第七十九話 弟子の名前はナナ
ミーシャが連れてきた猫族の少女は、思っていたよりもずっと無口だった。
名前はナナ。
黒い短い毛並みを持つ猫族で、頭の上にはピンと張った三角の耳がある。
金色の目をしていて、光の加減で瞳孔が縦に細く鋭くなる。
年齢は、まだあどけなさの残る少女といったところか。猫族の寿命は人間とそう変わらないはずだから、人間で言えばちょうど背伸びをしたい盛りの年頃だろう。
身体は華奢で、小柄なミーシャと比べてもさらにひと回り細く見えた。
ミーシャが広場で声をかけた翌日の午後、ナナは一人で歯車猫亭に現れた。
「あの……ミーシャさんに、言われて」
声が小さい。静かな店内であっても、カウンター越しでようやく聞き取れるほどのささやき声だ。
猫族は総じて聴覚が優れているから、自分の発する声もこれくらい小さくて済むのだろうか。
「聞いてマスヨ。弟子入り希望なんですよね?」
「……はい」
「まずは紅茶を飲んで。話はそれからにしましょう」
何を出すか、僕は少し迷った。
ナナの好みの味はまだ分からない。初対面の客には味と香りのバランスが取れた中庸な茶葉から始めるのが執事としての鉄則だが、この子にはもう少し踏み込んでもいい気がした。
猫族は嗅覚が鋭い。香りの強い茶葉を出した方が彼女の素直な反応を見極めやすいだろう。
僕はダージリンのファーストフラッシュを選んだ。
春に摘まれたばかりの、花のような華やかで青々とした香りが特徴の茶葉だ。鼻のいい相手には最適だ。
湯の温度は沸騰から少しだけ落ち着かせた高めの設定。蒸らし時間も香りを最大限に引き出すための正確な長さで。
薄く作られた白磁のカップに注ぎ、ナナの前にそっと置いた。
「……」
少女の黒い耳が、ぴくりと動いた。鼻ではなく、耳だ。
紅茶から熱い湯気が立ち上る微かな音を拾ったのか、それとも僕がソーサーにカップを置いた時の陶器の響きに反応したのか。
ナナはカップに顔を近づけて、静かに目を閉じた。
数秒間、華やかな香りをじっくりと嗅いでから、おそるおそる一口含んだ。
「!」
——彼女の耳が、ぺたりと後ろに倒れた。
猫族の感情表現は、何よりも耳に出る。
前に倒れるのは警戒、横に開くのはリラックス、そして後ろに倒れるのは──深い快感、それか驚きだ。
「……おいしい」
「ありがとうございます。そう言われると嬉しいですね」
「お花みたいな匂いがする。あと、口に入れた時にちょっとだけ、ぴりっとする。それから甘くなって……最後に苦い。……順番が、ある」
僕は、思わず目を見開いた。
まだ歳若い少女が、ファーストフラッシュの複雑な味の構造をたった一口で言い当てたのだ。
フローラルな香り、舌先に触れる微かな渋み、中間から広がるふくよかな甘み、そして飲み込んだ後に残る心地よい苦み。
順番があるという表現は、驚くほど正確だった。紅茶は時間軸の飲み物だ。口に含んでから喉を通るまでに、幾重にも味が変化する。
それを順番と捉えた鋭い感覚は、間違いなく天性のものだ。
「ナナ、君は舌がいいですね」
「……そうですか?」
「うん。かなりいい。猫族だから鼻がいいのは当然だけど、舌の感覚も素晴らしいですよ」
ナナの黒い耳が、今度は横に開いた。リラックスのサインだ。
僕に褒められて、張り詰めていた警戒が少しだけ緩んだらしい。
そこへ、重い扉が勢いよく開いてミーシャが飛び込んできた。
「ナナちゃん来てるー!?」
テラスの扉をばんと開け放ち、息を切らせている。
背中の大きな尻尾が、ちぎれんばかりに左右に振れている。すこぶる嬉しい時の、全力の振り方だ。
もう若くはない年齢のはずなのに、この子の感情表現の豊かさは出会った頃から何も変わらない。
ただ、尻尾の振り幅が少しだけ小さくなっただけで。
「ミーシャさん、おはようございます」
「おはようって、もうとっくに午後だよ! 朝一番に来るって言ったのに!」
「すみません……道に、迷って」
「嘘だよね? 緊張して、お店の前を何往復もウロウロしてたでしょ!」
ナナの顔が、ぽっと赤く染まった。
耳が完全に後ろに倒れている。今度は驚きではなく、気恥ずかしさのサインだ。
「なんで……分かるんですか」
「窓からずっと見てたもん! あたしの屋台、ナナちゃんのお家のすぐ近くだからね」
ミーシャはナナの隣の席に座ると、僕に向かって小さく目配せをした。
いつもの、ミルクティーを頼む合図だ。
僕は二杯の紅茶を淹れた。ナナにはファーストフラッシュのおかわりを、ミーシャにはたっぷりのミルクティーを。
二人の前に並べて出した。
「じゃあナナちゃん、明日から朝早くに屋台に来てね。まずは火の起こし方から教えるから」
「は、はい」
「そんな怖い顔しないでよ。あたし、理不尽に怒ったりしないから。栗を焦がしても怒らない。手を切っても怒らない。ただ、お客さんに失礼なことしたら、ちょっとだけ怒る」
「ちょっとだけ……」
「うん、ちょっとだけ。あたしの気持ち、尻尾を見ればすぐ分かるから。膨らんだら怒ってない、ぺたって揺れてたら怒ってる。ちゃんと覚えてね」
ナナは真剣な顔でこくりと頷いた。
猫族の少女は、リス族の師匠の尻尾の動きを一生懸命に暗記しようとしている。
種族の違う師弟関係というのは、こういう小さなすり合わせの連続から始まっていくのだろう。
翌朝から、僕が淹れる紅茶は三杯になった。
ミーシャの分、ナナの分、そして僕の分。
朝の静かな歯車猫亭で三人がカウンターに並んで紅茶を飲む。
ミーシャは温かいミルクティー、ナナは香り高いファーストフラッシュ、僕はコンラートが愛した歯車猫。
三つのカップがカウンターに並ぶ光景は、わずか数日で、この店の新しい日常の風景になった。
♢ ♢ ♢
ナナの厳しい修行が始まった。
焼き栗は一見すると単純な料理に見えて、実は奥が深い。
火加減、栗の選別、殻に入れる切れ込みの深さ、正確な焼き時間、そして蒸らし。
ミーシャはこれまで、その全てを耳で判断していた。殻が熱で軋む音の高さで炉の温度を読み、弾ける直前の微妙な振動の音で最高の焼き上がりを感知する。
リス族の優れた聴覚だからこそできる、職人の技術だ。
ナナは猫族だ。
聴覚はリス族に決して劣らない。むしろ、高音域を聞き取る力はナナの方が鋭いくらいだ。
「ほら、この音が聞こえたら……あとほんの少しで焼き上がるよ」
「……この、ぱき、って音ですか」
「そう! それ! ナナちゃん、すっごく耳いいね!」
「猫なので」
「猫だからって、みんなが全員聞こえるわけじゃないよ。ナナちゃんの才能だよ、才能!」
ミーシャは弟子を褒めるのが本当に上手かった。
自分が誰かに優しく手取り足取り褒められて育ったわけではないだろうに。
たった一人で必死に屋台を切り盛りしてきた不器用な女が、教える側に回った途端に、こんなにも柔らかく温かい表情を見せるのだ。
季節が少し進む頃には、ナナは焼き栗を一人で見事に焼けるようになっていた。
さらに時が経つと栗の雫の仕込みを覚え、やがて屋台の客捌きまでをすっかり身につけてしまった。
ただし声がどうしても小さいので、元気な呼び込みだけは相変わらずミーシャが担当していた。
「いらっしゃい! 焼きたてだよー!」
ミーシャの声。以前より少しだけ掠れてしまっているけれど、広場に響き渡る明るい力は決して衰えていない。
その横でナナが黙々と栗を焼いている。
金色の目が炉の炎を真剣に見つめ、ピンと立った耳が殻の弾ける音を拾い、火傷知らずの指先が素早く殻を剥く。
一切の無駄がない洗練された動きだ。猫族らしい、静かで正確な仕事ぶりだった。
彼女たちの様子を見るのが僕の新しい日課に加わった。
二つの影が並んでいる。小さなリス族と、さらにひと回り小さな猫族。師匠と弟子の温かい影だ。
♢ ♢ ♢
ヒルダが来た時、言った。
分厚いマグカップで歯車猫を飲みながら、僕と同じ方向をじっと見ている。
「あの嬢ちゃん、本当にいい弟子を見つけたねえ」
「ナナはとても筋がいいです」
「筋だけじゃないよ。あの子、ミーシャのことが大好きなんだ。好きな相手の技術ってのはね、吸収がずば抜けて早いもんさ」
「……そうかもしれませんね」
「あんたも、そうだったろう? あんたがコンラートの紅茶の淹れ方を完璧に覚えたのも、あの偏屈爺さんのことが好きだったからだろうが」
否定できなかった。
コンラートが淹れた不器用で渋い紅茶を飲んだ最初の日。僕は明確に思ったのだ。
この人の味を知りたい、と。
それは彼の技術への職人としての敬意であり、そして彼という人間への確かな好意だった。
「ヒルダさんは、本当に何でもお見通しですね」
「途方もない長い年月を生きてりゃ、目だけは嫌でも肥えるのさ。紅茶の味の良し悪しは分からなくてもね……人の味ってやつが、はっきりと分かるようになるんだよ」
人の味。
とてもいい表現だった。コンラートの分厚いノートのどこを探しても載っていない、素晴らしい指標だ。
♢ ♢ ♢
また、厳しい冬が来た。
ミーシャの冬季倦怠が、今年は長引いた。
去年までは数日毛布にくるまっていれば治っていたのが、今年は倍近くの日数がかかった。
ようやく重い扉を開けて姿を見せたミーシャの顔は、いつもより少しだけ痩せて見えた。毛並みの艶がまた少し落ちている。
僕は何も言わず、彼女に紅茶を差し出した。
冷え切った身体を芯から温めるように、いつもより温度を上げて。
ミーシャは両手でカップを包み込み、ゆっくりと一口飲んだ。
背中の尻尾がゆっくりと膨らんだ。
先端だけだ。根元からはふんわりと広がらない。
去年の冬は、先端から中程まで確かに膨らんでいたのに。喜びを表す範囲が、また少し狭くなっている。
でも、膨らんだ。
それだけで今は十分だった。
「……おいしい」
「よかった」
「ナナちゃん、屋台ちゃんとやってたかな?」
「完璧でしたよ。君が休んでいる間、一人で立派に回してた。売上も全く落ちていないみたいですよ」
「……そっか」
ミーシャは笑った。
心の底から嬉しい気持ちと、少しだけの寂しさが半分ずつ混じった、複雑な笑顔だった。
自分がいなくても、完璧に回る屋台。
それは間違いなく大成功だ。愛する弟子が一人前に育ったという確かな証拠だ。
だけど同時に、それは「自分がいなくなっても、もうこの世界は大丈夫だ」という証明でもあった。
「リアンくん。あたしさ……やっぱり、すごく幸せだよ」
唐突な言葉だった。
「なんで、急にそんなことを?」
「急じゃないよ。毛布の中で動けない間、ずっと一人で考えてたの。あたしの人生、幸せだったかなって」
過去形で語るには、まだ早すぎる。
リス族の寿命が短いとはいえ、まだ残りがある。
あるはずなのだ。
「結論は……出ましたか?」
「うん、出た。すっごく幸せ。大好きな焼き栗があって、栗の雫があって、可愛いナナちゃんがいて……毎朝、リアンくんの美味しい紅茶がある。もう十分。あたしの人生、百点満点だよ」
「百点をつけるのは早いですよ。これから先、もっと点数が上がるかもしれないのに」
「えー、百点以上ってあるの?」
「……ないかもしれないし、あるかもしれません」
「どっちよ、もう」
「分からないんです。僕もまだ、探してるから」
ミーシャは空になったカップをカウンターに置いて、勢いよく立ち上がった。
羽織っていた毛布を脱ぎ、見慣れた屋台のエプロンを手に取る。
「よしっ。屋台行ってくる! ナナちゃんに、栗のポタージュの新しいコツ、早く教えなきゃ!」
「もう動いて大丈夫なんです?」
「平気平気! リアンくんの紅茶飲んだら元気になって来た!まだまだ走れるよ!」
ミーシャは弾むように出ていった。小走りで。
以前より少しだけ歩幅の狭い小走り。背中の尻尾が揺れている。
弱々しいけれど、確かに嬉しそうに。
一人になってから、僕は三つのカップを洗った。
ミーシャのカップ。ナナのカップ。僕のカップ。
この三杯の朝が、あといつまで続くのかは誰にも分からない。
ただ、完璧な一杯を淹れる。明日も、明後日も。
カウンターの端にあるコンラートの空席が、今日も静かに店を見守っている。
春が来る前に、もう一度この過酷な冬を越えなければならない。
僕は静かに息を吐き、明日の朝の三杯を想った。




