第七十八話 リス族は駆け抜ける
季節がまた静かに回った。
この街に来てから、いくつもの夏が過ぎ、いくつもの冬を越え、そしてまた柔らかな春が巡ってきた。
リンデンブルクでの年月は、ヴァルシュタイン大公邸にいた頃とは時間の流れ方が全く違うように感じる。
大公邸では季節の変わり目ごとに必ず大規模な夜会や祭事があり、それが明確な時間の区切りとなって人々の記憶に刻まれていた。
だが、この職人の街では、毎日の金槌の音とパンの焼ける匂いが、途切れることなく滑らかに繋がっている。
昨日と同じ今日を懸命に生きているうちに、気づけば足元に一年という歳月が静かに降り積もっているのだ。
ミーシャの屋台は驚くほど繁盛していた。
彼女が完成させた栗の雫は、完全にリンデンブルクの名物として定着し、秋風が吹き始めると広場の噴水前には長蛇の列ができるようになった。
冬場には栗の濃厚なポタージュも追加し、これも冷えた職人たちの体を温めると大いに当たった。
今や「焼き栗のミーシャ」は、この活気ある自由都市の顔の一つであり、商工組合の重要な会合にまで顔を呼ばれるほどになっていた。
だが。
どれほど屋台が繁盛し、街の風景に溶け込もうとも。
ミーシャの身体の時間は、残酷なほど正確に、そして人間よりもずっと早い速度で進み始めていた。
最初に気づいたのは彼女の手だった。
熱い栗の殻を剥く速度が、明らかに落ちたのだ。
かつては魔法のように手早く、リズミカルに皮を弾いていた指先が、ほんの少しずつ……けれど確実に手間取るようになっている。
本人は「冬の寒さで指がかじかんでるだけだよ」と笑って誤魔化したが、暖かな春の日差しが降り注ぐようになっても、速度が元に戻ることはなかった。
次に気づいたのは、彼女の大きな尻尾。
ミーシャの尻尾は彼女の感情そのものを表す嘘のないバロメーターだ。
嬉しい時はちぎれんばかりに左右に振れ、美味しい時はポンと爆発するように膨らみ、悲しい時は力なく垂れ下がる。
その豊かな動きが、全体的に少し鈍くなったのだ。
美味しいと膨らむけれど、以前ほどふんわりとは広がらない。嬉しいと振れるけれど、左右に揺れる幅が明らかに狭くなっている。
そして輝くようだった毛並みも、少しだけ艶を失い始めていた。
リス族の老化は人間のそれよりもずっと速い。
彼女の種族の平均的な寿命から考えれば、今のミーシャはとうに人生の折り返し地点を過ぎており、人間で言えばすでに初老と呼ばれるような時期に差し掛かっている。
僕は変化に気づいても何も言わなかった。
ただ、彼女の手首への負担を減らすためにカップの取っ手を少しだけ手前に向けて置き直すように。
冷えやすくなったであろう彼女の身体に合わせて、毎朝出すミルクティーの温度を僅かに高く設定した。
ミーシャが僕の静かな調整に気づいたのか、気づかなかったのかは分からない。
彼女は何も言わずに、毎朝僕の淹れるその温かい紅茶を美味しそうに飲み続けた。
♢ ♢ ♢
ある秋の終わりの午後。
屋台を早々に片付けて歯車猫亭にやってきたミーシャは、いつもと少しだけ様子が違った。
いつものテラス席ではなく、店内のカウンターにちょこんと座ったのだ。
背中の尻尾は、まっすぐ下に下がっている。
悲しい時のサインかと思ったが──いや、違う。
これは『真剣な時』の尻尾だ。悲しい時と真剣な時では、尻尾の垂れ方が微妙に違う。
真剣な時は垂れ下がった尻尾の先端だけが、緊張を孕んで小さく震えているのだ。
「リアンくん。相談があるの」
「なんでしょう」
ミーシャは木製のカウンターに両肘をついて、僕の顔をまっすぐに見つめた。
その目には、かつて大公邸で見たフィレーネの決意にも似た、強い光があった。
「あたし……弟子を取ろうと思って」
「弟子……ですか?」
「うん。屋台の。焼き栗と、栗の雫のレシピを誰かにちゃんと教えたいの」
言葉の意味を僕は瞬時に理解した。
理解したくはなかったが、彼女の真意を完璧に読み解いてしまった。
「……まだ、早くないですか?」
「早くないよ。リアンくんだって気づいてるでしょ、最近、あたしの手がすごく遅くなったこと。自分でもハッキリ分かるの。指先の感覚がね、ちょっとずつ鈍くなってる。一番美味しい焼き加減の微調整が、前みたいに上手くできなくなってきたんだ」
焼き加減。
栗の表面が熱で弾ける直前の、一瞬を見極める職人の技術。
ミーシャはそれを、目で見るのではなく耳で聞いていた。殻が熱で軋む微細な音の変化で、最高の焼き上がりを判断していたのだ。
その絶対的な耳の感覚すらも、老いによって鈍り始めている。
「リス族はね、リアンくん。ぱたっと来るんだ」
「ぱたっと……」
「うん。人間みたいに、何年もかけてベッドの上でゆっくり衰えていくんじゃなくて……ある日、本当にいきなり来るの。おばあちゃんもそうだったんだよ。昨日まで元気に笑って走り回ってたのに、ある朝起きたら急に立てなくなってて……そこから、季節が一つ変わる前に、あっという間にいなくなっちゃった」
季節が一つ変わる前に。
僕は何も言えなかった。
フィレーネは長い長い年月をかけてゆっくりと老いていった。
コンラートもヴィルヘルムも、数年という時間をかけて少しずつ、少しずつ衰えていった。
緩やかな老いの坂道が、見守る僕たちに準備する時間を与えてくれた。心の覚悟を固め、後悔のないようにお別れをするための猶予をくれたのだ。
でも、ミーシャにはそれがない。
ぱたっと来る。
昨日まで美味しそうにミルクティーを飲み、嬉しそうに尻尾を振っていた子が、ある朝突然、動かなくなる。
そんな残酷なカウントダウンを、彼女は笑顔の裏でずっと一人で抱えていたのだ。
「だからね、まだあたしが元気なうちに、ちゃんと教えたいの。お弟子ちゃんが一人前になるまで、あたしが隣でしっかり見ててあげたい。ぱたっと来てからじゃ、遅いからさ」
「弟子の心当たりは、あるんです?」
「うん。広場でいつも栗を買いに来てくれる女の子がいるの。猫族のね。まだあどけなさが残ってる子なんだけど、毎回あたしの手元をじーっと真剣に見てるの。きっと、焼き方にすごく興味があるんだと思う」
「猫族ですか。手先は器用そうですね」
「でしょ? 今度、思い切って声かけてみる!」
ミーシャの尻尾が小さく左右に揺れた。
昔ほどの勢いはない弱々しい揺れだけれど、確かに振れている。不安と期待が半分ずつ混ざった、彼女らしい前向きな揺れ方だった。
「リアンくん、お願いがあるの」
「何ですか?」
「あたしがお弟子ちゃんに教えてる間……これからも毎朝の紅茶、続けてくれる?」
「もちろんです。弟子の分も、二杯お淹れしますよ」
「ううん。三杯」
「三杯?」
「あたしと、お弟子ちゃんと……リアンくんの分。三杯ね」
ミーシャが、まっすぐな目で僕を見た。
「リアンくん、いつも自分の分は淹れないでしょ。他の人のために一生懸命淹れて出すばっかりで。たまには、みんなと一緒に座って飲もうよ」
図星だった。
この歯車猫亭では毎日何十杯も完璧な紅茶を淹れて客に出しているが、僕が自分のために紅茶を淹れて飲むのは客が全員帰った閉店後に、薄暗い店内で一杯だけだ。
彼女が何を思ってそんな提案をしているのかは……。
分かってしまう。
「わかりました。三杯ですね」
「約束だよ」
「えぇ、約束です」
ミーシャはスツールから立ち上がり重い扉を開ける直前に、もう一度振り返った。
「ねえ、リアンくん」
「はい?」
「もし、あたしがいなくなっても……お弟子ちゃんに、美味しい紅茶を淹れてあげてね。あたしの代わりに」
声は明るかった。
普段と何も変わらない、広場で客を呼ぶ時の元気な声。
だが、瞳だけは違っていた。
瞳だけが、ずっと遠くの景色を見ていた。
──自分がいないリンデンブルクの未来を、すでにはっきりと見据えている目だ。
「約束だよ、リアンくん」
「……約束します」
最後の栗を焼く日まで、毎朝紅茶を飲むこと。
弟子にも、そして僕自身の分も一緒に紅茶を淹れること。
そして——彼女がいなくなった後も、それを続けること。
真鍮のベルがカランと鳴って、ミーシャが秋の風の中へ出ていった。
さっきまでミーシャが座っていた座面には、彼女の確かな温もりが、まだほのかに残っていた。
♢ ♢ ♢
一人になったカウンターに戻って、僕はミーシャが飲み干したカップを洗った。
いつもよりも、ゆっくりと洗った。
カップの縁にこびりついたミルクティーの白い痕が、冷たい水で流されて静かに消えていく。
毎日毎日、当たり前のように繰り返してきた動作だ。そしてこれからも繰り返す。
僕はあと何回、ミーシャのカップを洗うことになるのだろうか。
「数えるな」
誰にともなく、声に出して自分に言い聞かせた。
残りの日数を数え始めたら、一杯ごとに重さに耐えられなくなる。
数えるな。ただ、淹れろ。
彼女の時間がぱたっと来る、その日まで。
壁に並んだ時計たちが、カチコチと不揃いな音を鳴らしている。
ヴィルヘルムの残した小さな置き時計が、こち、こち、と角のない丸い音を刻んでいる。
カウンターの端にあるコンラートの空席が、誰も座らないまま静かに店全体を見守っている。




