第七十一話 八つ目の時計
ヴィルヘルムがいなくなって最初の春が来た。
歯車猫亭の日常は驚くほど変わらなかった。コンラートは不機嫌な顔で茶葉を量り、ヒルダはお湯をすすり、ミーシャは尻尾を振ってアイスティーを頼み、トビアスはダージリンを飲みながらペンを仕舞い忘れて怒られる。
窓際の席には別の客が座るようになった。
鍛冶組合の若い職人で、名前はルッツ。犬族の獣人だ。
垂れた茶色の耳と太い首、大きな手。無口だが、紅茶を飲む時だけ尻尾が小さく揺れる。ミーシャほど派手ではないが、獣人の正直な身体反応は隠しきれないものらしい。
ルッツがヴィルヘルムの席に座ったのは偶然だった。だが二日、三日と続くうちに定位置になり、一週間もすれば「ルッツの席」になっていた。
人間の──いや、生き物の習慣というのは、そうやって隙間を埋めていく。空いた椅子は、いつか誰かが座る。
それが嬉しいのか寂しいのか、僕にはまだ判断がつかなかった。
ある朝、開店前の仕込みをしていると、コンラートが棚の奥から何かを取り出した。布に包まれた、手のひらサイズの四角い箱。丁寧にほどくと、中から小さな置き時計が現れた。
古い時計だった。真鍮の枠が酸化して深い飴色になり、文字盤のガラスには細かい傷が入っている。だが針は動いていた。
「それは?」
「ヴィルヘルムが作った最初の時計だ」
コンラートは時計をカウンターの上に置いた。壁の七つの時計と違い、目線の高さにある。客がカウンターに座れば、自然と目に入る位置。
「あいつが修行から帰ってきた年に、わしの開店祝いで寄越した。四十年前だ。『お前の店は時計がないと寂しい』と言ってな」
「四十年間、しまっていたんですか」
「壁にかけるには小さすぎた。だから棚にしまって、時々ネジを巻いていた」
時々。四十年間、時々。コンラートはこの時計を壁にかけなかったけれど、止めもしなかった。ネジを巻き続けていた。誰にも見せず、誰にも言わず。
「今日から出しておく」
コンラートはそれだけ言って、仕込みに戻った。
八つ目の時計。
壁の七つと違い、カウンターの上で静かに刻んでいる。音は小さい。壁の時計たちの不揃いな合奏にかき消されそうなほど。
だが耳を澄ませれば聞こえる。
カチ、コチ。
他の七つとは違うリズム。ヴィルヘルムの指が組んだ歯車が刻む、独自の拍子。
午後、ヒルダが来た。カウンターに座って、すぐに気づいた。
「あら。この時計、見たことないね」
「ヴィルヘルムさんが作ったものです」
「ヴィルヘルムが? ……へえ」
ヒルダは時計にしわだらけの手を伸ばしかけて、やめた。触れずに、じっと見つめた。文字盤のガラスに映る自分の顔を見ているようにも、針の動きを追っているようにも見えた。
「動いてるね」
「コンラートさんが四十年間、ネジを巻いていたそうです」
「……あの偏屈がね」
ヒルダはお湯をすすった。いつもより少しだけ、ゆっくりと。
ミーシャは時計を見て目を丸くした。
「かわいい!ちっちゃくて、あったかい音がする」
「あったかい音?」
「うん。壁のはカチコチって冷たい感じでしょ? これはもっと……こち、こち、って。丸い感じ」
感覚的な表現だが、分からなくもない。壁の時計は機能的で正確だが、この小さな置き時計には手仕事の温もりがある。歯車の噛み合わせが少しだけ柔らかいのだ。精度はわずかに劣るが、音に角がない。
ルッツは時計をじっと見て、一言だけ言った。
「いい仕事だ」
鍛冶師の言葉は短い。だがその一言に込められた敬意は、長い弔辞より重かった。
トビアスは時計の前で長い間黙っていた。それから、ノートを開かずに言った。
「この時計のこと、覚えておきます」
「記事にします?」
「しないよ。でも覚えておく。二百年でも」
閉店後。
コンラートは時計のネジを巻いた。小さな鍵を差し込んで、ゆっくりと、三回転半。多すぎず、少なすぎず。四十年間で身についた加減だった。
「明日からはお前が巻け」
「僕がですか」
「わしが死んだ後、誰が巻くんだ」
「……っ」
直球だった。
コンラートは回りくどいことを言わない人だ。だが「わしが死んだ後」という言葉を、こんなに平然と口にされると、こちらの心臓の方がもたない。
「三回転半だ。それ以上巻くとゼンマイが傷む。手加減を覚えろ」
「……はい」
鍵を受け取った。真鍮製で、親指の爪ほどの大きさ。ヴィルヘルムが四十年前に作り、コンラートが四十年間使った鍵。今日から僕が引き継ぐ。
三回転半。覚えた。
帰り道、鍵をポケットに入れて歩いた。小さくて軽い。こんな小さなものが、一つの時計を動かし続ける。ネジを巻く人がいる限り、時計は止まらない。
約束が増えた。
五十年後に鍛冶組合の時計塔を見届けること。そして毎日、小さな時計のネジを三回転半、巻くこと。
ヴィルヘルムが遺したものは二つの時計だ。
一つは街の時計塔に、一つは歯車猫亭のカウンターに。
どちらも動いている。どちらも誰かがいる限り止まらない。
菩提樹の並木を抜けて、宿への道を歩いた。ポケットの中で鍵が指に触れるたび、小さな金属の冷たさが伝わってくる。
フィレーネが遺したのは紅茶の記憶だった。アレクシスが遺したのは静かな信頼だった。シャルロッテが遺したのは「幸せになりなさい」という命令だった。
ヴィルヘルムが遺したのは時計だ。
全部違う形で、全部同じことを言っている。
止まるな。
回り続けろ。
お前が止まったら、全部止まるぞ。
菩提樹亭の自室に着いて、窓を開けた。春の夜風が入ってくる。遠くで時計塔の鐘が鳴った。十時。正確だった。
ポケットから鍵を出して、机の上に置いた。明日の朝、歯車猫亭に着いたら最初にやること。ネジを巻く。三回転半。
それから水瓶を運んで、火を起こして、湯を沸かして、茶葉を量って。
いつもの一日を始めよう──。




