第七十三話 雪の日に、ドワーフは手紙を読む
リンデンブルクの厳しい冬が、また静かに始まった。
僕がこの職人の街に流れ着いてから、何度目かの冬になる。歯車猫亭の朝の仕込みは、今では完全に僕の仕事になっていた。
すべての時計のネジを巻く。
壁に掛けられた時計たちはそれぞれ専用の大きな鍵で。そして、カウンターの上に置かれたヴィルヘルムの遺した小さな置き時計は、親指の先ほどの小さな鍵で。
カリ、カリ、カリ……カチャリ。
あの日教わった通り、過不足なく。
これ以上巻けば古いゼンマイが軋んで悲鳴を上げ、これ以下だと夕暮れを待たずに時が遅れる。
店中の時計が動き始めた頃、裏口から足音が聞こえてくる。
コンラートだ。
寒さが本格的になってから、彼の出勤時間は以前よりもずいぶんと遅くなった。
長年酷使した腰だけでなく、膝の軟骨もすり減っているのだろう。
雪の日は特に辛いらしく、裏口の僅かな段差を越える時でさえ、息が詰まるような苦しげな音が聞こえてくる。
僕は数日前、裏口の段差の前にこっそりと木製のすのこを敷いてスロープを作った。何も言わずに。
コンラートも、それを見ても何も言わなかった。ただ黙って、そこを通るようになった。
「今日の茶葉は」
コンラートが、いつもの定位置であるカウンターの奥の椅子に腰を下ろしながら低い声で尋ねた。
「ダージリンのファーストフラッシュが残り少ないですね。春の新しい入荷があるまでは、セカンドフラッシュで回そうと思います」
「セカンドで文句を言うような野暮な客は、うちにはおらん。お前の腕ならな」
褒められた──わけではない。
コンラートは味と客の反応という事実を淡々と述べただけだ。
この老人の言葉の裏に安易な感情や褒め言葉を期待するのは危険だと、この街での暮らしで嫌というほど学んだ。
彼は事実と感情を完全に分離して言葉にできる人種だ。
それは感情を言葉に乗せずにはいられなかった僕のかつての主人、フィレーネとは対極にいる生き方だった。
♢ ♢ ♢
午前中は凍える寒さのせいか客の入りが少ない。
僕は仕込みの合間を縫って、カウンターの端で店の帳簿を整理した。
コンラートの帳簿のつけ方は独特な記法で、最初は暗号の解読に苦労したが、今では完全に読める。
茶葉の仕入れ値、販売杯数、各種消耗品の交換時期。性格を表すような、隙のない几帳面な字だ。
ただし最近のページに書かれた数字は、少しだけ線が震えている。ペンを握る手の力が落ちている証拠だった。
コンラートに代わって僕が帳簿の計算も引き受けるようになったのも、少し前からのことだ。
これも「僕がやります」などとは何も言わずに始め、彼からも何も言われなかった。
言葉を交わさずとも、互いの領域が少しずつ静かに移行していく。
午後になり、ヒルダがやってきた。
いつもの席。いつもの分厚いマグカップに入れられた熱いお湯。
だが今日、彼女の胸元には、大切そうに抱えられた一通の手紙があった。
遠く西の鉱山街で暮らす、彼女の孫からの手紙だ。
いつもならたまにしか届かないはずの返事が、今月は続けて届いたのだという。
ヒルダはお湯を啜りながら、便箋を丁寧に広げた。
皺だらけの太い指が、薄い紙の端を折らないように慎重に扱っている。
「読んでいいかい」
「どうぞ」
ヒルダはいつも、誰かがいる場所──つまりこの店でしか孫からの手紙を読まない。
家で一人で読むことはあまりない。理由は聞いたことがないが、心情は痛いほどよく分かる。
とびきり嬉しい知らせであれ、絶望的な悲しい知らせであれ。
長く生きすぎた彼女の心にとって、一人きりの暗い部屋でそれを受け止めるのは重すぎるのだ。
彼女の背中には、もう一人で孤独に耐えるだけの余裕が残されていない。
手紙を読み進めていたヒルダの顔が、途中でピタリと止まった。
視線が何度も同じ行を往復している。
分厚い唇が微かに震え、声にならない言葉を何度も何度も繰り返している。
良い知らせか、それとも。
僕は茶器を布巾で磨く手を止めず、横目で静かに彼女の様子を見守った。
「坊やが」
ヒルダの声が、乾いたように掠れた。
「孫の坊やが……帰ってくるって」
「帰って? このリンデンブルクにですか?」
「ああ。春になったら、だとさ。向こうの鉱山が閉じるらしい。鉱脈がすっかり枯れてしまって、職人たちの仕事がなくなった。だから、嫁と小さな曾孫を連れて……この街に戻るって」
ヒルダの目から、大粒の涙がぼろりと落ちた。
ドワーフという種族は、強い酒に酔うとよく泣き、よく笑う。
だが、今日の彼女は完全に素面だ。僕の出したお湯しか飲んでいない。
それでも涙は止まらず、便箋にぽたぽたと丸い透明な染みを作っていった。
「ずいぶんと長いこと待ったよ……もう、年を数えるのもやめてたのに。あたしが生きているうちは、二度と会えないと思ってたのに……」
その時。
背後で、コンラートが奥の椅子から無言で立ち上がった。
痛む膝を庇いながら、ゆっくりとした足取りでカウンターの中を移動し、戸棚のずっと奥から何かを取り出した。
年に一度、店の誕生日にしか出さない蒸留酒の瓶だ。
「朝っぱらから飲むのかい、この偏屈爺さん」
ヒルダが濡れた目でこちらを見て、くしゃりと笑った。
「お前がそんなにボロボロ泣くのは、滅多にないことだろうが」
コンラートは不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、グラスを二つ出した。
「祝い酒くらいは、出してやる」
「祝いなのかい、これ」
「祝いだろうが。空っぽだったお前の家に、家族が帰ってくるんだ」
コンラートはグラスに琥珀色の酒を並々と注いだ。
一つをヒルダの前に置き、一つを自分の前に。
そして僕の前には、いつもヒルダが飲んでいるのと同じ、熱いお湯を一杯だけ置いた。
「お前は飲むな。昼から客が来る。酔っ払ったガキの淹れた紅茶など出せるか」
「分かっていますよ。僕の身体は酔いませんから、飲んでもいいんですけどね」
僕たち三人はグラスとマグカップを静かに掲げた。
ヒルダは涙を拭きもせずに強い酒を一息に飲み干して、それから、また泣いた。
今度は声を上げて。
ドワーフの泣き声は低くて太くて、お世辞にも美しいとは言えない。
壁の時計たちが刻む音を完全にかき消してしまうほど、激しくて不格好な泣き声だった。
「うるさいぞ、クソババア」
コンラートが憎まれ口を叩いた。だが、その声はいつになく柔らかかった。
「うるさくて悪かったね……!」
「悪いと言ってない。もう一杯飲め」
コンラートが二杯目の酒を注いだ。
瓶を持つ老人の手が、小刻みに震えているのが見えた。重い酒瓶を支えきれないからなのか、それとも別の理由からなのか。
僕はカウンターの中に戻って、さっき磨き終わったはずの茶器を、もう一度無意味に磨き始めた。
そうして手を動かしていないと、なんだか僕の目からまで、余計な水滴がこぼれ落ちてしまいそうだったからだ。
ヒルダの孫が帰ってくる。
誰もいなかった冷たくて空っぽの家に、再び賑やかな足音が戻る。空いていた椅子に、誰かが座る。
それは途方もなく嬉しいことだ。
……ヴィルヘルムの家は、今も空のままだ。
息子たちは南と東へ帰り、あの窓辺で時計塔を見上げる者はもう誰もいない。
組合に処分が任されたあの家は、春になれば全く見知らぬ他人の手に渡るだろう。
同じ家族という言葉でも、その結末はこんなにも違う。
帰ってくる孫と、二度と帰らない息子。
再び埋まる椅子と、永遠に空いたままの椅子。
人生に法則なんてない。
あるのは、それぞれが選び取った個別の物語だけだ。
それは、大公邸での長い日々の終わりに、フィレーネが僕に教えてくれたことの一つだった。
♢ ♢ ♢
午後になって、すっかり機嫌良く酔っ払ったヒルダの横にミーシャがやってきた。
彼女はヒルダの真っ赤な目を見て、すぐに何かを察した。この子は本当に空気を読むのが早い。
「ヒルダおばあちゃん、何かあったの?」
「おばあちゃん言うな。あたしはまだまだ若いんだよ」
「でも、ドワーフの寿命からしても結構いいお歳でしょ?」
「人間で言えば、ちょうど脂の乗った頃合いだよ」
「じゃあ……ヒルダおばさん?」
「……まあ、それで許してやるよ」
ミーシャはヒルダの隣の席に座り、彼女から直接「孫が帰ってくる」という手紙の話を聞いた。
聞きながら、彼女の背中の大きな灰色の尻尾が、ゆったりと左右に揺れている。
他人の嬉しさに反応して、自分のことのように尻尾を振る。リス族の共感力の高さは、耳と尻尾に嘘のように正直に表れる。
「よかったねえ、ヒルダおばさん! 曾孫ちゃんにも会えるんだね!」
「ああ。春になればね」
「春かあ。じゃあ、あたしの屋台で歓迎会しなきゃ!」
「あんたの屋台で歓迎会かい?」
「いいじゃん! 広場の噴水の前で、みんなで焼き栗と栗の雫食べるの。歯車猫亭の美味しいお茶とセットでさ! リアンくん、絶対に出張してよ!」
「歯車猫亭の出張ですか」
僕が奥の椅子を見ると、コンラートは目を閉じて腕を組んでいた。
居眠りではない。僕たちの会話をしっかりと聞いている。
「勝手にしろ」
低い声で許可が出た。
ミーシャの尻尾が、またポンッと大きく膨らんだ。
夕方、客が引いて店を閉めた後。
ヒルダは帰り際、カウンターの上のヴィルヘルムの小さな置き時計を、愛おしそうにじっと見つめた。
「ヴィルヘルムの爺さんにも……聞かせたかったね。この話」
「聞いてますよ」
僕は布巾でカウンターを拭きながら言った。
「この時計が動いている限り。僕たちがこの店で話したことは、全部彼に届いているはずです」
ヒルダは少しだけ驚いたように僕を見て、それから、分厚い唇を噛み締めた。
泣くのを堪えている時の顔だ。今日、これで三度目。
「あんた、時々本当に、心に刺さるいいことを言うね」
「僕は口下手なので、たまにしか言えません。だから、聞き逃さないでくださいね」
「ふん。生意気な坊やだよ、まったく」
ヒルダは僕の頭を力強く叩いて、店を出ていった。
足取りは、朝店に入ってきた時よりもずっと軽やかに見えた。手紙を胸にしっかりと抱きしめて、通りを歩いていく。
彼女の吐く白い息が、ガス灯の温かい光に溶けて消えていった。
♢ ♢ ♢
一人になった暗い店内で、僕は無数の時計が刻む音を聞いていた。
カチ、コチ。
こち、こち。
いくつものリズム。全部違う速さで、でも全部が同じ未来」いう方向に向かって進んでいる。
春になれば、ヒルダの孫が帰ってくる。
このリンデンブルクの街に、新しい足音が増える。
空いていた椅子が誰かに埋められるのではなく、新しい椅子が一つ、この街に増えるのだ。
それは、僕がこの街に来てから初めて見る明確な始まりだった。
ヴィルヘルムの死は、一つの終わりだった。
コンラートの衰えは、逃れられない終わりの予感だった。
だが今日、あの便箋が持ってきたのは、疑いようのない始まりだ。
終わりと始まりが、同じ場所にある。
同じ茶店のカウンターに座り、同じ紅茶を飲みながら、誰かが静かに去っていき、そしてまた新しい誰かがやって来る。
──歯車猫亭とは、きっとそういう場所なのだ。
僕は小さな真鍮の鍵をポケットに入れ、裏口から店を出た。
凍えるような雪の中を歩いて、菩提樹亭へと向かう。
明日の朝も、僕の一日は置き時計のネジを巻くことから始まるのだ。




