第八十話 最後の焼き栗
ぱたっと来た。
ミーシャが言っていた通りだった。
つい昨日まで彼女は屋台に立っていたのだ。笑っていた。
ナナに焼き加減のコツを熱心に教えて、通りを行く客に「いらっしゃい!」と元気な声をかけて、閉店後には歯車猫亭で温かい紅茶を飲んで帰っていった。
帰りがけの彼女の大きな尻尾は、小さく、でも確かに嬉しそうに揺れていたのだ。
それなのに。
翌朝、ミーシャはベッドから起き上がれなくなっていた。
朝、ミーシャが来ないことを心配したナナに様子を見てきてくれと頼まれたのだ。
ベッドの上で小さな体を丸くしたまま、目は開いているけれど身体が全く動かない。
毛布を蹴る力すらなく、灰色の毛並みが乱れたまま深く枕に沈み込んでいた。
「……リアン……くん」
声が小さい。広場で響き渡っていた屋台の呼び込みとは別人のような掠れた声だった。
「おはようございます。ミーシャ、大丈夫ですか?」
「おはよ。……ごめん、今日はちょっと」
持ってきた保温瓶をサイドテーブルにそっと置いた。
ミーシャの小さな手が伸びかけて、途中で力なく止まった。
指先が小刻みに震えている。カップを握る力すら残されていないのだ。
僕は保温瓶の蓋を開けて、カップにミルクティーを注いだ。
ミーシャの口元まで運び、両手でしっかりと支えながら、ゆっくりと傾ける。
温かいミルクティーが乾いた唇に触れると、ミーシャはほっとしたように目を閉じた。
いつもならポンと膨らむはずの尻尾は、全く動かなかった。
一口飲んで、小さく息を吐いた。
「あったかい」
「……よかった」
「リアンくんの紅茶、本当にあったかい」
同じ言葉だった。
あの冬、冬季倦怠で倒れた彼女の部屋に届けた時と同じ言葉。
あの時は、これを飲んで数日毛布にくるまっていればすぐに元気になって、また屋台に戻っていった。
でも、今回は違う。
僕だけでなく、ミーシャ自身がそれを誰よりもはっきりと分かっているのだろう……。
彼女の瞳は自分の終わりを静かに悟っている目だった。
「ナナちゃんに……伝えて。今日から屋台、一人でやるようにって」
「……はい」
「あと、栗のポタージュのレシピ……最後の仕上げのコツだけ、まだちゃんと教えてないの。塩を入れるタイミング。煮込みの一番最後じゃなくて、玉ねぎを炒める時に入れるの。そうすると、栗の甘みがずっと引き立つから」
「伝えます」
「あとね、常連のモーリッツさんには、いつも栗を少しだけおまけしてあげてって。あの人、奥さんの分も一緒に買って帰るんだけど、恥ずかしがって自分からは絶対に言わないから」
「……」
「あと──」
「ミーシャ」
僕は彼女の紡ぐ言葉を優しく遮った。
「全部覚えてる。全部、僕が完璧にナナに伝える。だから……今はただ、紅茶を飲んで」
ミーシャは小さく口をつぐんだ。
それからゆっくりと、ふわりと笑った。
毛並みが寝癖で少し乱れたまま、目尻に深い皺が寄って鼻先が少しだけ上を向く。
何百回と見てきた笑顔だ。
屋台の前で、テラスの席で、広場の噴水の前で。どこにいても全部同じ、大好きな笑顔。
命の灯が消えかかっていても……輝きは全く変わらない。
「リアンくんってさ……ほんとに、子供じゃないよね」
「それは……」
「今日、やっと本当の意味が分かった。子供はね、こういう時に……そんな悲しい顔しないから……」
こんな顔。
自分の顔が今どうなっているのか、見えないから分からない。
たぶん平静を装おうとして、見事に失敗している顔なのだろう。
いつだってそうだ。
フィレーネの時も、コンラートの時も、ヴィルヘルムの時も。
僕は感情を隠そうとして、いつも隠しきれない。
「リアンくん。約束、覚えてる?」
「えぇ……もちろん」
全部。
最後の栗を焼く日まで毎朝紅茶を飲むこと。お弟子ちゃんにも紅茶を出すこと。僕自身も一緒に飲むこと。
ミーシャがいなくなった後も、それを続けること。
「もう一個だけ……追加していいて?」
「えぇ、もちろん。なんでも言ってください」
「あたしの屋台の名前、変わらないのを見届けてくれる……?『ミーシャの焼き栗』……それを、リアンくんに見届けて欲しいの……」
──見届ける。
彼女の屋台の名前が変わらず、繁盛しているのを見届ける。
彼女は知らないだろう。僕が普通のエルフよりも遥かに……いや、無限に生きる存在であることを。
でも、僕に託した。
自身の焼き栗屋の未来を……。
「昨日ナナちゃんに言ったんだ、大泣きしながら『絶対に名前は変えません』って言ってくれた」
昨日。
ミーシャは昨日の時点で、すでにナナにすべてを伝えていたのだ。身体がまだ動くうちに。元気な顔で。
愛する弟子に惨めな泣き顔を見せることなく、引き継ぐ段取りをつけていたのだ。
リス族は駆け抜ける。
自分の命の最後の瞬間まで、全速力で。
「えぇ……約束します。ミーシャの名前を……ずっとずっと見届けます」
「……ありがと」
ミーシャは静かに目を閉じた。眠ったのではない。
目を開けているためのわずかな力すら惜しいのだ……。
「紅茶、もう一口」
再びカップを唇に運んだ。ミーシャはゆっくりと飲んだ。細い喉が動く。
小さな嚥下の音が、静まり返った部屋にぽつりと響いた。
「……百点……だよ」
「点数をつけるのは、僕の悪い癖なので……」
「うつったの。コンラートさんと同じ」
笑った。声を出さずに、小さな肩だけがかすかに揺れた。
♢ ♢ ♢
僕はミーシャの部屋を出て歯車猫亭に戻り、ナナを呼んだ。
ナナは走ってきた。猫族の走り方は全く音がしない。足音ひとつ立てずに歯車猫亭に飛び込んできて、カウンターの前で肩で息を整えた。
金色の目が僕をまっすぐに見据えている。
頭の上の黒い耳は、前にぴんと倒れている。それは警戒のサインではない。すべてを受け止める覚悟の形だ。
「師匠はどうでしたか……?」
「……もう動けないと思います。でも、意識はまだはっきりしてます。会いに行ってください」
「……はい」
「あと、伝言です。栗のポタージュの塩は、煮込みの最後じゃなくて玉ねぎを炒める時に入れること。それと、常連のモーリッツさんには栗を少しだけおまけしてあげること」
ナナは深く頷いた。耳がさらにぴんと立っている。師匠の言葉を一言も聞き漏らさないという真剣な形。
「あとは師匠から直接聞いてくださいね。まだ、話せるから……」
ナナは小さく一礼すると歯車猫亭を飛び出し、通りの角へ消えていった。
一人になったカウンターで、僕は三杯分のカップを並べた。
ミーシャのカップ。ナナのカップ。僕のカップ。
三杯のうち、一杯はもう届けてきた。残り二杯を淹れて、一杯は自分で静かに飲んだ。
最後の一杯は、カウンターに置いたままにした。ナナが師匠の元から戻ってきた時のために。
冷めないように、木の小皿でそっと蓋をした。
♢ ♢ ♢
それから数日間。ミーシャの命の灯火は細く持ちこたえた。
ナナは屋台を休んで、ずっとミーシャの傍に寄り添っていた。
僕は朝と夕方に、必ず紅茶を届けた。
ミーシャはそれを一口ずつ飲んだ。飲める量は日ごとに減っていったが、それでも最後まで必ず飲んだ。
そして、ある朝。
いつものように紅茶を持って部屋に入ると、ナナがベッドの横に静かに座っていた。
金色の目が赤い。猫族は人間のように涙が頬を伝って流れない。
目頭に溢れた涙が溜まって、悲しみの光を反射するのだ。
「リアンさん……」
ミーシャは静かに目を閉じていた。
顔はこれ以上ないほど穏やかだった。
小さな身体をさらに丸くして、膝を抱え、大きな尻尾を自分の体に巻きつけている。
冬の冷たい木の洞にすっぽりと収まった一匹のリスのように。
冬眠するみたいに。
ただし、今度はいくら暖かい春が来ても、もう彼女が目覚めることはない。
僕は持ってきた紅茶を、サイドテーブルの上に置いた。
たっぷりとミルクを入れたミルクティー。いつもの完璧な温度。いつものお気に入りの茶葉。
「師匠は」
ナナの声が掠れていた。
「昨夜、最後に私に言ったんです。『ナナちゃん、明日の焼き栗は少し早めに火を入れてね。朝は冷えるから、お客さんが温かいのを欲しがるよ』って……」
最後の言葉が、愛する弟子への仕事の指示だった。
──本当にミーシャらしい。
自分の命が終わるその瞬間まで、屋台のこと、お客さんのことを考えていたのだ。
最後の一言が「ありがとう」でも「さよなら」でもなく、明日の焼き栗の火入れの時間だなんて。
僕は泣かなかった。
泣けなかったのだ。
まだ来ない。後から来る。
今回は数日後だろうか。季節が巡った後だろうか。何年も先だろうか。
でも、手は震えていた。
保温瓶を持つ小さな手が。
完璧なはずの温度感覚が微かに狂っている。いつもの最適温度のつもりで淹れたのに、ほんの少しだけ温度が足りていないのが自分でも分かった。
精密な温度管理が、隠しきれない感情の揺れによって決定的な誤差を生んでいる。
ナナが、ゆっくりと立ち上がった。
「私、屋台を開けてきます」
「……今からですか?」
「師匠が言ったから。明日の焼き栗は早めに火を入れてって。今日が師匠が言ったその『明日』だから」
ナナの黒い耳は上にぴんと立っていた。目は真っ赤に腫れているのに、声は少しも震えていなかった。
まだあどけなさの残る猫族の少女が、師匠の遺した最後の指示を、一人で完璧に遂行しようとしている。
「行ってらっしゃい」
その言葉は、果たして誰に向けて言ったのか。
ナナにか。それとも、遠くへ旅立ってしまったミーシャにか。
分からないままナナは部屋を出ていった。足音のない静かな走り方で。
一人になった部屋で、僕は眠るミーシャの顔をじっと見つめた。
本当に穏やかだった。苦しんでもがいた形跡はどこにもない。
リス族の最期は、ぱたっと来て、ぱたっと終わる。
全力で駆け抜けてピタリと止まる。長い長い衰退の期間はない。
命を燃やして走り切った身体が、そのままの姿で静かに眠りにつくのだ。
──羨ましかった。
なんて潔く、素敵な生き方なのだろうと。
心の底から思った。
「ミーシャ」
名前を呼んだ。もう、尻尾を振って応えてくれる返事はない。
「君の名前を、見届けるよ。絶対に……」
サイドテーブルに置かれたミルクティーから、温かい湯気がゆっくりと立ち上っている。
白い筋が天井に向かって真っ直ぐに伸びて、冷たい空気に溶けて、静かに消えた。
開け放たれた窓の外から、広場の方角で微かな声が聞こえた。
「いらっしゃい! 焼きたてだよー!」
ナナの声だった。
小さくて、少し震えていて、広場中に響き渡っていたミーシャの元気な声にはまだ程遠い。
でも確かに。
噴水の横のあの場所から、一生懸命な声が響いてきた。
屋台は開いている。
『ミーシャの焼き栗』は、今日もちゃんとそこにある。
甘く香ばしい焼き栗の匂いが、秋の風に乗って窓から優しく流れ込んできた。




