第七十七話 春に足音が増える
春の気配が色濃くなり、街から雪が完全に溶けきったある日。
ヒルダの孫がリンデンブルクに帰ってきた。
名前はグレゴールといった。
赤茶けた立派な髭は祖母ゆずりだが、体格はヒルダよりもさらに一回りも二回りも大きい。
身長は僕の倍近くあるというのに、腰を深く屈めて歯車猫亭の扉をくぐる仕草は遠慮がちで、不器用な優しさが滲み出ていた。
彼の後ろからは、嫁であろう同じくドワーフの、肩幅の広い寡黙な女性と、幼い子供たちが二人ついてきた。男の子と女の子だ。
「おばあちゃん!」
子供たちが、店に入るなりヒルダに飛びついた。
ヒルダは椅子から立ち上がる暇もなく、両膝の上にひ孫たちを一人ずつ受け止めた。
ドワーフの骨格は本当に頑丈だ。途方もない年月を生きた老婆であっても、幼い子供たちの勢いを平気で支え切る。
「大きくなったねえ……」
ヒルダの目が赤かった。また泣いている。
だが今日の涙は、冬の寒い日に手紙を握りしめて流していた涙とは違う。
涙が乾く前に破顔の笑顔が追いかけてくる、せわしなくて、最高に温かい涙だ。
グレゴールはカウンター越しに僕を見下ろした。
横幅が圧倒的で、カウンターの前に立つと分厚い岩壁のように見える。
「あんたが、リアンか」
「はい」
「ばあちゃんの手紙に毎回出てくるんだ。紅茶の坊やが、紅茶の坊やがってな。どんな男かと思ったら」
「見ての通り、ただの坊やです」
グレゴールは一瞬きょとんとして、それから腹の底から豪快に笑った。
ドワーフの笑い声はよく響く。壁の時計たちが、声量に押されてかすかに振動するほどだった。
「気に入った。一杯もらえるかい」
「何がいいですか?」
「任せる。ばあちゃんが美味いって言うなら、何でも美味いだろう」
僕は歯車猫を淹れて出した。
グレゴールは分厚い手でカップを包んで一息に飲んだ。ドワーフらしい豪快な飲み方だ。
繊細に味わうというより、生命力として身体の奥に直接流し込むような。
「……なるほど。ばあちゃんが毎日通うわけだ」
「お口に合いましたか」
「わしは舌の細けえことはわからん。だが、身体の芯から温まるのは分かる。いい茶だ」
嫁のドルテにも一杯出した。彼女はグレゴールと対照的に、一口ずつ時間をかけて丁寧に味わって飲んだ。
子供たちにはミルクをたっぷりと入れた、甘いミルクティーを。男の子は一口飲んで「あまい!」と満面の笑みで叫び、女の子はこくこくと無言で一気に飲み干した。
狭い歯車猫亭にドワーフの家族たちとヒルダが収まると、もう店内の空間に余裕はほとんどない。
だが不思議と窮屈には見えなかった。騒がしくて、温かくて、椅子の足同士がぶつかる音さえも心地よく賑やかで。
ヒルダが僕を手招きした。
「ちょっとおいで」
カウンターから出て彼女の横に立つと、老婆は僕の小さな手を取ってグレゴールの分厚い手にそっと重ねた。
「この子はね、あたしの大事な坊やだ。コンラートが死んでから、この店をたった一人で守ってる。あんたたちがいない間、あたしの居場所をずっと守ってくれた恩人だよ」
「ばあちゃん……」
「だから、これからよろしくしてやんな」
グレゴールの手は熱かった。硬くて大きくて、僕の手がすっぽりと隠れてしまった。
「よろしく頼む、リアン」
「よろしくお願いします、グレゴールさん」
握手は短かったが、込められた力だけは十分すぎた。僕の指が軋む。ドワーフの握力を舐めてはいけない。
♢ ♢ ♢
グレゴール一家は、ヒルダの家で暮らすことになった。
ずっと空っぽだった椅子たちが、ついに埋まったのだ。
朝になれば子供たちの走り回る元気な足音が通りに響き、夕方にはグレゴールの太い笑い声が窓から漏れてくる。
ヒルダが変わった。
歩き方が変わった。丸まっていた背筋が少しだけ伸びて、杖をつくリズムが驚くほど軽やかになった。
長い年月を経た身体が急に若返るはずはないのに、足取りと纏う空気が生き生きと若返っている。
「今日はこの子と一緒に来たよ」
ある日の午後、ヒルダがひ孫──マーレンを連れてきた。赤茶けた髪を二つに結んで、ヒルダと同じ深い目をしている。
マーレンはカウンターの端に置かれたあの小さな置き時計を見つけて、じっと見つめた。ヴィルヘルムが作り、コンラートが遺した時計だ。
「おばあちゃん、これ、なに」
「時計だよ」
「どうしてうごいてるの」
「中に小さな歯車がたくさん入ってるんだ。それが噛み合って回るから、針が動くのさ」
「だれがまわしてるの」
「この坊やが、毎朝ちゃんとネジを巻いてるんだよ」
マーレンの碧い目が、僕を見上げた。
まっすぐで、遠慮がなくて、世界の何もかもを初めて見るという純粋な目。
「……」
遠い昔のシャルロッテの幼い頃に少し似ている。
似ているけれど、違う。目の色が違うし、耳の形が違うし、何より種族が違う。
「おにいちゃん、まいにちまわすの?」
「毎日だよ」
「つかれない?」
「疲れないよ。決められた回数だけ、少し回すだけだから」
「きめられた、かいすう」
マーレンは小さな手で、見えない鍵を回すように手首をくるくると動かした。
決められた回数には程遠い、ぐるぐるとした果てしない動きだったが、本人の表情は真剣そのものだった。
「おにいちゃん、おちゃちょうだい」
「キミには普通の紅茶はちょっと苦いかも。ミルクたっぷりのにする?」
「みるくたっぷり!」
温かいミルクに、紅茶をほんの数滴だけ落とした。ただの温かいミルクだが、香りだけはほんのりと紅茶のふくよかさがある。
マーレンは小さな両手でカップを包んで、一生懸命に息を吹きかけてから、そっと一口飲んだ。
「おいしい」
幼い子供の「おいしい」は、世界で一番正直な味覚評価だ。
気取ったお世辞もなければ、理屈っぽい分析もない。舌が感じたままの、純粋で絶対的な一言。
ヒルダが僕を見て、心底嬉しそうに笑った。
皺だらけの顔全体が柔らかく緩んでいる。冬の寒い日に、一人で便箋を握りしめていた時の顔とは全然違う。
あれは過去を振り返る顔だった。今の彼女は確かな未来を見ている顔だ。
「坊や。あたし、長生きして本当に良かったよ」
「まだまだ長生きしてくださいよ」
「するよ。この子がもう少し大きくなるまではね」
もう少し。ドワーフの長い寿命を考えれば、ヒルダにはまだたっぷりと余裕があるはずだ。
マーレンが大人になるのを見届けるには、十分な時間が。
十分だ、と……僕は自分に強く言い聞かせた。
♢ ♢ ♢
夕方、ミーシャが屋台を畳んでやってきた。
店に入るなりマーレンの姿を見つけた瞬間、彼女は目を輝かせて駆け寄った。
「わあ、かわいい! ヒルダおばさんのひ孫ちゃん?」
「そうだよ」
「ひ孫!? すごい! ねえねえ、お名前は?」
「まーれん!」
「マーレンちゃん! あたしはミーシャ! 広場で焼き栗と栗の雫の屋台やってるの! 今度ぜったい食べに来てね!」
ミーシャの大きな尻尾が、ちぎれんばかりに左右に振れている。すこぶる嬉しい時の振り方だ。
マーレンはミーシャの尻尾に興味津々で、ふさふさの先端を小さな指でつんつんと触っている。
「ふわふわ!」
「でしょー? 冬になると、もっとふわふわになるんだよ!」
歯車猫亭が賑やかだった。
コンラートがいた頃とは違う賑やかさだ。
あの老人は、店の静寂を何よりも愛し、守る人だった。
うるさい客は睨みつけ、おしゃべりな常連は鼻を鳴らして黙らせ、茶店としての凛とした品格を頑固に維持していた。
今は違う。
幼い子供の弾むような声が響き、ドワーフの太い笑い声が壁を揺らし、リス族の尻尾がテーブルの上のカップを危うくなぎ倒しかける。
コンラートが今のこの惨状を見たら、「ここは託児所じゃないぞ!」と真っ赤になって怒鳴るだろう。
──でも。
カウンターの端にあるコンラートの空席は、その喧騒を一番よく見守れる角度に置いてある。
文句を言いながらも、この店を去っていった客たちのことを一人残らず覚えていた、不器用な老人の椅子。
きっと、大声で怒鳴りながらも……心の底では嫌じゃないと思う。
たぶん。
♢ ♢ ♢
閉店後、一人になって、壁の時計たちのネジを順番に巻いた。
最後に、カウンターの上のヴィルヘルムの置き時計。
あの日教わった、決められた回転数。
こち、こち。
角のない丸く優しい音が、静寂を取り戻した店内にぽつりと落ちていく。
僕は店内の椅子を見渡した。
限られた数の客席。そして、コンラートの空席。
今日この店に来てくれた人たちの顔を数えた。
午前中には名も知らぬ旅人たちが数人、冷たいお茶を飲んで帰っていった。
冬の日にヴィルヘルムが旅立ち、椅子が一つ空いた。そこにルッツが座るようになった。
そしてコンラートが旅立ち、また一つ空いた。でもその席は誰かが座るのではなく空いたままだ。
その代わりにマーレンという小さな存在が、この店に新しい足音を連れてきてくれた。
入れ替わるのではない。重なっていくのだ。
失った分が元通りに戻ることはない。
でも、新しい分がその上に静かに積もっていく。地層みたいに。
僕を形作っている地層は……。
一番下にフィレーネがいて、その上にアレクシスがいて、シャルロッテがいて、ヴィルヘルムがいて、コンラートがいて。
そして一番上にマーレンの小さな足跡が、今日新しく載った。
僕は全部を寸分違わず覚えている。
忘れない。忘れられない。
ハイエルフの記憶は決して消えることがない。
それが残酷な呪いなのか、それとも美しい祝福なのか……その答えは、まだ出ない。
答えが出ないまま、僕は明日も時計のネジを巻くのだ。
重い扉を閉めて、真鍮の鍵をかけた。
春の夜風が頬を撫でた。
大通りの菩提樹の若葉が街灯の温かい光を透かして、緑色のさざ波を石畳の上に落としている。
遠くの路地から、マーレンの無邪気な笑い声が聞こえたような気がした。
もう家に着いているはずなのに、まだ声が届く。ドワーフの子供の元気な声は、本当によく響く。
夜の石畳を歩きながら、自分の口元が緩んでいることに気がついた。
ついこの間まで、コンラートのノートを見て泣いていたばかりなのに。もう笑っている。
順番がなんだかおかしい。
でも、そういうものなのかもしれない。
終わりと始まりはいつも隣り合っていて、泣くことと笑うことは交互にやってくるのだ。
菩提樹亭の自室に着いて、重い木の窓を開け放った。
明日の朝、僕は紅茶を何杯淹れることになるだろう。
ミーシャの一杯は確定だ。ヒルダが来れば二杯。マーレンが来れば三杯──いや、あの子にはほぼミルクだから、半分と数えるべきか。
そんな計算をしながら、僕は眠らない静かな夜を過ごした。
杯数を数え、明日を思い描いている間は……僕の心は温かく、軽かった。




