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転生エルフ執事は、何度でも主人の最期に紅茶を淹れる ~不老不死の悠久のお仕えスローライフ~  作者: 季未
第六章 止まらない時計とハイエルフ

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第七十五話 歯車猫亭は、閉まらない

冬の凍てつく寒さが頂点に達する頃。


コンラートが二階から降りてこなくなってから、しばらくの時が過ぎた。


店は僕が開けて、僕が閉める。


仕込みから会計まで全て一人でこなすが、特に困ることはなかった。


半世紀以上もの間、大公邸で厨房から庭園管理まであらゆる業務に手を出してきた人間が……いや、人間じゃないけれど、小さな茶店の一つを回せないわけがない。


問題はコンラートの身体だった。


食事は僕が毎日作って運んでいるが、食べる量は日に日に減っていた。


朝はスープを少し口をつけるだけ。昼は柔らかいパンをひと齧り。夜に至っては、ほとんど手をつけない日も増えた。


だが、紅茶だけは飲む。


先日名前のついた歯車猫を、決まった時間に必ず。


彼が導き出した、微かに低い究極の温度と少し長めの正確な蒸らし時間で淹れた一杯を。


「味が落ちたな……」


「えっ……?昨日と全く同じ淹れ方ですが」


「わしの舌が落ちたんだ。お前のせいじゃない」


自分の決定的な衰えを、淡々と静かに認められる人間が他にいるだろうか。


フィレーネは最後まで抗っていた。自分の弱る体を悔しがり、春を待ち望んでいた。


衰えを認めることと、静かに受け入れること。この二つは似ているようで全く違う。


コンラートは完全に受け入れているのだ。


冬がさらに深まったある日、僕は二階に紅茶を運びながら、ついに切り出した。


「お医者を呼びましょうか」


「要らん」


「でも……」


「要らん、と言った。わしは病気じゃない。ただ古くなっただけだ。古びて香りの飛んだ茶葉を医者に見せても、新しく摘み立てには戻らん」


反論できなかった。


彼の言う通りだ。人間の老いは病気ではない。


治療して治す対象ではなく、ただ静かに受け止めるしかない自然の現象だ。


フィレーネの時も……。


「だが……」


コンラートが、小さく付け加えた。


「一つだけ、頼む」


「……承ります」


「店を続けてくれ」


コンラートの目は真っ直ぐだった。


ベッドの上に横たわり、自力で起き上がることすら困難になっているというのに、視線だけは確固として立っていた。


何十年もの間、この店を守り抜いてきた職人の意地が、細い目の奥で静かに、けれど強く燃えている。


「わしが死んでも、店を閉めるな。名前も変えるな。歯車猫亭はわしの店だが、わしが死んだら、その日からお前の店だ」


「僕の……?」


「嫌か」


「嫌じゃないです。でも、僕が……」


「長く生きるんだろう。人間の何倍も」


言葉が喉の奥で詰まった。


「長く生きるなら、長く続けてくれ。わしの紅茶は正直大したことなかったが、お前が淹れる紅茶は悪くない。それを出す場所がこの街からなくなるのは、もったいない」


──もったいない。


かつてミーシャが、冬眠で動けない日々をもったいないと言って泣いたのと同じ言葉だ。


奇妙な一致。短い命を懸命に生きる者も、終わりを静かに迎える者も同じ言葉を使う。


「休んでもいい。ずっと店を開け続ける必要もない。ただ──閉めないでくれ」


「……かしこまりました」


「その返事だ……それで、いい」


コンラートは満足そうに目を閉じた。呼吸がゆっくりと穏やかになる。


眠りに落ちたのだ。


僕は空になったカップを手に持ち、音を立てないように静かに階段を降りた。




♢   ♢   ♢




季節が少し進んだ。


常連客たちは、コンラートの不在を自然に受け入れていた。


いや、受け入れたというより僕が毎日店を開けてカウンターに立っていることで、彼らの日常がギリギリのところで維持され、不在の重さが分散されているのだろう。


ヒルダは毎日やって来た。そして以前のように白湯ではなく、紅茶を頼むようになった。


『歯車猫』を。


「しかし、このお茶の名前面白いね」


「コンラートさんがつけました」


「いい名前だ。あの偏屈爺さんにしては上出来だよ」


ミーシャも毎日、屋台の前後で顔を出した。ミルクティー。


屋台の繁盛ぶりを嬉しそうに報告する彼女の甲高い声が、店内に響き渡る。


コンラートがいた頃は「うるさい、静かに飲め」と叱られていたその声が、今では歯車猫亭の時計の音に代わる、温かい生活音になっていた。


トビアスも頻繁に来店した。ダージリンを飲みながら、言葉少なにコンラートの具合を聞く。


僕が「変わりません」と短く答えると、彼はただ深く頷いて、それ以上は決して踏み込んで聞こうとしない。


新聞記者としての矜持か、それとも現実を聞くのが怖いのか。


たぶん両方だろう。


無口な犬族のルッツも、毎日欠かさず来た。


アッサムの濃いめを黙々と飲んで、しばらくして帰る。その帰り際、カウンターに必ず硬貨を一枚余分に置いていくようになった。


チップのつもりか、コンラートへの見舞金か。


最初は遠慮して断ろうとしたが、ルッツの真っ直ぐな獣人の目が「黙って受け取れ」語っていたので、ありがたく頂戴することにした。




♢   ♢   ♢




冬の終わりが見え始め、積もった雪が少し緩んだ日の午後。


僕が一人でカウンターを拭いていると、二階から微かな音がした。


コンラートの声だった。


僕を呼んでいるのではない。独り言だ。


何を言っているのか、ハイエルフの優れた聴覚なら階下からでもはっきりと聞き取れてしまう。


「……右の棚の三番目、ダージリンのセカンドフラッシュ。蒸らしの時間は……いや、今日のこの湿度なら、ほんの少し短めか。客は……午後はいつもの面々。ヒルダには白湯じゃなく歯車猫。嬢ちゃんにはミルクティー。トビアスにはダージリン。ルッツには濃いめのアッサム。それと……」


仕込みの正確な手順を、ベッドの上で一人呟いているのだ。


階下へ降りられない。自分の足で立てない。道具を握る手も動かない。


でも、彼の頭の中では、何十年と繰り返してきた『いつもの朝』が、今も鮮明に繰り返されている。


茶葉を丁寧に量り、湯を完璧な温度に沸かし、客のその日の体調や好みを一瞥で確認し、最高の一杯を淹れ続けている。


「……」


僕は階段の下で、じっと立ち尽くして聞いていた。


フィレーネの時と同じだ。大切な人が命の炎を燃やし尽くそうとしている姿は、何度見ても胸が張り裂けそうになる。


泣くな、と自分に強く言い聞かせた。


泣いたら、手が狂う。


完璧に制御された湯の温度が、指先の震えでほんの僅かにずれてしまう。


僅かな温度の誤差、数秒の狂いが、彼の愛した紅茶の味を台無しにしてしまう。


だから泣くな。


完璧に淹れろ。


深く息を吸い込んで、カウンターに戻った。


ダージリンのセカンドフラッシュ。蒸らしは指示通り、少し短め。


二階から聞こえたコンラートの独り言の通りに、僕は一杯ずつ丁寧に淹れていった。


午後、いつもの常連たちがやって来た。


ヒルダ、ミーシャ、トビアス、ルッツ。


そして今日はもう一人、書店主であるエーベルトが珍しく顔を出した。


「コンラートさんは?」


「二階で休んでいらっしゃいます」


「そうか。……では、紅茶を一杯頼む」


僕は全員分と、二階のコンラートのための分を淹れた。


あの時彼が導き出した、少し低めの温度。長めの蒸らし時間。


歯車猫。


階段を上がって部屋に入ると、コンラートは静かに目を開けていた。


「何杯、淹れた」


「全員分と、貴方の一杯です」


「客はいつもの面々か」


「はい。書店主のエーベルトさんが久しぶりに見えました」


「あいつは久しぶりだな。何を出した」


「歯車猫を」


「ふいきなり歯車猫を出すとは、度胸があるな」


「コンラートさんなら、何を出しましたか?」


「……同じだ」


コンラートは震える手で紅茶を受け取って、ゆっくりと一口飲んだ。


そして、深く目を閉じた。


「……温度は、例の低めの設定か」


「はい」


「蒸らし時間も、長めだな」


「はい」


「合ってる」


それだけだった。


点数はつけなかった。褒め言葉もなかった。


ただ「合ってる」とだけ。


それが、不器用な職人であるコンラートからの最大の賛辞なのだと、この店で過ごした数年で僕はようやく理解できるようになっていた。




♢   ♢   ♢




季節が巡り、春が来た。


雪が完全に溶け始めたうららかな朝。


僕はいつも通り、夜明け前に歯車猫亭の裏口を開けた。


暖炉に火を起こし、壁とカウンターの時計たちのネジを丁寧に巻き、水瓶の水量を確認する。


それから、出来立ての紅茶を持って階段を上がった。


歯車猫。彼の指定した完璧な温度と時間。


コンラートの部屋の扉を開けた。


「コンラートさ……」


彼は、窓の方を向いていた。


目は、静かに閉じていた。


「……」


顔はこれ以上ないほど穏やかだった。


呼吸は──なかった。


僕は持っていたカップを、ベッド脇の小さなテーブルにそっと置いた。


彼が右手で取りやすいように、取っ手を手前に向けて。


階下では、僕が先ほどネジを巻いたばかりの時計たちが、カチコチと不揃いな音を刻み続けている。


ただ、この部屋にあるコンラートという名の、長い年月を刻み続けた一つの時計だけが、静かに動きを止めていた。


「……おはようございます、コンラートさん」


返事はなかった。


置かれた紅茶から、温かい湯気が立ち上る。


白い筋が天井に向かって真っ直ぐに伸びて、やがて冷たい空気に溶けて、消えた。


僕はベッドの傍らに立ち尽くしていた。


どのくらいそうしていたのか分からない。ほんの数分かもしれないし、一時間以上経っていたかもしれない。


ハイエルフの悠久の時間感覚は、こういう悲しみの瞬間に限って全くあてにならなくなる。


ただ、フィレーネの時とは違う。


もっと静かで、深く澄んだ喪失感だった。


不器用で、口が悪くて、でも誰よりも紅茶と店を愛した職人の立派な最後だった。


やがて、僕はゆっくりと階段を降りた。


カウンターの中に立ち、エプロンをきつく締め直す。


冷めたポットの湯を捨て、新しく新鮮な水を沸かし直す。


そして、重い木製の扉の鍵を開けた。


真鍮のベルが、カランと高く鳴った。


彼の残した歯車猫亭は、今日も開いている。


そして、明日も。その先もずっと。

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