第七十二話 コンラートは、褒めない
夏。
歯車猫亭の夏は去年より忙しかった。アイスティーの評判が定着して、午後の客足が途切れない。
コンラートは増席を断固拒否した。
「これ以上席を増やしたら茶店じゃなく酒場だ」
「酒場の方が儲かりますよ」
「金の話をするな。わしは紅茶を淹れたいんであって、商売がしたいわけじゃない」
この台詞だけ聞けば頑固な老人だが、僕は知っている。本当の理由は腰だ。今の規模を回すだけで精一杯なのだ。それ以上は身体が持たない。
コンラートは自分の限界を棚の配置で誤魔化しているが、動作の一つ一つが去年の夏より遅くなっている。
だから僕は何も言わず、コンラートが座っている時間を少しずつ増やした。
仕込みは僕がやる。水瓶も、茶葉の管理も、カップの洗浄も。コンラートの仕事は「味の最終確認と客を睨むことに絞られていった。
本人は気づいているのか、いないのか。
たぶん気づいている。気づいた上で、黙って椅子に座っている。
ある午後、珍しいことが起きた。
コンラートが僕の淹れた紅茶を飲んでカップを置いた後、小さく頷いた。
頷いた。
これだけなら日常の動作だ。だが、この老人が、他人の淹れた紅茶を飲んで頷くことの意味は、軽くない。
ヒルダなら「奇跡だ」と言うだろう。ミーシャなら尻尾を膨らませて爆発させるかもしれない。
僕は聞かなかった。何点ですか、とも。美味しかったですか、とも。
聞けば壊れる。この老人の無言の承認は、言葉にした瞬間に価値を失う。
コンラートは何も言わず、次の客のカップに目を向けた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
夕方、ミーシャがテラスに飛び込んできた。尻尾が左右に振れている。嬉しいことがあった時の振り方だ。
「リアンくん!あのね、マロンクリーム!」
「できたんです?」
「できた!味見して!」
小さな陶器の壺を差し出された。蓋を開けると薄茶色のペーストが詰まっている。
香りは悪くない。栗の甘みが立っていて、余計な砂糖の匂いがしない。
指先で少しだけ掬って、舌に載せた。
(へぇ……)
栗の食感を残しすぎている。もう少し滑らかに潰した方が、パンに塗った時に馴染む。
だがこの粗さには粗さの良さがある。素朴で、手作り感があって、屋台の商品としてはむしろ正解かもしれない。
「どう?どう?」
「八十点ですね。この粗さが素晴らしい」
「粗さがいいって、褒めてるのかけなしてるのか分かんないけど」
「褒めてるんですよ、もちろんね」
ミーシャの尻尾が膨らんだ。美味しい時と嬉しい時で膨らみ方が違うことに最近気づいた。嬉しい時の方が、根元からふわっと広がる。
「秋から出す!焼き栗とセットで!名前も考えなきゃ」
「マロンクリーム・パンでいいんじゃないですか?」
「ダメダメ、もっとこう、かわいい名前がいい。えーと……栗のおひさまパン、とか」
「……センスについては何も言わないでおこうかな」
「ひどい!」
ミーシャが頬を膨らませて、カウンター越しに僕の肩を叩いた。力加減が獣人にしては控えめで、リス族の腕力の限界が見える。
「ねえリアンくん。一緒に考えてよ。ネーミング」
「あのぅ。もしかして僕にセンスがあると思ってます?」
「リアンくんはセンスっていうか、的確じゃん。なんか変な点数付ける癖があるけど、数字がいつも当たってるもん」
的確。その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
フィレーネにも同じことを言われたことがある。
「……栗の雫、とかはどうです?」
「くりのしずく。……あ、かわいい!いいかも!」
尻尾が爆発した。根元から先端まで、ぶわっと。近くの客が驚いて振り返るほどだった。
「それにする!栗の雫! リアンくん天才!」
騒がしい。だけど、嫌な騒がしさではない。
大公邸の静けさとは対極にある賑やかさで、リンデンブルクの空気そのものだった。
♢ ♢ ♢
秋になった。
「栗の雫」は想像以上に売れた。
ミーシャの屋台に行列ができて、広場の噴水前に並ぶ客を見てミーシャ自身が一番驚いていた。
焼き栗と栗の雫パンのセットが看板商品になり、夕方には売り切れる日もあった。
「リアンくん、見て見て!今日も完売!」
毎日報告に来る。屋台を畳んだ後、歯車猫亭に駆け込んできて、その日の売上を嬉しそうに話す。僕はミルクティーを出しながら聞いている。
「いい調子ですね」
「でしょ?来年はもう一品増やしたいなぁ。栗のスープとか」
「栗のスープ……いいですね。冬場にいいかもしれません」
♢ ♢ ♢
十一月。
風が冷たくなり、コンラートの腰が再び悲鳴を上げた。
今度は去年より重かった。朝の仕込み中に膝を突き、五分間動けなくなった。
僕が駆け寄ると、老人は歯を食いしばって手を振った。
「触るな……!」
「触りません。でも、今日は座っていてください」
「……わしの店だ」
「コンラートさんの店です。だからこそ、店主が倒れたら終わりです」
「……」
コンラートは長い間、床に手をついたまま動かなかった。
壁の時計がカチコチと鳴っている。八つの時計。八つのリズム。
カウンターの上の小さな置き時計が、一番静かに刻んでいる。
やがて老人は顔を上げた。
「お前に任せる」
一言だった。
長年一人で守ってきた店を、たった一言で明け渡した。その一言がどれだけ重いか、コンラート自身が一番分かっていたはずだ。
「かしこまりました」
その日から、歯車猫亭は僕が回した。
コンラートは奥の椅子に座って、僕の仕事を見ている。口は出す。手は出さない。
一人で店を回す僕を見て、コンラートが言った。
「まだまだだな」
コンラートが鼻を鳴らした。
「はい。まだまだです」
「百年早い」
「百年後もたぶん、同じこと言いますよ。僕は」
コンラートは一瞬だけ目を見開いて、それからゆっくりと息を吐いた。
「……そうか。お前は、そうだったな」
百年後もここにいる。コンラートがいなくなっても。ヒルダがいなくなっても。ミーシャがいなくなっても。トビアスが去った後も。
僕だけが……この店で紅茶を淹れ続ける。
その事実を、コンラートは今、初めて実感したのだろう。
エルフだと知ってはいた。長く生きることも知っているだろう。
「百年後」という具体的な時間を突きつけられて、ようやく理解した。
老人の表情が少しだけ変わった。
不機嫌の下に何か別のものが混じった。それが何なのか、僕には分からなかった。安心なのか、哀しみなのか。
それとも……。
「コンラートさん」
「何だ」
「紅茶、淹れましょうか」
「……ああ。頼む」
二杯分を淹れた。いつもの蒸らし、いつもの温度。カウンターに並べて、向かい合って飲んだ。
不思議だ。客に出す紅茶は九十点を超えるのに、コンラートと二人で飲む時だけ七十点に落ちる。
たぶん、この老人の前だと手が少しだけ緊張するのだ。
彼の人生の重みが、僕の指先を三度分だけ狂わせる。
でも、今日はそれでいい……。
コンラートは何も言わなかった。不味いとも、美味いとも。
ただ飲んで、カップを置いて、もう一度小さく頷いた。
二度目の頷きだ。




