいなものだと彼女本人が言っていたけれど、どんなに硬い石であっても冬の容赦ない寒さの中では脆くなる。
暖かな春まで持ちこたえてくれれば、きっともう少しだけ彼女との時間があるはずだと思っていた。
だが。
雪がすっかり溶けて春が来ても、ヒルダの足取りが元に戻ることはなかった。
代わりに、彼女の突く杖が立派になった。
孫のグレゴールが、祖母のために特注で作り上げた鉄芯入りの丈夫な杖。ドワーフの優れた鍛冶技術が惜しみなく詰め込まれた一品だった。
握りの部分にはヒルダの手の形に合わせた窪みが丁寧に彫り込まれており、滑り止めのための柔らかい上質な革が巻いてある。
それでも彼女が家から歯車猫亭に辿り着くのには、以前の何倍もの途方もない時間がかかるようになってしまった。
「グレゴールに背負って送ってもらったらどうですか」
「嫌だよ。自分の足で歩いて来るから、意味があるんだろうが」
頑固だった。
かつてのコンラートに通じる、決して曲げない職人気質の頑固さだ。
この店の常連は、昔からみんな筋金入りの頑固者ばかりだ。
もちろん、僕を含めて。
♢ ♢ ♢
春爛漫のうららかな日。
ヒルダの長い人生の節目の年となる誕生日を、歯車猫亭を貸し切ってささやかに祝った。
グレゴールが自分の工房から巨大な肉の塊を焼いて持ち込んできた。嫁のドルテが、根菜がたっぷりと入った特製のスープを大きな鍋ごと抱えてやって来た。
マーレンは野原で摘んできた花で手作りの花冠を不器用に編んできて、それをヒルダの頭にちょこんと載せた。
赤茶けた残り少ない白髪の上で、小さな野花が可愛らしく揺れている。
ナナはお祝いのために栗の雫を特別サイズで作って持ってきてくれた。
パンにとても塗りきれないほどの山盛りの量だったが、ヒルダは「美味しいねえ」と目を細めながら、それを全部綺麗に平らげた。
ドワーフの頑丈な胃袋は最後まで本当に頼もしい。
トビアスが、グラスを持ってすっと立ち上がった。
「ヒルダさん、本日はお誕生日、本当におめでとうございます」
「おめでとうって言うんじゃないよ。あたしみたいに長く生きすぎた年寄りが、今さら歳を数えるなんて趣味が悪い」
「じゃあ、お祝いの乾杯だけ。ヒルダさんの健康と、素晴らしい歯車猫亭と、そしてリンデンブルクの街に」
「なんだい、ずいぶんと大袈裟だねえ。でもまあ、乾杯の音頭は嫌いじゃないからね」
カチンとグラスが鳴った。
ドワーフたちの腹の底に響くような低い笑い声と、猫族の静かな拍手と、犬族のルッツの太い声が混じり合って、小さな茶店を温かく満たした。
僕は黙ってカウンターの奥で紅茶を淹れた。
全員分を一度に。一人一人の好みに完璧に合わせて。
ヒルダには歯車猫。グレゴールにはそれを少し濃いめに出して。ドルテには薄めで香りの良いダージリン。マーレンには紅茶の香りを少しだけ移した、ミルクたっぷりの温かい飲み物。
ナナには彼女が一番好きなファーストフラッシュ。トビアスにはいつものダージリン。ルッツにはアッサムの濃いめ。
コンラートがいた頃は店を満席にするだけで彼は限界を迎えていたが、今の僕なら全員分の異なる注文を一度に完璧に回せる。
長年の経験と大公邸で培った執事としての絶対的な土台。そして何より、コンラートが書き残してくれた何十年分もの記録ノート。
その全部が、僕の腕の中にあるからだ。
♢ ♢ ♢
夜。
賑やかなお祝いが終わり、全員が帰った後。
ヒルダだけが、店に残った。
「坊や、少しいいかい」
「もちろん」
ヒルダはカウンターの端に置かれた小さな置き時計を、愛おしそうに見つめていた。
ヴィルヘルムが残した時計。
こち、こちと、角のない丸い音を優しく刻んでいる。
そのすぐ横には、あの日ヒルダが置いていったお湯代と紅茶代の硬貨が二枚。
「まだ、あんなところに置いてあるんだね」
「片付ける理由がありませんから」
「本当に、呆れるくらい律儀だね、あんたは」
ヒルダは二本の杖を傍らに置き、カウンターに両肘をついた。
皺だらけの太い腕が、木製のテーブルの上に並ぶ。
鍛冶師の妻として、鍛冶師の母として、そして鍛冶師の祖母として生きてきた誇り高き腕だ。
彼女自身が毎日重い金槌を振るっていたわけではないけれど、熱い炉の前で生きる家族を支え続けたその腕には、確かな鉄と火の記憶が染み込んでいる。
「坊や。あたしはね、コンラートとヴィルヘルムが死んだ時、思ったんだ。ああ、次にお迎えが来るのは、間違いなくあたしだってね」
「……」
「でも、その前に元気なミーシャが逝っちまった。若い嬢ちゃんが先だなんて、少しも思ってなかったからね。リス族の命が短いってことは頭で分かっていたはずなのに、いざその時が来ると、どうにも順番を間違えられたみたいな気分だったよ」
順番。
ヒルダは、順番にこだわる。
ドワーフは地中深くの鉱脈を掘る種族だから、地層の重なりの順序というものに人一倍敏感なのかもしれない。
上から順に、一層ずつ丁寧に掘り進める。決して飛ばしたりはしない。
「だから……今度こそ、間違いなくあたしの番だ」
「ヒルダさん」
「何も言わなくていいよ。何かを言っても変わらない。硬い石にひびが入っちまったら、あとは静かに崩れ落ちるだけだ。ドワーフの身体ってのは、そういうふうにできてるんだよ」
ヒルダの声は穏やかだった。
あの冬の日、「ただのお湯を出してくれ」と頼んだ時と全く同じ声だ。
自らの運命を受け入れ、覚悟を決めた人間の──誇り高きドワーフの声。
「あたしはね、コンラートみたいにあんたに店を遺してやることはできない。ヴィルヘルムみたいに立派な時計も遺せない。ミーシャみたいに、行列のできる屋台も遺せない」
「そんなことは──」
「最後まで聞きな」
ヒルダは、ゆっくりと手を伸ばし、僕の小さな手を取った。
しわだらけの、太く、硬く、温かい手。
途方もない年月の長さが刻み込まれた、立派なドワーフの手。
「どうか覚えていておくれ、坊や」
「……え?」
「あたしがこの店に通い続けた、途方もなく長い長い年月。コンラートのあの不機嫌な顔と、ヴィルヘルムのおしゃべりな時計の話と、ミーシャの嬉しそうに揺れる尻尾と、そして、あんたの淹れるとびきり美味しい紅茶。その全部を覚えているのは、もうあんただけだ。あたしが死んだら、あの愛おしい日々の景色を知ってる奴は、あんたしか残らないんだよ」
手が小刻みに震えていた。
ヒルダの手ではない。彼女に握られた、僕の両手が。
「だから、ちゃんと覚えといておくれ。あたしはね、ただのお湯を飲みに来てたんじゃない。あんたたちに、大好きなあんたたちに会いに来てたんだ。たった銅貨一枚で、あんたたちと同じ時間を過ごせたんだ。とんでもなく破格の値段だよ」
笑った。
彼女は声を上げて笑った。目尻に、大粒の涙が溜まっている。
ドワーフの涙は一粒がとても大きい。一滴が頬を伝って落ちるだけで、顔の深い皺の溝に沿って、光る長い筋を作るのだ。
「覚えてます。全部。一日も、一瞬も忘れていません」
「いいね。なら、安心して逝ける」
ヒルダはゆっくりと僕の手を離した。
カウンターに立てかけてあった杖をしっかりと握り、曲がった腰を上げて、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあね、坊や」
カランと真鍮のベルが鳴った。
今日は振り返った。
開いた重い扉の向こうから、深い目が真っ直ぐにこちらを見ていた。
長きにわたり、毎日休むことなく通い続けたこの愛おしい店を最後にもう一度だけ見渡すように。
壁の時計、カウンターの茶器、端に置かれたコンラートの空席、表にあるミーシャのテラスの椅子、ヴィルヘルムの置き時計。そして、二枚の硬貨。
その全部を、自らの瞳の奥に焼きつけるように。
「いい店だよ。……ここは、本当にいい店だ」
それだけ言って、ヒルダは夜の灰色の通りへと消えていった。
杖が石畳を重く叩く音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
♢ ♢ ♢
それから、暫くした頃。
グレゴールが歯車猫亭にやって来た。
朝早く、まだ開店前の時間だ。裏口の扉を低く叩く音で気がついた。
扉を開けると、赤茶けた髭の大男が立っていた。
目が真っ赤に腫れている。ドワーフの男は、どんなに辛くても滅多なことでは人前で泣かない。
「ばあちゃんが」
言葉は途中で詰まって止まった。
最後まで言われなくても、分かった。
「昨夜、ですか」
「ああ。寝る前にな、『明日、歯車猫亭に行くから、朝早く起こしておくれよ』って言って。本当に嬉しそうに笑って、寝て。……朝になったら、もう……」
グレゴールの太い声が、ぶつりと途切れた。
丸太のような太い腕で、乱暴に目を擦っている。熱い鉄を打つ鍛冶師の手が、死に自分の涙を拭う姿は、不器用で、どうしようもなく痛々しかった。
「最後に、何か言っていましたか?」
「ああ。寝る前にな、『明日は、いつものお湯にしようかねえ。いや、やっぱり美味しい紅茶にしようかねえ。坊やの顔を見てから決めるよ』って」
最後の言葉が明日の注文だった。
ミーシャの最後が、弟子への明日の仕事の指示だったように。コンラートの最後が、僕への店の営業指示だったように。
ヒルダの最後は、この店での明日の紅茶の注文だった。
この街の人たちは、どうして。
どうしてみんな、死ぬ前に必ず「明日」の話をするのだろう。
自分にはもう、その明日がないと分かっているはずなのに。
「グレゴールさん。ヒルダさんの最後の注文……僕が決めていいかな」
「……ああ。頼む」
「お湯を一杯と、紅茶を一杯。二杯で」
グレゴールの目から、涙がぼろりと落ちた。
大粒の、決して枯れることのないドワーフの涙。
「ばあちゃんの、真似か」
「うん。前にそう頼まれたんだ。一杯目はお湯、二杯目は紅茶。ヴィルヘルムさんの贅沢な飲み方の真似だって、本人は怒ってたけど……すごく、嬉しそうだったから」
僕は二杯淹れた。
純粋で透明なお湯と、琥珀色の歯車猫。
ヒルダがいつも座っていた隅の席に並べた。
誰も座っていない空っぽの席に、二つのカップが静かに湯気を立てている。
グレゴールは椅子には座らなかった。
立ったまま、二つのカップをじっと見下ろしていた。
グレゴールは分厚い手でもう一度目を拭って、裏口から静かに出ていった。葬儀の準備があるのだろう。
一人になったカウンターで、僕はヒルダに出した二杯のカップを見つめた。
お湯の方が先に冷めた。
紅茶の方が少しだけ長く温かかった。茶葉の成分が湯の熱を保つからだ。科学的な理由。
ただ、それだけのこと。
でも、お湯が先にすっかり冷めていくのを見ていると、なんだか胸の奥が痛んだ。
ヒルダは、ずっとお湯でこの店に通い始めた。だから、本当はお湯で終わるべきだったのだ。
彼女の注文を紅茶に変えさせたのは僕のせいだ。僕が余計な美味しいものを淹れたから。お湯のままで……コンラートとの思い出のままでよかったのに。
——いや、違う。
ヒルダは自分の意志で変えたのだ。
コンラートが死んだ後、彼女は自分から「紅茶を頼む」と言った。僕が無理に勧めたわけじゃない。ヒルダ自身がそれを選んだのだ。
選んだ上で、彼女は最後に「あのお湯に戻りたい」と言った。
そして最後の最後に、「明日は坊やに聞いてから決める」と笑った。
選ぶ自由が彼女には最後まであった。
それだけで十分じゃないか。
僕は冷めた二杯のカップを丁寧に洗った。
お湯を入れていた方は洗っても何の痕跡も残らない。透明な水がただ流れていくだけだ。
紅茶を入れていた方は、薄い琥珀色の渋が白磁に微かに残る。布巾でこすればすぐに落ちるけれど、一瞬だけ、確かにそこに跡が残る。
その一瞬の痕跡をしっかりと見届けてから、棚に戻した。
歯車猫亭の椅子が、また一つ空いた。
コンラートの椅子。ミーシャのテラスの椅子。そして、ヒルダの隅の席。
三つの空席が店内のあちこちに静かに散らばっている。
残っている常連は、トビアス、ルッツ、グレゴール、ナナ。
それから、時々顔を出してくれるエーベルトやブリギッテ。
そして、僕。
カウンターの中で、八つの時計が鳴っている。
カチ、コチ。
こち、こち。
全部、まだ確実に動いている。
全部、いなくなった誰かがこの店に遺していった時間だ。
僕は時計の鍵をポケットの奥深くにしまい、エプロンをきつく締め直した。
午後の仕込みを始めなければならない。ヒルダの葬儀は数日後だ。
僕は深く息を吸って、茶葉の缶に手を伸ばした。
今日も──僕は完璧な紅茶を淹れる。




