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転生エルフ執事は、何度でも主人の最期に紅茶を淹れる ~不老不死の悠久のお仕えスローライフ~  作者: 季未
第六章 止まらない時計とハイエルフ

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第七十四話 コンラートの、最初で最後の百点

年が明けて、冬の凍てつく寒さがより一層深まった。


コンラートの足が止まった。


正確には、止まったのではなく店まで降りて来られなくなった。


寒さが一番厳しい時期。雪が何日も降り続いた朝、裏口にいつもの重い足音が聞こえなかった。


ミーシャの時のことが胸をよぎったが、質が違う。


ミーシャのそれは少し毛布にくるまっていれば治るものだ。だが、コンラートのそれは治らない。


コンラートの家は歯車猫亭の二階だった。


毎朝、階段を降りてくる。


──そのたった数十段の階段が、もう降りられないのだ。


軋む階段を上り、二階へ向かった。


部屋は想像通りだった。余計な物が一切なく、清潔で、そして……壁に時計は一つもなかった。


一階の店で十分に不揃いな音に囲まれているから、自室にまであの音は要らないということだろうか。


窓際に簡素なベッドがあり、横に古びた椅子が一脚。小さなテーブルの上に、読みかけの本と眼鏡が置かれているだけ。


コンラートはベッドに腰かけていた。


寝ているのではなく、座っている。背筋はピンと伸びている。自分の足で立ち上がることができないのだ。


「おはようございます」


「……遅い。わしが降りられんのだから、お前が上がってくるのが筋だろうが」


理不尽だ。いつも通りの偏屈な理不尽さに、僕は少しだけ安心した。


憎まれ口が叩ける限り、この老人はまだ大丈夫だ。


「朝の紅茶、持ってきますね」


「待て」


コンラートの声が少しだけ変わった。不機嫌な低音はそのままだが、奥に別の何かが混じっている。静かで、どこか覚悟を決めたような声。


「お前に、見せたいものがある」


老人はベッドの横の床板を指さした。


「そこを外せ」


言われた通り、床板を持ち上げた。下には小さな空洞があり、中に木箱が収まっていた。


埃が薄くかかっている。長い間、誰の目にも触れず開けられていなかったのだろう。


木箱を取り出して、コンラートの膝に置いた。


老人はしわだらけの震える手で、ゆっくりと蓋を開けた。


中には分厚いノートが一冊。


革の表紙で、角がすり切れている。


開くと几帳面な文字がびっしりと並んでいた。


茶葉の種類、産地、焙煎の度合い、湯の温度、蒸らし時間、その日の気温や湿度、そして客の反応。


膨大なデータが、古い年月から順に事細かに記録されている。


「これは……」


「この店を開いてからずっと書き溜めてきた記録だ」


長い長い年月。彼がこの店を開店したあの日から今日まで。


コンラートが一杯一杯、紅茶を淹れるたびに書きつけてきた、彼の人生の全記録。


ページをめくった。


最初の方のページは字が若い。力強くて角張っている。中盤になると落ち着いて、丸みを帯びてくる。


そして終盤は──線が震えている。店の帳簿と同じだ。ペンを握る手の力が確実に落ちている。


だが、最後のページまで記録は決して途切れていない。つい昨日の日付まで、しっかりと書き込まれている。


「これを、お前にやる」


「え?」


「わしの人生そのものだ。茶葉の扱い方、季節ごとの繊細な調整、客の好み。全部書いてある。お前なら読めるだろう。わしの字が汚いのは我慢しろ」


汚くなんてなかった。


几帳面で、丁寧で、一文字一文字に紅茶への執念と愛情が滲んでいる。


僕がかつてフィレーネに書かせた帳簿と同じだ。ただの数字や文字の奥に、その人の懸命な人生が透けて見えている。


「コンラートさん。これは、あなたの──」


「わしの宝だ。だからお前に預ける。金庫にただしまい込む宝は死んだ宝だ。使える人間に渡すのが、宝の正しい扱い方だろうが」


かつて、ヴィルヘルムの遺した工具を鍛冶組合の博物館に寄贈した時のことを思い出した。


道具は使われてこそ道具だと、あの老時計師も同じように考えていたのだろうか。


ノートを受け取った。


ずしりと重い。ただの革の表紙と紙の束の重さだけではない。


「……ありがとうございます」


「礼はいい。その代わり、一つ頼みがある」


「えぇ何でも」


「今日、一杯だけ淹れてくれ。ここで」


「それは、もちろん」


「わしが全てを指定する。茶葉も、温度も、蒸らしも、全部わしが言う通りにしろ。お前の判断は一切入れるな」


珍しい注文だった。


いつもなら僕の裁量に任せるか、出来上がりに文句を言うかのどちらかだ。最初から全てを細かく指定してくるのは初めてだった。


「分かりました」


階下に降りて、湯を沸かした。コンラートはこう言った。


「丘陵産の無名。葉の量は少しだけ少なめに。湯温はいつもより僅かに低く。注ぐ速度は極めてゆっくりと時間をかけろ。蒸らしはやや長めに。カップは白磁の薄縁。温めはしっかりと」


僕がいつも淹れている温度より僅かに低く指定した。蒸らしも少し長い。


普段の僕の計算された判断とは違う。だが、言われた通りに完全に指示に従った。


階段を上がって、その一杯を差し出した。


コンラートは両手で受け取った。震える指が白磁のカップを包む。


湯気が立ち上り、薄い冬の光の中で、金緑色の美しい液体がゆらゆらと揺れた。


一口。


老人の目が、静かに閉じた。


長い沈黙だった。


壁の時計がない部屋はどこまでも静かで、階下から店中の時計の不揃いな音が微かに聞こえるだけだ。


ゆっくりと目が開いた。


「……これだ」


「合っていましたか」


「合っている。昔、わしが初めてこの茶葉を飲んだ時の淹れ方だ。あの名も知らぬ農家の婆さんが持ち込んできた日に、直感で試した配分そのものだ。その時は……記録できなかった」


ノートの記録にはなかった。何故だろう。ノートを書く前に淹れた?


それとも……。


「いつもお前が淹れている温度より僅かに低く、蒸らし時間は少し長く指定した。ほんの微差だが、この茶葉はそこで表情が劇的に変わる。お前の淹れ方は合格点だったが、わしの最初の一杯は──ここだった」


コンラートはカップをゆっくりと傾け、最後の一滴まで空にした。


それから、僕を見た。


「──!」


いつもの不機嫌な顔ではなかった。この街に来てから初めて見る、憑き物が落ちたような穏やかな顔。


「最高の一杯だ……」


声が震えた。僕の喉が。


「最高、ですか」


「ああ。わしの完璧は、これだった。記録を付けてなかったばかりに、長い年月をかけて探して、結局一番最初の一杯に戻った。笑える話だろう……」


笑えなかった。


笑えるわけがない。


完璧な味を出したのは僕の腕ではなく、コンラートの記憶だ。


彼が追い続けた究極の味の正体が、一番最初の直感だったという、残酷で美しすぎる話だ。


「コンラートさん」


「何だ」


「この茶葉に、名前をつけませんか」


老人は首を傾げた。


「名前?」


「僕が初めてこの店に来た日、コンラートさんは言いましたよね。無名だから不味いとは限らない、と。でも、美味いなら名前があった方がいい。貴方の人生の最高の一杯に、名前を」


コンラートは天井を見上げた。しわだらけの喉が動いて、何かを深く飲み込んだ。


長い沈黙の後、老人は静かに言った。


「……歯車猫」


「店の名前ですか」


「わしの店の紅茶だ。なら、わしの店の名前でいい」


歯車猫。


丘陵産の無名の茶葉は、今日から歯車猫になった。


「いい名前です」


「当たり前だ。わしがつけたんだからな」


コンラートは空のカップをテーブルに置いて、ゆっくりとベッドに身体を横たえた。


「疲れた。少し寝る。店は任せた」


「はい」


「鍵は閉めるな。ヒルダが来たら、いつものお湯を出せ。ミーシャが来たら、あの嬢ちゃんにはミルクティーだ。トビアスにはダージリン。ルッツには濃いめのアッサム」


全員の好みを、正確に覚えている。


「かしこまりました」


また出た。僕の執事の返事。


コンラートは目を閉じたまま、薄く笑った。


「その返事、嫌いじゃない……」


階段を降りた。


重いノートを抱えて、カウンターの中に立った。


いくつもの時計がカチコチと鳴っている。カウンターの小さな置き時計が、こち、こちと優しく刻んでいる。


店を開けた。重い扉が開き、真鍮のベルが鳴った。


最初の客はヒルダだった。


「今日は白湯じゃなくて、紅茶を頼もうかね」


「珍しいですね。何がいいですか」


「あんたが一番美味いと思うやつを頼むよ」


迷わなかった。


丘陵産の茶葉を取り出した。湯温は僅かに低く。蒸らしは少し長めに。コンラートが教えてくれた、最高の一杯。


名前は、歯車猫。


ヒルダは一口飲んで、目を丸くした。


「あんた、また腕を上げたね」


「コンラートさんに教わりました。たった今」


「あの偏屈が、人に教えるなんてねえ」


ヒルダはゆっくりと飲み干した。いつもお湯しか頼まなかったドワーフの老婆が紅茶を一杯分、綺麗に完飲した。


空のカップを置く音が、やけに澄んで聞こえた。

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